急な職員会議が入ったとかで、授業は午前で終わってしまった。感染症のこともあるが、どうやら『親殺し』のことでも学校にはさまざま問い合わせが入るらしい。こうしていきなり授業が消し飛ぶこともめずらしいことではなかった。
「杜若くん、予備校までどうする?」
「帰るのも面倒だから図書館で時間を潰そうかと思う」
「中央図書館? 後で俺も合流していいいかな、一度帰って着替えてくる」
「わかった。なるべく見つけやすい席に座っておく」
楢原と別れ、駅の近くの図書館に来た。閲覧席として大きなテーブルがいくつも置いてあるが、ひとつおきにガムテープでバツ印が貼ってある。隣と前には人が座らないようにという威嚇だ。
颯太は窓際の椅子を引き、勉強道具を広げ始めた。
正直壮花の授業内容で大学受験は厳しい。口には出さないが、こうして自習になった方がありがたいぐらいだ。
緊張感のある静寂に沈み込む。目の前の教科以外のあらゆることが遠くなる。こつん、と机が小さく鳴って、颯太は現実に引き戻された。
自分のものではないスマートフォンが置いてある。
『キミのとこも 午前授業?』
視線を上げると白い髪の女。セーラー服姿の羽村夢衣がリュックサックを右肩に提げ、泣きそうに笑いたそうに颯太を見ていた。あからさまに睨み返すのも憚られ、颯太は黙ってノートを閉じた。
関わりたくはないが、今から目立たずにこの場を去るには、シャープペンシルの芯をしまって筆箱に入れてノートを鞄に……手数がかかりすぎる。
端末を置いたまま、石だらけの長い爪は器用に言葉を紡いでいく。
『安心して もう予備校には行かないから
さいごにこれだけ渡したかったの』
颯太のノートの上に紙片が置かれる。写真だった。
ひったくるように右手が出た。一刻も早く事実を確かめたかった。
颯太は精査するように左上から視線を走らせる。
ああ、やはりそうだ。夕暮れ時でオレンジに染まってしまっているけれど、首を伸ばしたフラミンゴの滑り台――通っていた中学校の近くの公園だ。普通はゾウさんとかだよねぇ、と言いながら、五条はよく学校の帰りに滑りたがった。
中学と高校の間の春休みから、カメラを始めた五条。この公園を撮っていたのは知っていたが、滑り台の写真もあるとは思わなかった。
『やっぱり知ってるんですね
あやめから預かってたけど ボクは行ったことない場所だから
わかるひとに渡せてよかった』
写真を裏返す。癖のある字で、はれのひ公園で、と書いてある。撮影場所を書いておく習慣も、颯太が保管している彼女の写真と一致していた。
颯太は顔を上げて、声を出そうとして、息だけ吸って口を閉じた。
自分のスマホを、分厚いケースのスマホの横に並べてメモ画面を開く。
『ありがとう。』
少し考えて文字を足す。フリック入力は正直苦手だけれど。
『昨日はすまなかった。
予備校には来たらいいと』
上からすぎるか。ととと、とカーソルを前に戻す。
『予備校には行ってほしい。お互い受験がある。きみが嫌でなければ、昨日のテストの続きを』
受けよう? 受けたい? 何と書いても気持ち悪い気がする。颯太が指を彷徨わせていると、羽村の指がのびてきて、颯太のスマホを打った。
『こっち すわっていい?』
『どうぞ』
