「あ、カオル姐さん。おはよー」
隣のクラスの男子が挨拶してくる。薫は小さく片手を振って通りすぎる。
小春野薫はこの学校の有名人だ。入学して間もないのに、廊下を行けば必ず声をかけられる。
目立つのはまず見た目。制服のない
さらに地爪と言い張るクリアピンクのネイル、地毛と言い張る目尻を強調した付けまつ毛、視力矯正と言い張る黒目拡張コンタクト、地肌と言い張る透明感ファンデーションと血色チーク、保湿と言い張るほんのり発色リップ、生え癖と言い張る緩く内巻きの前髪、正真正銘自前の長い黒髪。
完璧だ。美少女だ。ここまで努力した自分をなお『ブス』呼ばわりするやつがいたら、薫はそいつの顔面を三十発ぶん殴った後、鏡に向かって同じ台詞を三百回言わせる。
「おはよう。
スカートを持ち上げて会釈。一年二組に入る。
「おはよう薫ちゃん」
窓際の席で手を振っているのは、幼なじみの
薫は月子に歩み寄り、自分の目許を指差した。
「月子、コンタクト慣れた?」
「今ぐらいの時間なら……二時間目とかになると目がしぱしぱする。薫ちゃんみたいにはいかないね」
高校でコンタクトデビューをすると言っていたのだが、なかなか上手くいかないらしい。薫としては、いつもの大きな黒縁眼鏡も充分キュートだと思う。
「美術部は? 体育祭の垂れ幕塗ってるんだっけ」
「うん! あと仕上げだけ。そろそろ薫ちゃんと一緒に登校できそうだよ」
月子は両手でピースサインを作った。爪の先にカラフルな絵の具が詰まっている。
薫は曖昧に笑ってヘアピンを触り、抱きつきたい衝動を抑えた。
「これ、また褒められたよ。さすが月子謹製」
「そうなの? 結構前のだし恥ずかしいなぁ」
月子がはにかむ。本人が気にしている歯並びも、毎日文句を垂れている天然パーマも、薫にとってはかけがえのないチャームポイントだ。
月子を『ブス』と呼ぶやつがいれば、薫はそいつの顔面に三十回肘鉄をくれてやった後、後頭部をつかんで三百回鏡に叩きつける。
薫が愛用しているヘアピンは、中学二年の誕生日に月子が贈ってくれたハンドメイド品。今では両耳の上にないと落ち着かない。銀の台座に白いビジューの六枚花弁、チューベローズという花だそうだ。二輪が一対で咲くとかで、このヘアピンの花も片方につき二つ付いている。
「薫ちゃん、本当に新しいのいらないの?」
「いいの。これが気に入ってるんだから」
「ならいいんだけど……」
月子は両手の指を忙しなく突き合わせた。作者としてはいろいろ思うところがあるようだが、薫にはこのヘアピンこそがお守りなのだ。別のものには代えられない。
「それより薫ちゃん。また危ないこととかしてないよね? おばさんが最近帰り遅いって心配して……」
月子がしかめ面で言いかけたとき、このクラスの女子が入口から薫を呼んだ。
「小春野ちゃーん! 生活指導が捜してたよー」
「やーん、心当たりなーい」
薫はひらりと身を翻す。好意的な笑いが心地よく薫を包んでくれる。不機嫌なのは月子だけだ。
薫と他の生徒との会話に、月子が割り込んでくることはない。部活の仲間とは多少打ち解けたようだが、クラスにはまだ馴染めていないのだろう。
薫は二組を出る直前、ドアに手を添えて振り向いた。
「月子。しばらくは放課後空けられないけど、ちゃんと友達と帰って。おばさんにも駅まで迎えに来てもらいなよ」
不承不承の頷きを見届けてから、薫はつま先で廊下に踏み出した。
月子には悪いが、薫は今朝の男を無下にするわけにいかないのだ。月子のために。
薫の日課は、都内の性犯罪や壮花周辺の不審人物についての情報収集。『プライベートディテクティブ』と違って公安委員会からの認可はない。あの自称現役大学生殿もどうだか知れたものではないが。
今年の三月、壮花の隣駅にある中学に通う生徒が、高等部への進学を目前にして姿を消した。薫と同い年の少女だ。
進展のないまま四月末、今度は十代の女子大生が行方不明と報じられた。有名私大に入学後まもなく授業を欠席していたが、上京したばかりで友人もおらず、発覚するのに時間がかかったという。
そして一週間前から、薫のクラスの女子が一人、無断で学校を休んでいる。保護者との連絡もついていない。
いなくなった三人の共通点は、薫と同じ
三人とも失踪の直前、SNSに『電車の中で感じのいい人と知り合った』という旨の投稿を残しているのだ。
薫は『白雪王子』の都市伝説をでっち上げ、巨大掲示板とSNSに匿名で流した。特にSNSは行方不明者のアカウントに公開でぶつけた。
――周囲に馴染めない内気な女の子を迎えに来て、二人きりの楽園に連れ去る白馬の王子様のおとぎ話。
掲示板は少数が悪ノリしたのみで終わり、SNSには不謹慎だという返信が山のように付き……薫はそんなことはどうでもいい。第三者の否定はただのノイズだ。
肝心なのは称賛の言葉。たったひとつ、好意的な長文を垂れ流した捨てアカウント。
釣れた、とそのとき薫は呟いた。
やはり『白雪王子』は実在する。毒牙にかけた女の交友関係を今も監視している。自らの正当性を示し、功績をひけらかせる機会を窺っている。
薫の手の中でマウスが軋んだ。
予感がする。いや、確信がある。名を与えられ図に乗った『白雪王子』が、このままで終わるわけがない。
奴は存在を誇示するため、必ず犯行を繰り返す。