「
「いずれアヤメかカキツバタ、っていうでしょ? ほらそっくり」
五条は翌日図鑑まで持参して颯太に説明をしてくれたが、覚えているのはやはり、前髪まで結い込んだポニーテールだけだった。
杜若。書けない、読めないと周りに不評だった名字を、五条あやめは手放しに褒めてくれた。繰り返し繰り返し呼んでくれた。
「杜若くんって誕生日いつ? 五月十五日? 一緒だ! やっぱりそっくりだね、あたしたち」
五条は不思議な女の子だった。明るくて、頭がよくて、友達に困っているはずはないのに、日に一回以上は必ず颯太に声をかけてくる。
好きなの、付き合ってるの、とからかわれるたび五条は『そういうのじゃないよ』と笑うけれど、そんなとき友人のはずの女子たちに向ける微笑みはどんな悪態より冷たかった。
「杜若くんち、親戚付き合いってある?」
三年の冬、茜に染まる教室で、五条は自分の机に座っていた。窓の外のずっと遠くを見つめながら。
受験に向け一人で自習していた颯太と、部活帰りに教室に寄ったらしい五条と、他は誰もいない。
颯太が教科書を片付けて立ち上がっても五条は動かなかった。一緒に帰ろうと簡単な誘いの言葉も喉に詰まって、颯太はタイルを横切る長い影を睨んだ。
「まぁ、普通に。正月に集まったりとか、それぐらい」
「楽しい?」
「別に……退屈なだけ」
意図が分からず曖昧に答えると、そっか、と五条は肩をすくめて笑った。
「こういうこと言うとお父さんに怒られるんだけどね。叔父さんがうちに来ると、いつも大事なものがなくなるの。……お父さんがずっと使ってた万年筆とか、お母さんがお祖母ちゃんにもらったネックレスとか」
五条は両膝を机に引き上げ身体を丸めた。赤い赤い部屋の中で、颯太には彼女が産まれる前に戻ろうとでもしているように見えた。
颯太は息を吸い、持て余し、吐いてまた吸い込む。
普段五条が失くしてくれていた沈黙を、いざ自分で埋めるとなるとこんなに難しいものかと思った。せめて視線ぐらいは彼女に届けたくて瞬きを止めた。
「五条はもっと、嫌なことは嫌だって言っていいよ」
少なくともおれには、と肝心な部分を颯太は飲み込んだ。五条は視線を上げ、第二ボタンを片手で握り潰す颯太に、消えそうな声で呼びかけた。
「ね、夏祭り行ったの楽しかったね」
どこからその件が出てきたのか分からなかったが、話を合わせさえすれば五条が泣きやんでくれる気がして、颯太は必死で首を縦に振った。おかげで五条はほんの少し笑ってくれた。
「杜若くん、来年も一緒に行ってくれる?」
颯太はもう一度力強く頷く。
今年の夏は、五条と颯太の二人きりで屋台を回った。きっと五条は心残りだったろう。一緒に行くはずのクラスメイトが、颯太に妙な気遣いをしたせいで。
「五条、
五条は顔を大きく歪めてから、ありがとう、と颯太のよく知る笑みを浮かべた。
「約束だよ。杜若くん」
颯太は、戻れるならば何度でもこの日に戻りたい。
好きだと伝えればよかった。
月並みでも自惚れでも、おれが守ると誓えばよかった。望むならどこへでも連れ去ってやると叫べばよかった。
――きみの欲しかった言葉が見つかるまで、おれは何度でもあの日のきみと話したいのに。
アヤメとカキツバタの区別がつくようになった今、後悔だけが答えなく彷徨っている。