公共の施設だ。颯太に拒否する権利はない。楢原が来たらこっちが移動しよう。
羽村は颯太の斜向かいに腰を下ろす。自分のスマホをいったん回収し、短く操作して画面を見せてくる。QRコードだった。
羽村は目を細めて笑った。
自分のしたことが打算だったのか、絆されたのか、後ろめたさなのか、颯太自身にもよくわからない。とにかく颯太はQRを読んでしまった。メッセージアプリが無音で通知を出す。『ともだち』が一人追加されている。トーク画面で、ふわふわの白い犬が『よろしく!』と前足を上げている。
スタンプを送るがらでもなかったから、四文字返してスマホをしまった。
日当たりの悪い図書館の空気はぬるく乾いている。バニラと薔薇と白檀はちぐはぐに香っている。
気付いたら楢原がすぐ後ろに立っていた。着いたのなら何か合図をくれればいいのに――そう思った直後、理由を察した。
楢原は羽村をぼーっと見つめていた。羽村が目を上げる。楢原と視線を合わせてにこやかに手を振る。楢原が、ばっと顔を背ける。それが颯太の視線のほぼ真上だったので、泣きだしそうな笑いだしそうな叫び出しそうな両目がしっかり見えてしまった。
疎い颯太でも即座に思った。
気まずい。知り合いのこんな瞬間に立ち会うなんて。
結局予備校まで三人で行くことになったし、二日目のテストが終わった後も何故か三人で集まることになってしまった。
「へー、楢原クンってバスケやってたんスね。どーりで身体おっきいんだ」
「いや、俺は全然小さくて苦労した方だけど……」
帰りたい。颯太の心を見透かしたようにスマホが振動する。叔父からの着信だった。メッセージアプリのIDを教えていないから、用があるときは電話番号由来のショートメッセージでやりとりをしている。
『着いてる
こっちからは見えてるよ
振り返って左』
言い方が気持ち悪い。颯太が後ろを向くと、マスク姿の叔父が運転席の窓を開けてぶんぶんと手を振っていた。
「すまない楢原、叔父が迎えに来た」
「あ、だ、大丈夫。気にしないで」
「じゃあ、ボクは買い物してから帰ろうかなー。二人とも、また予備校で!」
ようやく解散できた。颯太は嘆息して車に歩み寄り、後部座席のドアを開けた。
「なんだよー、助手席座れよ」
「ソーシャルディスタンス」
「なにを、今や公務員なんか一日中滅菌処理されてるようなもんだぞ」
颯太は叔父を無視してシートベルトを探した。暗くてよく見えない。叔父――
「さっきの子……まぁいいか。いろんな事情があるよな」
あった。シートベルトを締めると、車がゆっくりと動き始めた。あらためてバックミラー越しに叔父を見る。警察官にしては小柄だし、柴犬みたいな愛嬌のある顔つきだ。人を油断させやすい、とも言う。
「叔父さんは、こんなところで甥の送迎なんてしていて大丈夫なのか」
「俺のことなんて誰も気にしてないよ。だーって、『親殺し』の件で東京埼玉神奈川千葉、四県合同特別捜査本部なんて立ってるんだぜ? 知ってるやつも知らねーやつもドタバタピリピリガーガー、他の事件なんて見つけてくんなって勢いよ」
「叔父さんがサボりやすい理由を訊いたわけじゃないんだが」
颯太は嘆息してマフラーを外した。
「それで、話って?」
「ああ、そうそう」
叔父は、飴食べる? ぐらいの語調で颯太に尋ねた?
