翠雨の頃

「なんだよ渋谷雨のくせにあいかわらず人多杉……死ぬ……」
 梨深の経験上、平日の渋谷ぐらいの密度で人が死ぬことはないが、つらさの感じ方には個人差がある。少なくとも『西條拓巳にとっての渋谷の人混み』は常人よりもつらいものであるだろうと、拓巳の右手をそっと握った。
「座って何か飲んだらちょっとは落ち着くよね。タクが行きたいカフェってどっち?」
「か、カフェっていうかコラボカフェ、レコード屋と併設の……何でそんなオタクと対極のとこでやるんだよ、馬鹿なの死ぬの!? 限定描き下ろしグッズの星来があんなに神ってなければこんなとこ来なかった!!」
 やっぱりDaSHかオクに頼ればよかった、でもなんかこの頃動き鈍いし転売は最近うるさいし、大体近年のリバイバルブームに乗ってみましたみたいな空気が気に食わない僕にとってブラチューはずっと現役ジャンル云々、終わらないぼやきを理解することを放棄し、梨深は手を繋いだまま歩き出す。
 多分、一緒に行ったことのあるところだろう。あそこなら再興後、同じ場所でまた営業しているはずだ。違うなら拓巳はもっと大騒ぎするはずで、ついてくるということは恐らくこの道でいい。
「この辺も結構変わっちゃったよね。あたしたちが出ていってから」
「あ、アニメエイトも移転しちゃったしね……」
 珍しく話を合わせてもらえて嬉しいのだが、梨深は生憎アニメショップ事情に詳しくなかった。もっと分かりやすい建物を持ち出そうとして、途中で口唇を鎖す。
 あのきらびやかな箱が建つことになった経緯は、彼にとっていい記憶ではないだろう。梨深自身にとっても、大切でありながらひどく苦い。あそこにまつわる想い出は全部そうだ。あるいはこの渋谷に関わる出来事全てが。
「せめて、晴れてればよかったね」
 土砂降りと言うほどではないが、雨は二人の傘をしきりに流れ落ちていった。
 やけに感傷的になってしまうのも、年数ばかりでなく灰色の空のせいなのかもしれない。
「毎日降るわけじゃない。晴れてるときに来れば」
 横断歩道を渡り切ると、拓巳は梨深の手を振り払った。もう勘を取り戻したのだろうか。『タクミ』のことを言っていると思われたのなら少し寂しい。
 彼は道の端に避けると、ポケコンを取り出して操作し始めた。やはりカフェへの道が間違っていたのか。梨深が画面を覗き込むと(いつもこれをやるととても怒られるのだけれど)、調べていたのは地図ではなく天気だった。
「週末なら、晴れそう」
「うん。じゃあ来ようかな」
「来てよ。まだカフェの期間中だし。ランダム一限だから頭数ほしい」
「へ?」
 拓巳が梨深を置いて歩き出すから、はぐれないように慌てて追いかけなければいけなかった。駅の真ん前ほどではないが、まだまだ人は多いのだ。
「また一緒に来てくれるってこと?」
「なんでわざわざ聞き直すんだよ……そういうとこ梨深って、ほんと梨深」
 後半の意味が本当にわからないのだけれど、それでも梨深の頬は緩んでしまう。
 外された手をこりずにもう一度取った。
「ありがと。タクのそういうところ、あたし好きだよ」
 予想では、ここは『勘違いしないでよね!』が来るはず。バカと呼ばれても梨深はボケてはいない。十年間でそれぐらいは学んだし、切り返し方だって少しは――。
 しかし拓巳は何も言わなかった。黙って、真面目な表情で、振り返った。行き交う人が邪魔そうに眉をひそめても、立ち止まったまま梨深を見つめていた。
「な、なに……?」
 何か、本気で怒らせるような態度を取ってしまっただろうか? 顔が熱くなってくる。想いを読みたい誘惑に駆られる。ダメなのに。信じたいのに。やっぱりあたし成長なんてしてないのかも。
 やがて拓巳はすうと息を吸い、とてもやわらかい声で呟いた。
「僕も、君が好きです」
 間違えるはずもない。同じトーンだった。同じ瞳だった。
 痛いほど透明だった少年は、青年になっても変わらない純度で、同じ台詞を梨深にくれた。
 あの日と同じ、雨の渋谷で。
 梨深は何も返せず呼吸を止めてしまっていた。その間に、少年の名残は不機嫌なノイズでかき消されてしまう。
「重く取らなくていいよ。こういうのは十年後にもう一回言わないといけないことになってるから。それだけ」
 彼はふいと前に向き直り歩を再開した。それ以上訊くなと背中が言っていたので、梨深も尋ねることはせず足を速める。
 あたし好きだよと、自分の台詞が胸で淀み始めた。嘘でもふざけたわけでもなかった。誓って本音だ。でも、気安く口にしてしまった。彼のくれた本気と釣り合わない軽さで。
 梨深は意を決して傘を畳み、拓巳の隣に進み出る。拒まれなかった。吐息も分かるほどの距離で、青空色の膜が梨深の側に寄って、先端から雨粒が滴り落ちていった。
「僕は、渋谷の雨、そんなに嫌いじゃないんだ。……君がいるから」
「うん。……あたしもだよ、タク」
 梨深の頬にも雫が伝う。あの日のように。
「もう一度ちゃんと言うから、聞いてくれる?」
 当たり前みたいに、あたしと一緒にいてくれてありがとう。
 当たり前じゃないのに、あたしを好きでいてくれてありがとう。
 十年前から好きでした。十年後もきっとあなたが好き。今も。
「十年前より、あなたが好き」