12話 Thirty Pieces of Sunset - 1/10

サーティ・ピーシーズ・オブ・サンセット

 柏木(かしわぎ)夢子(ゆめこ)にとって赤という色は特別だった。自分の身体から流れ出る色であり、安い借家に射し込む強い西陽の色。
 その日、背の高い少年が立っていたのも地獄のように赤い部屋だった。
「何してるの? ここ、写真部の活動場所よ」
 夢子が声をかけると、少年は野暮ったい眼鏡を両手で直した。
「すみません。声をかけたのですが、誰もいなくて」
 その癖で思い出した。同じクラスの男子……名前はそもそも記憶にない。夢子が教室に行っている間に、暗室に迷い込んでしまったらしい。忘れ物を取るだけだからと施錠を怠るのではなかった。
「現像するから出ていってほしいんだけど。入部希望なら部室に行ってちょうだい」
 夢子は苛立ちを隠さず言った。
 先輩たちがおしゃべりに興じているうちに、集中して作業してしまいたいのだ。『使用中』の札を下げておけば、火事でもない限り先輩も教師も入ってこない。この部屋は、世界は、夢子一人のものになる。
「僕は見ていてはいけませんか。静かにしますから」
 少年の口調は穏やかだった。熱意も好奇心も差し迫った様子もなく、懐かしむように控えめに言った。
 問答をする時間が惜しい。夢子はやむなく頷き、作業台を囲む遮光カーテンを閉めた。
「暗くするからじっとしていて。歩いたり何かに触ったりしないでね。五分ぐらいしたら、安全光だけまた点けるから」
「はい。すみませんでした、ライト勝手につけてしまって」
 少年は部屋の隅に移動し、大きな身体を畳んで膝を抱えた。口許には笑みが浮かんでいた。
 灯りを消したら、夢子も彼の隣まで行ってそっとしゃがんだ。足が覚えているから暗闇でも歩ける。
「君は何を撮りますか?」
 無邪気に問われて、何を言っているのかと一瞬考えた。
 被写体を尋ねているのか。なんだか妙な訊き方をする。
「普通よ。空とか、街とか、みんなが撮るようなもの」
「君の撮るようなものは?」
 少年の重ねた質問はやはりどこかずれていて、そのくせ夢子が他人に隠しているところを見事に突いた。
 夢子は伸びすぎた前髪を忙しく指で払う。
「それより、どうしてこんな暗くて何もない部屋にいたの」
「友達を思い出して。僕は現像をよく見ていました。落ち着きます。茜色はどこにいても同じの、夕焼けみたいで」
 訥々とこぼれる言葉は、夢子の意思とは関係なく胸の奥まで入り込んでくる。毎日のように訪れる、茜色の夕焼けと同じように。
 夢子は制服のスカートを強く握りしめた。
「あなたの日本語、少しおかしいわね」
「そうですか。親は小学生のままだと呆れますね」
「でも、嫌な感じはしないわ」
 暗闇を共有しているせいだろうか。名前も知らない分際で気安いことを言ってしまった。
 そうですか、と彼の笑う息が密やかに空気を揺らした。
「六年生から九年生までアメリカにいました。帰ってきたばかりです。騒がれたくなくて、言わずにいます」
 ああ、そうか、と夢子も得心がいった。『ガイジン』だ。
 クラスの連中が陰で笑っていた子。彼のことだったのか。
「だったらどうして、わたしに話したの?」
「だって、君は僕をじろじろ見てきたことがないから」
 深い声だった。夢子は思わず立ち上がって安全灯のスイッチを入れていた。少年がどんな顔をしているのか見たかった。急に動きすぎたせいか彼の表情は驚きに塗り替えられてしまって、黒縁眼鏡の奥で瞳孔が開いているのがはっきり分かった。
「わたし、あなたの名前も知らないのよ」
 早口で言い捨てる。少年は傷ついた顔もせず、ただ和やかに微笑んだ。
新田(にった)総志(そうし)です。柏木夢子さん」
 赤い、赤い部屋。夢のように凶悪で愛おしい場所。

 桜原(おうはら)太陽(たいよう)にとって、放課後こそが本物の時間だった。
 人も、場所も、太陽が抱えたいものは誰にも縛られない時間にこそ揃っていた。揃えるようにしていた。
 その日、藤谷(ふじや)美映子(みえこ)と二人きりになった理由を、細かくは思い出せない。
 清潔に整えられた爪先が藁半紙の上を行き来するのを見ていた。茜色に染められた教室に、藤谷は一人残って作業をしていた。
「桜原君、いるなら製本手伝ってよ」
「やだよ。紙なんかいじって指切ったらどうすんだ」
「ほんと、野球のことしか頭にないんだから」
 ぼやいた藤谷もこちらに顔を一度も向けなかったから、太陽の手を期待して言ったわけではないのだろう。太陽は机に寄りかかり、藤谷が八枚の紙を一つにまとめるのを眺めていた。もっと正直に言えば彼女の横顔を。
 切れ長のまぶたを縁取る睫毛は黒々と長く、海外の女優とまではいかないまでもおもちゃの人形並には整っていた。首はすらりと細く、こんなので頭を支えられるのかと心配になる。露出したうなじよりも、高く結い上げた癖っ毛の方が目を惹いた。
「どうせ文化祭の仕事も、真面目にやる気はないんでしょう」
 積まれていく『文化祭のしおり』。左手首のねじ巻き式の時計。針は光の反射で見えない。
 西陽を含んで揺れる、豊かな長い髪。母の仏壇に使われている黒檀に似た、不思議な光沢を放つ黒まじりの茶色。
 太陽は音を立てずに彼女のそばまで歩み寄った。ゆっくりと腰をかがめる。気付いた彼女の顔に自分の影が差す。
 昏い、昏い部屋。夢のように甘く脆い場所。

 それは、ささやかな対価で売り渡した希望。