「颯太お前、『桃源郷』行かん?」
「とう……」
唐突過ぎて二度聞き返した。
「『桃源郷』? あの赤ちゃんポストの? 何か事件に関係があるのか?」
「いやー。ねーかも」
「じゃあなんで?」
「え、キモいから」
同じ日本語を話しているとは思えない。十対〇で叔父が悪いと思うのに、続ける叔父は不満そうだ。
「だっておかしくねぇ? なんで
「軽率ではあるかもしれないが、その言い方はいくら叔父さんでも悪意が過ぎるぞ」
「俺に悪意があるわけないだろ。善意がないんだから」
なるほど、基準がないから反転できないのか。颯太は妙に納得してうなる。
そして叔父は、さらに信じられないことを平気で言い切った。
「ていうか、お前の名前でもうアポ取ってる」
「なんで!」
このご時世で出したことのない音量の声が出た。叔父が迷惑そうに眉をひそめたのがわかったが、そっちにその表情をする権利はないと思う。
「奴さんら、大人は基本蟻一匹通さないぐらいの勢いだからな。息子先生がメディアに出てきちゃいるが、施設の内部は衛生を理由にマスコミ連中も例外なく見せてない」
言われてみれば、颯太が見た『桃源郷』の写真はどれも遠景だった。中には病院を写したものもあったが、まだ他の施設ができあがる前に撮られたと思しきものだけだった。
「高校生として『学校の課題で社会問題を調べることになった。赤ちゃんポストについて関心がある』って書いたら取材のオッケーが出たんだ。『子供』なら入れてくれるってんなら使わない手はないと思ってさ。嫌なら断っていい。熱が出たとでも言えば向こうから断ってくるさ」
颯太はシートに深く寄りかかり、視線を下に落とした。
叔父の行動力は常軌を逸しているし、倫理観は常識外れにない。そのくせこの人は、思いやりを模倣することができる。しかも時には無意識に。
叔父に頼られるのは初めてではなかった。本当は警察の決まりに反していることも、利用されていることもわかっていたけれど、それで誰かが助かるのなら別に構わないと思っていた。それも叔父なりの正義なのだろうと。
叔父にそんなものはないと知ったのは、つい一年半前の話だ。
『なぁ颯太、こんなことがあっちゃいけないだろ?』
五条が死んだ。殺された。叔父は颯太のところにやってきて、五条のことを語った。生きている間に何をされたか。何が起こって死に至ったか。死んだ後にどう扱われたか。報道では決して許可されないようなことまで、細々と。
この時点で、叔父はおおむね犯人を絞り込んでいた。颯太と話す必要など本当はなかった。
『許されちゃいけないよな。なぁ。だったらどうするべきかわかるだろう?』
高田勝武は、他人の苦しみが喜びなのだ。悪人をその手で追い詰めたいのは、無様にあがく様を最前列で鑑賞できるからなのだ。そして追い詰めるのは別に悪人でなくてもよかった。
『なぁ、颯太?』
生まれる前から知っている、甥であろうとよかったのだ。
「なんかつけていいかー? よっと」
ちょっとした停車の隙に叔父がカーナビのテレビをつける。『桃源郷』について、運営の医者の、声の張りからして恐らく息子(といっても颯太の親より一回り以上年嵩)の方が熱心に語っていた。
『救われるべき子どもたちに救いを。我々がやっていることは至極シンプルなんです。父のその想いを私も間近で見て育ちましたから、今までやってきた医療だけでは手の届かないところにも手を差し伸べたいと――』
「一番厄介な犯罪者ってどんなんだと思う、颯太?」
叔父がラジオに被せて話しかけてきた。藪から棒だが、颯太は真面目に返す。
「本人の意思に関わらず、犯罪に加担してしまった人たちじゃないのか。複雑な環境要因が絡み合っていて……」
「いや、『厄介』ってのは『救うのが大変だ』って意味じゃなくてさ」
ぶおんぶおんと遠くでエンジンをふかす音がする。姿は見えずとも、どんな車のとおりの少ない道に入ろうとも、この街でこの下品な遠吠えが聞こえない日はないのだった。
「『手の打ちようがない』、っていう意味だよ。そういう意味で一番厄介なのは、自分が『正しい』と思い込んでるやつだ。一ミリの疑いも持ったことがないやつ。どんな重い刑を科しても、弾圧されるほど正しさを確信していくから手に負えない」
「この医者親子は犯罪者じゃない」
「ま、それはそう。俺は個人的な好き嫌いの話をすり替えてるだけ。だからまともなお前から見て、こいつらが好きか嫌いか教えてくれりゃそれでいい」
目的地を設定されていないカーナビは、ただ現在地を示し続けている。
もう颯太には、ここが予備校と家の間のどこに位置しているのかわからなくなってしまった。叔父は迷いなくハンドルを切っていく。
「この調査は、叔父さんの個人的な好奇心か?」
「いや。個人的な虫の知らせ」
「なら行く」
颯太は目を閉じて呟いた。
「叔父さんの虫は、心よりよっぽど信用できる」
叔父は一拍置いて、からからと笑った。
このまま知らない場所に連れ去られても、なす術などきっとないのだろう。
(次回更新:未定)
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