やさしくしたい - 2/5

春子

過ぎたる春は 匂い勝ちて
秘めたる綾は 根も深し

 

 首吊りの死体が揺れている。二階の床を突き抜けて、一階に咲くプリムラに灰色の影を落としている。
 若い女だ。真っ白なノースリーブのワンピース。目を剥いて舌を突き出しており、生前の美醜は分からない。背中にかかる黒髪は梳きすぎてやせ細っている。
 別の女が携帯電話を耳に当てている。無駄と知りながら救急車をと怒鳴っている。
 プリムラの上では死体が揺れていた。プリムラは華やかなピンクにきらめいていた。

 

「いいこと思いついたの」
 二年A組の教室、春子(はるこ)はカメラを構えて薄く笑った。
 カメラは十七の誕生日にと買ってもらったばかりのミラーレス。本当はデジタル一眼がよかったけれど、予算オーバーで断られた。まぁ構うまい。どうせクラスメイトたちにカメラの違いなんて分かりはしない。
「い、いいねぇ春子ちゃん。今度はどんなこと?」
 隣に座る千夏(ちなつ)が上目遣いで言ってくる。内容を聞きもしないうちに『いいね』だなんて、相変わらず気が利かない。
 春子は眉を寄せ、食べ終えた弁当を片付ける。
「新しい写真のアイディア。もっと刺激的で官能的なのを撮ろうと思って」
「またあの廃墟で? よしなさいよ。危ないわ」
 向かいの秋奈(あきな)は今日もきつねみたいにつんと澄ましている。ただ家が古いだけのくせにお嬢様ぶって。
「そうそう。あんなとこ、いつ浮浪者が住み着くか分かんないよ? 若い娘さんが入り浸る場所じゃないって。心配だようちは」
 冬乃(ふゆの)は箸で無遠慮に春子を指してくる。ガサツと姉御肌をはき違えた勘違い女。
 春子は半眼で教室を見渡した。派手なボス猿とお取り巻きは春子たちを見遣りもしない。机だけを見つめて弁当をかき込んでいる負け犬たちも、孤高を選べるだけ羨ましく感じる。
 入学早々、冬乃が『四季でつるむなんて面白いじゃん』と強引に誘ってこなければ、春乃だってこんな底辺グループに一年以上も甘んじはしなかったのに。
 春子はカメラを鍵付きのケースにしまい、化粧ポーチを持って立ち上がる。
「あんたたちにはどうせ、あたしの美意識なんか理解できないものね」
「そんなこと言わずに教えてよぉ」
 千夏が食い下がってくるが、秋奈と冬乃の前で話しても白けるだけだ。春子は教室を出ていく。千夏は食べかけの弁当を置いてついてくる。
 女子トイレに入ると、春子は手洗い場に陣取り新色のリップを塗り直し始めた。スティックですっと引くのが春子の流儀だ。
「ロープを買うのよ。輪っか越しに『向こう』の世界を見る、境界が曖昧になる、そして最後に少女は『向こう』を選ぶの」
 春子の身体は今が一番美しい。少女と女の間にあるこの十七歳が。だから今を保存しなければならない。春子の大切な瞬間が永劫世界に残るように。
「すごい、素敵。春子ちゃんの考えっていつもすごいよねぇ」
 千夏は春子のお下がりのリップを、紅筆でちまちま塗っていた。教室に戻ったらまた昼食を食べるくせに。
 春子は鏡を覗き込み、前髪をきちんと整える。今日も美少女だ。
「あたし、お店でロープ選んでから行くから。千夏はその間にまた脚立とか運んどいてよね」
「う、うん。わかった。気をつけてね」
 春子は千夏を置いてトイレから出た。どんくさくて付き合っていられない。
 さて、どこから始めようか。廊下を歩く春子の足取りはふわふわと落ち着かず、意識は既に撮影現場に飛んでいた。

 

