フォークロアの誑殺(きょうさつ) web連載版 - 1/2

第一章

 

   一九七九年

 初めて人を殺したのは、十五歳のときでした。
 薔薇が咲いていました。赤い赤い冬薔薇(ふゆばら)が咲いていました。
 先輩は、大丈夫、大丈夫だよナオちゃんとあたしの手をぎゅっと握ってくれて、あたし人を殺したことなんかより、この頃皆んなが怯えていた口裂け女なんかより、あんなに綺麗だった先輩を汚してしまったことの方がずっとずっと恐ろしかった。
 神様。あたしはきっと地獄へ行きますから、悪魔を一人でも多くそっちへ連れて行きますから、どうか、
 どうかあの人は、先輩だけは幸せに生きて、祝福に包まれて天に召されますよう。

 

 

   二〇二〇年

 不織布越しに、冬薔薇(ふゆそうび)の香りがした。杜若(かきつばた)颯太(そうた)はマスクを少しだけ下げ、十一月末の冷えた空気をたっぷり吸い込む。気配の濃くなる方を辿って行けば、最寄り駅の付近、立派な邸宅の柵を抜け鈴生りに咲いている薔薇を見つけた。力強い赤色に口許を緩め、颯太は友人に『開花センサー』『警察犬』とからかわれる敏感な鼻をまたマスクに隠した。
 世界的な流行り病が報じられてからしばらく、駅の混雑度合いは八割近く戻っている。リモートワークのできる会社員や一部の大学生は依然家にいるようだが、高校生の颯太も他の乗客も、何だかんだとどこかに通わざるを得ない。
 だが友人と一緒の登校は、誰に咎められたでもないが互いに自粛するようになった。
 颯太はイヤホンをつけて、スマートフォンのラジオアプリを起動する。
 世の中のことを知るのはよいことだ。たとえそれが真実の表層を撫でるだけの行為であっても。
 今日もトップニュースは『親殺し』――『連続保護者殺傷事件』だ。十代の少年少女、颯太と同じぐらいの年齢の子供たちが、深夜に親を殺す、または殺そうと試みる事件。東京都を中心に埼玉、千葉、神奈川、今年二〇二〇年の五月から合計七件も発生している。かなりの件の数だ。身近で起こってもおかしくないと感じるほど。
 颯太は電車内を見回す。言葉を奪われた空間では、親と思しき年齢の人たちも十代と思しき学生たちも、揃って俯きスマホをいじっている。幸せにも見えないが、人を殺すほどのエネルギーも残っていないように見える。
 この番組は読み上げの後にアナウンサーの私見が入らない。人死にもパンダ誕生も同じトーンで扱われ、淡々と次へ進む。
 今度は『桃源郷』の全面運用開始か。『桃源郷』とは、ある医者親子が西東京に造り上げた、病院を中心とした児童福祉複合エリアである。元々あった産婦人科や小児科の他、小児を含む精神科の病棟を新設。さらに匿名出産受付、赤ちゃんポスト『星のかいな』新設、母子を対象としたDVシェルターに二十四時間寄り添いホットライン。病院のそばで運営していた乳児院や児童養護施設も敷地および人員を拡大。複数の法人格を取得し、莫大な私財を投じ、そのような包括的なサポート体制を整えたのだという。
 二〇二〇年の日本において、育児が困難な親が匿名で乳幼児(原則新生児)を託せる施設・通称『赤ちゃんポスト』は九州に一件あるのみだった。他の地域から我が子を手放しにくる親もいるらしいが、九州まで出向くことができるのは、経済的にある程度自立した大人かその庇護下にいる者だけだ。困窮家庭や若年層、犯罪によって望まぬ妊娠をした人などは、そもそも制度を利用できるところまでたどり着けていない。都内、かつ人通りの少ない山間部に預け先ができれば、多くの母子を救うことにつながるはずだった。
 親を殺す子もいれば、親に殺されかけた子を救う他人もいる。どちらでもない颯太は電車を乗り換えて、通っている高校を目指す。
 東京都立壮花(わかきはな)高校。二年生になったところで、この有様で体育祭も文化祭も修学旅行もなくなってしまった。誰かと話すことさえ憚られる校舎内で、代わり映えのしない毎日を空費している。
 教室に着いた。東向きの窓からは朝陽がたっぷり射し込んでくるが、換気のため窓を閉め切ることができず、暖房も自然の冷風に押し負けている。
 颯太は学ランの上に巻いたマフラーは外さず席に着いた。
「おはよう、杜若くん」
 窓際の方から、颯太と同じく黒い詰襟の男子生徒が寄ってきた。私服可の高校とはいえ、毎日学生服を着てくる生徒も一定数いる。といっても、楢原(ならはら)雨音(れいん)は颯太よりずっと骨格がしっかりしていて、シルエットは全く似ていない。
「この間教えてもらったところ、すごくわかりやすかったよ。おかげで宿題もだいぶ楽だった」
「おれこそ、教えてもらった動画のおかげでいい運動になった。ありがとう」
 颯太の部屋は和室で、畳をなるべく傷めないよう筋トレをするのは骨が折れる。元運動部の楢原はトレーニング方法に詳しく、颯太もよく助言を乞うている。
「ところで杜若くん、今日の予備校一緒に行けそうかな」
「ああ。よろしく頼む」
「やった」
 楢原が長い前髪越しに笑ったのがわかる。左目は半分、右目は完全に隠れているが、表情の作り方が大きいので何となく伝わるのだ。
「クラスは違っちゃうだろうけど、杜若くんが来てくれるだけで心強いよ。文系私大コースだよね?」
「そうだな。社会科学の方面をやりたいから」
「どっち方面とかも決めてるんだ。すごいな」
 楢原が、マスク越しに大きく息を吐いた。
「ていうか、警察官って大学出ないとなれないんだね。俺、高校卒業したら警察学校? っていうのに入ってなるもんだと思ってた」
「必ずしもそういうわけじゃないが……」
 颯太はマスクの位置を指先で直した。
 去年、警察官になりたいと颯太が告げたとき、母は黙って泣いた。八歳下の弟が――颯太にとって十七歳上の叔父が、警察官としてどんなに過酷な仕事をしているか見てきたからだろう。ほどなく叔父も飛んできて、『どうしてもなりたいのならせめて大学を出ろ』と常にない厳しさで言われた。給与面、待遇面など、高卒の叔父は苦労をしてきたらしい。
 といっても大方颯太の母も叔父も本音では、きっと『普通の』大学に入ってしまえば四年間の間に何か他の輝かしい夢を見つけるだろう、と考えているのだろう。どのみち他所様に説明すべきことではない。
「やっぱりすごいな、杜若くんは。俺は何になりたいかもわからず勉強してるのに」
 楢原が広い肩を落とす。平時のように気安く叩くというわけにもいかず、颯太は中途半端に右手を宙に浮かすに留めた。
「褒められるような経緯で決めた目標じゃない。いつかなりたいものを見つけたときのために、あらかじめ勉強しておける方がよっぽどすごいと思うぞ」
「フォローありがとう。うーん、何になりたいかなー……杜若くんから見たら何に向いてそう?」
「そうだな……」
 不思議な気分だった。未来を考えることから逃げて、ただ彼女が受けるからとこの学校に入ったはずが、彼女がいなくなった今の方が未来のことを真剣に考えているなんて。
 自分たちには現実的な未来があるのだと、性懲りもなく信じているなんて。
 あの子はもう死んでしまった。
 殺されてしまったのに。