スノッブの鏡像

 春の朝はいつも陽射にだまされる。外の空気はガラス越しに見るより冷たくて、僕は通りを行きながらフライトジャケットのファスナーを一番上まで閉めた。
 花月(かづき)が言っていたのって、この辺だったよな。
 道の端に寄り、ポケットからスマホを取り出す。メッセージアプリのアイコンをタップ。花月のやつ、大した内容もないスタンプを連打してくるせいで遡りづらい。
 僕が苦戦している間に男が二人歩いてきて、すぐそばのバス停で足を止めた。
「見た? 今の。コートに腕通してない女ってイタくない?」
 右の男は、持ち手にグッチのスカーフを巻きつけたエルメスのハンドバッグを、がっちりと脇に挟んでいた。服は鮮やかな蛍光グリーンのパーカー。側頭部に直角の寝癖がついている。
「絶対自分のこと『いい女』だと思ってるよな」
 左の男は、カルバン・クラインのリュックを腹の前に抱えていた。ガードレールに腰かけて、今にもソールの外れそうなフェンディのスニーカーをぶらぶら振っている。この距離でもそれとわかるブルガリプールオムの香りは、どちらが漂わせているものか。
「わざわざカフェの前に立ち止まってんの何? 映え?」
「世界中の視線が自分のためにあるとでも思ってんのかな?」
 楽しそうで何よりだ。
 僕はため息をついてスマホをしまい、彼らが来た方向に歩き出した。
 五十メートル先、カフェの入口にたたずんでいる花月が目に入る。ピンクベージュのトレンチコートを両肩にのせ、右の足首を左足の後ろに引っかけている。
 僕は小さく舌打ちをして花月に近づく。
「ねえ、人前でふくらはぎかくのやめなよ」
「ミツキ」
 花月が顔を上げると、毛先をすいた黒髪が襟元で頼りなく揺れた。
「どうしよう、今日ここ休みだって。この前食べたあんこトースト、また一緒にって思ったのに」
「それ別のところだけど」
「えぇ?」
 花月が肩を落とす。ずり下がったスプリングコートを、僕は両手で直してやる。
「ちゃんと着なって。だらしないよ」
「だって、ニットが大きくて。コートに腕を通すと脇がもたもたしちゃうんだ」
「だから安物買うなって言ってるのに。セール品はみんながいらないから安いんだよ」
「サイズを妥協したわけじゃないよ。ドルマンスリーブっていう、モモンガみたいなデザインの袖なの。ほら」
 花月が間抜けに両腕を広げると、今度こそコートがコンクリートに落ちた。僕はそれを拾ってやりながら、走り去っていくバスをガラス越しに見ていた。
 さっきの男たちは何も知らないのだ。知ろうとも思わない。
 ただ攻撃しても許されそうな『属性』が目に入ったから、中身を確かめもせずに叩いた。手頃な棒が落ちていたから、拾って振り回している子供と同じ。
 わかるよ。気持ちいいもんな。
 自分が選ぶ側だっていう錯覚の中にいるのも。徒党を組んで偉くなった気でいるのも。
 安全圏からいつかの憂さを晴らすのも。
 劣等感を受け止めてくれそうな案山子を、知られる間もなく一方的に殴るのも。
 僕だってきっとそう変わりはしないんだ。
「ミツキ? どうしたの。眉間にしわ寄ってる」
 花月が膝を曲げて僕の顔を覗き込んでくる。僕は目を逸らし上着のポケットに両手を突っ込む。アヴィレックスの質のいい裏地で気を落ち着ける。
 まったく、天然で鈍感で方向音痴のくせに、妹のことだけは察しがいいなんて。
美月(ミツキ)ってば」
「何でもない。あんこトースト食べるんでしょ。行こう、カヅキ(花月)兄さん」