 春子にはお気に入りの廃墟があった。古い洋風の屋敷だ。取り壊しの話が何度も挙がっているが、持ち主が判然とせず結局そのままになるそうだ。
 ゴシックな香り漂う内装に、人のいない建物独特の脆さや不気味さが加わって、春子の望む写真を撮るにはうってつけだった。三ヶ月ほど前に目をつけてから何度も足を運んでいる。
 春子はローファーのまま撮影現場に入って行く。一階の床は一部剥がれており、スポットライトのように光が集まっていた。春子はその特別な場所にピンクのプリムラを植えている。可憐でひたむきな花。春子の大切な宝物。ひとしきり愛でると、白いノースリーブのワンピースに着替えて二階に上がっていった。
 千夏はいない。脚立を用意しておけと言ったのに、どこをほっつき歩いているのか。
 春子は三脚にカメラをセットし、買ってきたロープで輪を作った。一番好きな窓辺に立ち、引っかける場所を探して上方を見回す。あまり窓に近すぎると自分のいる隙間がないから、少し離れたところにしようか。
 部屋の隅から脚立と工具を持って来て、釘を使ってロープを梁に固定していく。まったく、こういう力仕事は千夏の役目なのに。
 セッティングを終えたら急いで撮影の準備。くすんだガラスに映り込む自分を手元のリモコンで撮っていく。ひとしきりやったらカメラの元に戻って確認。
 いい感じだ。厭世感がよく出ている。次はロープに頭を入れて、物憂げにしてみよう。
 どん、と床下から振動が来た。春子は悲鳴を上げて身を縮ませる。じっと丸まって様子を窺ったが、もう音はしない。一体何だったのか?
 気持ち悪いけれど、今日の昂りが消える前に撮り続けたい欲が勝った。
 試しにロープを首に当てると、得も言われぬ恍惚感があった。今ここで、春子は自分の生殺与奪を握っている。瞬間の佳を切り取ることも、永遠に鍵をかけることも、無為に華を枯らすことも全てはこの手次第なのだ。
 ああ、早くあの絵になる窓辺に行きたい。壮麗な窓枠と曇ったガラス、楽園の終わりを暗示する絶好の背景。
「ねぇ春子ちゃん」
 いつの間にか背後に千夏が立っていた。髪型も、メイクも、身に着けるものもみんな春子の真似をしようとしてくる千夏。
「春子ちゃん、プリムラ見た? 綺麗に咲いたでしょ」
 千夏の表情は暗くてよく見えない。ただ平板な声だけが耳に障った。千春はロープを持ったままふんと鼻を鳴らす。
「なによ今更。そんなの、あたしが毎日お世話してるんだから当たり前じゃない」
「そっか」
 そっか、と千夏は笑った。喉が引きつったような嫌な笑いだった。
「春子ちゃん、両手が空いてた方が雰囲気出るでしょ? いつもみたいに撮ってあげる。リモコン貸して」
 千夏が左手を向けてくる。ポンコツな女だが撮影の腕だけは確かだ。春子は多少の疑問に目をつぶり、千夏にカメラのリモコンを渡した。
 千夏が笑顔のまま窓辺を指差す。
「春子ちゃん。早く窓のとこ立って。お気に入りでしょ、ねぇ」
「は? あたしに指図しないでよ。あんた何様の――」
「何様はどっちよ!」
 どん、とまた床が揺れた。春子はようやく、千夏が後ろ手に金属バットを持っていることに気付く。
 千夏の表情は尋常のものではなかった。殴りかかってくるのではという剣幕で、バットの先を窓に向けて振る。
「いいから立って。首に縄をかけて」
 春子は何も言い返せず、細かく頷いて千夏の命じるとおりにした。先程春子を陶然とさせたロープも、今は冷たく成り行きに従っている。
 千夏がシャッターを切る。連写だ。フラッシュが蒼褪めた春子をあけすけに照らし出す。千夏が話す言葉は機械音と同じぐらいに規則的だった。
「プリムラのお世話、毎日してたのわたしだから。春子ちゃんに言われて、毎日お水あげて病気も気にして台風の日に守ってあげたのも全部わたしだから。春子ちゃんはそんなこと全部どうでもよかったんだろうけど」
 そこにいてね、と陰鬱に呟き、千夏は階段を下りていった。
 何をするつもりだろうか? 春子が一歩動いたとき、地面が激しく揺らいだ。踏みしめようとした床がない。春子は膝下をばたつかせる。無事な場所は? あっちの方なら、そっちに立てば、あそこはまだ、こっちは……!
 最後の足場が崩れたとき、春子が足下に見たのは千夏の静かな眼差しだった。春子の息絶える様を確実に見届けようとしている少女。世界を憎み幸福を諦め、唯一の選択を投げやりに握りしめた儚く傲慢な少女。
 一番なりたかった姿を見下ろしたまま、春子はまぶたを閉じることを永遠にやめた。