本日経由、昨日⇔明日

 カーブに合わせて寧々の身体が通路側に傾ぐ。類は片手で寧々の頭を包み、やんわりと自分の肩に載せた。
 列車の窓から見る景色は黒に沈んでいる。どこまでも茂る山林を眺める代わりに、類は手元のメモに目を落とす。左耳から寧々の浅い寝息が聞こえる。まるでメトロノームみたいに規則的だな、と類は微かに頬を緩めた。

 

「類、急で悪いんだけどこれ一緒に来て」
 寧々が神代家のチャイムを押したのは、ちょうど三日前の夜分遅くだった。手にしていたのはコンビニで発券したらしい何かのチケット。
「狙ってた東京公演が秒で満席になっちゃって……! 地方公演なら残席があったんだけど、お母さんに一人でそんな遠いところに行くのはダメって言われて、つい『類がついてきてくれるから平気』って返しちゃって」
 寧々は玄関先で忙しく両手を動かす。類はとりあえず彼女を中に上げてやって、茶を振る舞いながら件のチケットを確認した。
「十五時からで上演時間は三時間か。確かに戻る頃には夜も深いな」
「ごめん、勝手に取っちゃって……類に予定があるなら、わたしもいい加減諦める」
 寧々はカップを握りしめて俯いた。
 類は片手を口許にやり、利き手の指でスマホをリズミカルにタップしていく。
 この劇団は支払い済みのチケットを正式に売買できるシステムを持ってはいるが、それほどいい席でもなし(しかも後から追加で取ったせいで連番ではない)、公演日が近すぎるうえに残席があるのでは取引も難しい。寧々の資金も潤沢ではないはずだし、高額なチケットが二枚もゴミになるのは気の毒だ。
 会場の最寄り駅までアクセスを調べる。最安ルートで片道四時間……寧々が疲れてしまうので却下。新幹線を使って二時間コース、これだ。上手くすれば二十一時頃には帰れる。高校生の遠出としては許容範囲だろう。切符代も、この程度なら一応は。
 類はブラウザを落として寧々に向き直った。
「ぜひ同行させてもらうよ。移動のチケットは僕が取る、ということでいいかい?」
「うん、この券自体はわたしのおごりで。ありがと」
 寧々の頬にようやく血色が戻る。笑み返しながら類は、そういえば肝心の演目をチェックするのを全く忘れていたことに気がついた。まぁいい。寧々がこんなに固執するぐらいだ、きっと素晴らしいショーに違いない。
 類はスマホをポケットに入れ腰を上げた。
「送ろう。顔を見せておかないと、僕が本当に一緒に行くと信じてもらえないかもしれないからね」
「確かに、お母さんと話してすぐコンビニ行ったから、口から出まかせだってバレてるかも……」
 寧々は眉を下げて、祈りでもするように自分の左手を右手で包んだ。
「……ごめんね」
 類は黙って寧々の後ろに立つ。類がこの年下の幼なじみを邪険にしたことなどないはずなのに、謝られるとは心外だ。
 寧々の両手を外して、指を握ったまま無理やり『わんだほーい』のポーズ。
「僕が観たいからついていくだけさ。それに、これぐらいのお願いを断るようじゃ、寧々の幼なじみという輝かしい経歴に傷がつく」
「なに、その言い方。司みたい」
 寧々は肩越しに類を見上げて、ありがと、と目を細める。類は頷いて、寧々が上着を取りに自室に向かった。
 ――じゃあ司くんに頼む、なんてことになっても面白くないからね。
 余計な一言は胸にしまってクローゼットを開ける。
 さぁ、どうやって我らが歌姫をエスコートしようか。

 

『次の停車駅は……途中で……にお乗換の方は……』
 無機質なアナウンスが届いたのか、寧々の頭がふらふら揺れる。そのまま首をめぐらせ、類の顔に焦点を合わせて寧々は止まった。
「ごめん、寝ちゃってた」
「疲れているのさ。寧々はときどき努力家すぎるからね。まだ一時間ぐらいかかる、もう少し寝るかい?」
「ううん、起きる……」
 寧々は指の背で両目を擦っている。類は先程の車内販売で買っておいた水を寧々に手渡す。寧々は短く礼を言って、一気にペットボトルの中身を半分飲み干した。ぷは、を息をついた口を尖らせ、寧々は長い髪を片手でいじり始める。
「やだな。わたし、類に甘えてばっかりで。パンフだって結局買ってもらっちゃったし」
「いいんだよ。僕もずっと寧々を助けてあげられるわけじゃない」
 声に出してから失敗したと思った。ありふれたトーンで告げたつもりの言葉が、予定より深刻な色を帯びた。類は苦みを奥に潜めて、窓に映る自分と静かに対面する。
 兄気取りで寧々の手を引いて歩けるのも今のうちだけだ。寧々はもう踏み出す足を持っているのだから、時が追い付けばどこへだって一人で走って行ける。それは次の日がくれば明日が今日になるのと同じぐらい自明のことで、神代類の感傷が差し挿まれる筋の話ではない。
「そうだよね」
 無表情で黙る類の奥、ガラス越しの寧々はまっすぐに前を見据え頷いた。
「わたしももっと類を助けられるようにがんばる。いつまでも子供じゃないんだから、一方的に引っ張ってもらってばっかりじゃだめだもの」
 類の頭が真っ白になる。その後で大量の疑問符が脳内を跳ね回る。
『この先、電車が急なカーブがございますので……』
 アナウンスが終わるが早いか車両が振れ、類は無防備な額をしたたかに窓へ打ちつけた。
「ちょっと類、大丈夫!?」
 寧々が腕を揺さぶってくる。類は返事もできずに笑い始めた。
「えぇ? やだ、本当に変なとこぶつけた?」
 寧々の訝しげな声。類は息を整え、大して倒れない背もたれに身を沈める。
「変、というのが具体的にどこを指すのかは分からないけれど、とりあえず僕に問題はないよ」
 いつもと違う、という意味の『変』ならば今の一撃で砕け散った。ワンダーランズ×ショウタイムの演出家としての調子ならばすこぶるいい。
 類は笑みを口許だけに残して、一度閉じたメモをまた開く。使い慣れたペンでとんとんと紙をつつく。
「さて、それじゃあ早速助けてもらおうか。今日の体験を僕らのショーに活かすには、どんな方法があると思う? 寧々」
 寧々はやわらかく相合を崩して、類の手からペンを抜き取る。
「例えばだけど。クライマックスのあの演出を、こういうシーンで使えたら――」
 眠っている人に配慮して、類と寧々は小声でアイディアを交わし合う。首をひねって、目を丸くして、音を出さずに手を叩いて、口唇だけで歌を紡ぐ。
 随分大人になったと思っていた。これからもっと大人になると諦めていた。それもある種の事実なのだろう。
 だとしても、寧々と過ごす時間には、公園の遊具の中で息をひそめて空想した世界が、特別な夢の欠片がまだきらめいている。
 夜を走る列車。外にはやがて人々の明かりが灯る。輝きに満ちた街まで、二人は同じ想いをあたためて帰っていく。