アルペジオ

 ショッピングモールの広場にはグランドピアノが置いてある。
 イベントで活用されるのはもちろん、ストリートミュージシャンや動画配信者が弾いていることもある。
 志歩がわざわざ遠回りしたのも、また演奏している人間がいるかもしれないと思ったからだ。ほとんどは素人の手慰みだが、たまに馬鹿にできないのがいる。
 通りすがりに視線をやると、吹き抜けの中央はすっかり空いていた。
 ――なんだ、今日は誰もいないのか。
 志歩は軽く落胆して足を速める。すると、志歩の二倍は早足でピアノに向かっていく人影があった。彼は乱暴な手つきで椅子を引く。大股でどっかと座って両手を鍵盤に叩きつける。
 勢い任せの騒音は、一秒と待たず整った旋律になった。
 志歩は立ち止まり、遠くから彼の演奏を眺める。
 ――何してるんだろ、司さん。
 今の天馬司の弾き方は、普段のうるさい自己顕示とは違っている気がした。
 そこ腕交差させる必要なくない? というところで無駄に動きをつける鼻持ちならなさは見慣れた司だけれど、眉間にしわを寄せ口を引き結んだ表情はいつものものではない。焦って……いや、怒っている?
「おや。君は確か、司くんの妹さんの……」
「うわ」
 思いがけない高さから話しかけられて、つい失礼な声が出てしまった。
 神代類。咲希に連れられて司の出演するショーを観に行ったとき、一緒にステージ上にいた男だ。
「今日は一人かい」
「ええ、まぁ」
「僕らは四人で劇の小道具を買いに来た……は、いいんだが、僕も寧々もえむくんも途中でうっかり司くんの存在を失念してしまってね」
 ……それで集合をかけているのか。電話をするより確実だと考えたのだろう。
 司はこちらに気付かずピアノを弾き続けている。神代は司の注意を惹く様子もなく志歩の隣に陣取る。
「どうかな、君から見て司くんの演奏は」
 志歩はきゅっと口唇を締めた。なるべく関わり合いにならずに帰りたいが、音楽について振られて適当に濁すわけにはいかない。司と同じぐらい眉をひそめて腕を組む。
「ほんと、調子乗るから本人には絶対言いたくないですけど。暗譜であそこまで正確に、メリハリもつけて弾けるのはすごいと思います。アルペジオも……咲希はあんなに綺麗には弾けない」
 司の両手は撫でるように白鍵を黒鍵を駆け上がっていく。耳障りな音は一つも混じらない。
 解っている。技術は時間の前で嘘をつけない。咲希が病気と向き合ってきた間も、司はピアノと向き合ってきたのだ。そして志歩は司のそれよりも真剣にベースと向き合ってきた。だからといって、好きなものを食べて好きなときに眠り好きなときに練習をしてきた志歩が、咲希の遅れを得意げに指摘できるはずもないのに。
 神代がにやにやと志歩を見下ろしてくる。
「だったら、司くんもバンドに?」
「冗談」
 志歩は神代を見ずに吐き捨てた。熱心に鍵盤を叩く少年をじっと注視する。
 咲希がこんな演奏を始めたらと思うと足がすくんだ。他人の関心を惹くためだけの荒々しい音の並び。志歩がもし別れを告げたら、咲希の奏でる軽やかな旋律はこの硬い抗議の色に染まってしまうのだろうか。
 志歩は服の胸の辺りを強く握りしめた。
 神代と並んで、悄然と司の音を浴びる。向こうからまだ小学校にも上がっていないような少年が歩いてくる。母親らしき女性に手を引かれ司を指差す。『あのおにいちゃん、こわい』? 無理もない、志歩だって――。
「ママ! みて、あのおにいちゃん。カッコいい!」
 少年が大声で叫んだ途端、だん、と司が転調した。淀んでいた音の質がいきなり変わる。汚泥を脱ぎ捨てたようにシャープに加速する。司の表情は……ああ、にやつきたいのを必死でこらえているときのやつ。
「司くん! さっきのシャラシャラ~っていうの、もっとやって!!」
 鳳えむが三階の通路から身を乗り出して(危ないと思ったら後ろから草薙寧々が引っ張っていた)声援を送ると、司の旋律からは棘も暗さも見事に消え去った。
「ちょっろ……」
 志歩の喉から本音が漏れる。神代は鳳たちに手を振りながら、静かな声で呟く。
「司くんのいいところじゃないかな。不機嫌を引きずっても誰にも得なんてない」
「そういうもんですか」
 訝る志歩の鼻先で、鮮やかな音符が次々に弾けて溶けていく。イベントホールを満たす華やかな空気は、吹き抜けを通じて各階をくまなく彩っていく。
 強引で、快活で、楽しくてたまらないのを隠しもしないメロディ。
 司の影ひとつない笑顔を見ながら、そういうところ、と志歩は口の中で毒づいた。
 志歩は幼い頃、泣いた後、怒った後、上手い機嫌の直し方が分からなかった。正直、今でもよく分からない。
 咲希は違った。まだ頬に水滴の残っているうちから、太陽みたいににこにこ笑う。
『さき、もうかなしくないの?』
『うん! だっていまは、しほちゃんといっしょだもん!』
 もし咲希がケンカの後に笑いかけてくれなかったら。
 もし咲希をほとんど見舞わなかったことをずっと責められていたら。
 そんな『もし』があれば、志歩は咲希とはいられなかった。一歌とも穂波とも目を合わせないままだった。
 咲希が赦してくれたから。一歌が諦めないでくれたから。穂波が勇気を出してくれたから。三人が志歩の手を離さないでくれたから、今がある。
「帰るのかい? もう終わるところのようだけれど」
 神代が首を傾げる。司も何か言いたげな視線を向けてきている。
「だから帰るんです。司さんに感想とか訊かれたくないし」
 志歩は一礼してその場から駆け出した。人の流れに逆らって風を切り、片手の甲を口許に押し付ける。
 ――やばい。一人で笑ってるなんて司さんみたいじゃん。
 誰もいなくなったところでスマホを取り出し、『Untitled』を再生した。志歩は白い光に抱かれてゆっくりと目を閉じる。
 鼓膜を揺らすのは澄み渡った歌声、穏やかで心地よいリズム、そして司よりまだ少し下手な鍵盤。
 そこに志歩の音を足したら、Leo/needの色になる。