チューベローズ - 6/6

「薫ちゃんの、バカっ!」
 自室に乗り込んできた月子に、あージェラピケのオールインワン買っといてよかったーと薫は内心苦笑した。
 すっぴんで普段着の中学ジャージを着ていると、あまりにも男に見えすぎる。
「危ないことしないでって言ったのに、どうして約束守れないの⁉」
 月子が詰め寄ってこようとする。薫はペディキュアの刷毛と瓶を月子に見せる。おしゃれに免疫のない月子がたじろいだ隙に、薫は最後の爪を塗り終えた。
「別に危ないことなかったよ。ちょっと悪者退治してきただけ」
「それが危ないことなんだってば!」
 月子はむくれてベッドに座った。思いきり尻を落としたのだろうが軽くて大した音がしない。薫は黙ってピンクのペディキュアの蓋を閉める。
 強がりを言ったのではない。夜来――あの後の報道によるともっとありふれた名字――は、殺人鬼と呼ぶにはかなりお粗末な人殺しだった。人を気絶させる方法も効果的に拘束する方法も知らない。取り調べで、薫以外には睡眠薬を盛ったと証言したらしいが、それでも三人も殺せたのはまぐれのようなものだ。
「薫ちゃんは自信あるのかもしれないけど、そう何度も上手くいく保証なんてどこにもないんだよ。五条さんだって……」
 月子は自分の両腕を抱いて背を丸めた。ただでさえ小柄な月子が身を縮めると、そのままなくなってしまいそうな気がする。薫は見ないふりをして腰を上げた。
 人見知りの月子が、社交的な五条を内心苦手にしているのは察していた。だがどんな相手であれ、月子の優しさは死者を正しく悼むだろう。だからこそ五条のことをわざわざ引き合いに出したくない。
 背を向けて発する声は思うより低く硬くなった。
「オレは正義の味方をしたいわけじゃない。ただ月子を守りたいだけだよ」
「だからそれが……!」
 月子は吐き出しかけた台詞を途中で飲み込んだ。堂々巡りであることに気付いたのかもしれない。
 振り向くと、月子は顔を覆って泣いていた。駆け寄って慰めたいのに、薫の脚は無様に震えて動かない。
「ごめんね。薫ちゃん」
 悪くもないのに月子は謝った。ごめんね、ごめんねとしゃくりあげながら繰り返す。薫はかける言葉を持っていない。十年前からずっと。
 月子がさらわれたと確信したとき、薫はまず姉の服を着て家を飛び出した。『かわいい女の子』が狙われているのなら、自分が犯人と接触する方法はそれだけだと思ったから。
 学校も行かずに歩き回った。
 月子と約束した公園、いなくなった女の子が通っていた学校の近く、暗くなると人が少なくなる道。
 月子が消えた二日後、薫は無事犯人に声をかけられた。ポケットの中で一一〇番を押したこどもケータイには気付かれず、男の家まで大人しくついていった。
 立派な母屋があった。男が趣味の部屋にしていたのは物置。大人がどうにか座れる程度の狭い小屋だ。口をテープで塞がれた月子がぐったりと横になっていた。男の目を盗んで薫が名前を呼ぶと、月子はうっすら目を開けた。
 ああ、月子は生きている。助けられる。
 月子は何故か、両手・両足ではなく右手と右足・左手と左足を結ばれていた。薫はできる限り月子に寄り添った。
 男がベルトを外し終わる前に、大人たちがいっぱい押し寄せた。警察だと言っていた。一人のおじさんが走ってきて、きみたち大丈夫かと月子の口のテープを剥がした。太い指がロープをほどこうと肌に触れた瞬間、月子は――。
「わたしがおかしくなったからって、薫ちゃんまでおかしくならなくていいよ」
 泣きじゃくる月子を抱きしめられるなら、薫だってそうしたい。だが月子はあの事件以来、男性に触れられるとパニックを起こすようになった。月子に噛みつかれた『刑事のおじさん』の、動揺と後悔に染まった顔を薫は今も忘れることができない。
「おかしいって失礼じゃない? オレ楽しくて男の()やってんだよ。好きだから頭から爪の先までかわいくしてるの。ただ女装するなら服だけでいいんだから」
 薫は両手を後ろで組んで、なるべく愛らしく見えるように身体を傾けた。爪の食い込む手の甲に痛みはない。本当に痛いのはそんな場所ではない。
 口から出た台詞は、半分本音で半分嘘だった。
 女性ものの服を着るだけでは『女』には見えない。顔や手足の毛を入念に処理し、気に入った服に釣り合うメイクや髪型を考え、プロポーションを維持する。生来の性が男以外であったとしても、『女』に見られたいと望む限り薫は同じ努力をしただろう。
 同じことなら女に生まれておきたかった。カブトムシを欲しがったりせず、姉と家で人形遊びをする六歳の女の子なら、早朝の公園に月子を連れ出すこともなかった。月子を傷つける不幸が起きたとしても、薫は月子と抱き合って涙することができたのだ。
「見てこれ、限定色のシルキーピンク。綺麗に塗れたでしょ?」
 差し出す片脚は数メートルも離れていないのに、月子の座るベッドは何キロも遠い気がした。
 匂いの苦手な豆乳を毎日飲むのも、筋肉の隆起がボディラインに響かないよう運動をセーブするのも、ニキビの気配を即座に察して対処するのも、喉仏が出ようとするたび机の角に全力で打ちつけて潰すのも、何もつらくはない。
 スカートで通った六年間も、ジャージで押し切った三年間も、ワンピースを揺らすこれからの三年間も、その先の未来も全部全部月子にあげたい。
 ――いつか君が、別の男の隣で白いドレスを着るときが来たって、ずっと。
「ね。笑ってよ。月子」
 鼻声はちっともかわいらしくはなかったけれど、月子は顔を上げてくれた。東京に記録的な大雪が降った日、『世界中みんな雪の下で眠ってるみたいだね』と呟いたときの、静かに冷たく全ての終焉を願う表情だった。
「薫ちゃん」
 月子がゆっくりとベッドを離れる。薫は月子の手振りに従ってその場に腰を下ろす。両膝をくっつけた『女の子座り』。
 月子は薫の正面に正座して、リュックサックから大事そうに白いハンカチを取り出した。杜若に頼んでおいたものだ。
 チューベローズのヘアピン。月子の手製。壊れてしまったと泣いて謝ったときも、すぐ直るよと魔法みたいに元に戻してくれたお守り。
「薫ちゃん。目、閉じてて」
「うん」
 薫は顎を少し上げてまぶたを下ろした。口唇は上下が軽く触れ合う程度にやわらかくキープ。ちゃんとかわいく見えているだろうか?
 月子の指が横髪をすくって、銀色のピンを地肌に沿って滑り込ませていく。
 バニラの甘い香りがした。手首にフレグランス? そんなの、月子までまるで女の子みたいだ。
「月子」
 薫はほのかな光だけを感じながら、最愛の人の名を呼んだ。
 キスができなくても、手を繋げなくてもいい。
「つきこ」
 これからもずっと一緒にいよう。
 こんなに隣り合っても永遠に目を合わせられない、純白の小さな花たちみたいに。
 ずっと、ずっと。