「君、あそこの男にずっと見られてるよ」
その青年に話しかけられたとき、
朝の七時台、電車内は人でぎちぎち。薫の立つドア脇にも余裕はない。
「どの人ですか?」
薫が振り向こうとすると、青年はドアに右手をついて視線を遮った。薫は小首を傾げて青年を見上げる。青年はもったいぶった速度で、左手の人差し指を自分の口の前に立てた。
「下手に気付いた素振りを見せたら刺激してしまう。俺と知り合いのフリをして、話を合わせて」
薫は素直に頷き、毎朝ヘアアイロンでまっすぐに整えている黒髪を撫でた。
清楚系JKと呼ばれ始めて一月半。好色な視線にも、工夫のないナンパにも慣れてきたところだが。
「それで、何の話をしましょう?」
「そうだな。自己紹介なんてどうだい」
青年は上の歯を見せつけて笑った。薫は思わず笑み返す。バラエティの非モテ克服企画でやっていた『特訓! アイドル☆スマイル』の出来にそっくりだったから。
べたついた重たい前髪も、無難すぎるVネックの白インナーとネイビーのロールアップジャケットも、ネット記事の『女ウケファッション』をまるっとコピーしたみたいだ。
「俺はこういう者だけど――」
青年はジャケットの内ポケットに手を入れ、レザーの名刺入れを取り出した。渡された紙片には、飾りのうるさいイタリックフォントでこう書かれている。
『 現役大学生 兼 プライベートディテクティブ
夜来優(Suguru YARAI) 』
もう無理。薫はリボンタイを直すふりをして笑いを噛み殺した。真面目に言っているのか? 身体は大人でも頭脳は子供なのだろうか。
薫はどうにか顔面を繕い、片手を頬に添える。
「わたし、名前は簡単に教えないようにしているんです。呼びたいようにどうぞ、夜来(やらい)さん」
「じゃあ『お花ちゃん』。そのヘアピン、よく似合ってるよ」
青年――夜来は自分のこめかみを叩こうとしたようだったが、電車が揺れてよろけたために腕がよじれていた。
薫はドアのガラス窓に映った自分を見つめる。二輪並んだ白い花のヘアピン。他人に言われるまでもなく、これが似合うのは世界で薫だけだ。
薫は不機嫌が表に出ないよう注意深く声を作った。
「ご親切にどうも。次で降りますね」
「ああ。何かあったら連絡して。何時でも構わない」
電車が減速を始めた。薫はウサギ柄のトートバッグを持ち直し、人の流れに備える。
降車のアナウンスに紛れて、夜来が熱っぽく囁いた。
「また、会えるかな」
「ええ。運命が重なれば」
ドアが開く。薫はスカートを揺らして軽やかにホームに降り立つ。指からするりと舞い落ちた名刺は、散々に踏みしだかれて線路へ飛び込んだ。