留年旅行

 マンションのエントランスにゴルフに行きそうなオッサンがいると思ったら彩人(あやと)だった。
 さっぱりと短い黒髪も、いつもぴしっと伸びた背筋も若々しい清潔感に溢れているのに、ファッションセンスだけが壊滅的だ。
 オッサン、もとい同い年の幼なじみが内側からロックを開けて出てくる。慶太郎(けいたろう)はひらひらと右手を振る。
「おはよ、あっちゃん。今日も十八歳とは思えない格好してるね。またお父さんのクローゼットから勝手に服借りたの?」
「そういう慶ちゃんは今日もまるで小学生だな。その原色のセーター、レゴブロックみたいで似合ってるぞ」
「黒焦げのボンレスハムみたいなダウンの人に言われたくないよ」
 軽口を叩き合いながら歩き出す。電車の時間まで随分あるが、余裕を持って行動するに越したことはない。
「あっちゃん、荷物多くない? 一泊だよ」
「慶ちゃんが何を忘れてくるかわからなかったからな」
「信用がなさすぎる」
 平日の朝、働く人や学ぶ人たちがそれぞれに出ていった後で、住宅街は穏やかな静けさに満ちている。乱さないよう小声で青空の下を行く。暦は春でも三月の朝晩は冷える。慶太郎は手袋越しに右手をさする。
 冬の受験戦争で、友人たちは次々と進学先を獲得していった。早慶上智やMARCH、また警察学校への入校を決めた者もいて……一方の慶太郎は第一志望から第三志望まで全部落ちた。
 耳に入るのは、入学式をどうするだの授業を何を取るだのいつ生協で教科書を買うだの慶太郎の理解できない話ばかり。誰にも悪意がないだけに心がすり減る。
 苦しまぎれの現実逃避に彩人を卒業旅行に誘った。正直、修学旅行すら行き渋った彩人がこんな益体もない旅に同意してくれるとは思わなかった。けれど蓋を開けてみたら、行先の選定から宿と電車の手配まで至れり尽くせり。自分は国立の法学部に現役で受かっているくせに、とんだもの好きだ。
「どれくらいかかるの?」
 横断歩道で止まって、隣に立つ彩人に問う。彩人が首を振って答える。
「昨日も説明しただろ。スムーズにいって三時間」
「なぁっがっ」
 思わず天を仰ぐ。
 そんなに遠いのか群馬。地図上ではそんなに離れていなさそうに見えるのに。縮尺の問題か。
 彩人は信号と腕時計を交互に気にしている。
「寝てろよ。着いたら起こしてやる」
「それドライブで彼氏が言うやつじゃん」
「僕の彼女面したいなら、発案以外にも何かしてほしいもんだな」
 鼻で笑われた。慶太郎は口を尖らせる。
 別に頼んでないし。あっちゃんが先に予約とかしちゃっただけだし。
「ほら、青だよ慶ちゃん。元気に手を挙げて渡ろう。反対のお手々は繋がなくて大丈夫かな?」
 むっかつく。ニヤニヤしやがって。慶太郎はつんと胸を張って歩き出す。
 どうだ。いかに永田慶太郎といえども、横断歩道ぐらいは一人で渡れる。

 

 本当は電車の中でもちゃんと起きていようと思ったのだけれどやっぱり寝落ちしてしまって、乗り換えた後ぐらいから記憶がない。
 だが目の前に広がる光景で、慶太郎の眠気も一気に覚めた。
 木製の大きな道(『樋』ということを後で教えてもらった)に沿って大量のお湯が流れてくる。行った先でひとつにまとめられて滝になり、絶え間なく湯気を上げながら碧く碧く岩場を浸していく。
「すっご、遊園地のでっかいプールみたい」
「湯畑だな」
 彩人の声も気持ちいつもより高い。
 慶太郎はつま先立ちになって周囲を見渡す。
 湯畑を囲う風情ある建物の前を、浴衣姿の人たちが笑顔で行き交う。鼻をくすぐるのは硫黄混じりの春の香り。吹く風の冷たさと温泉の熱がマーブル模様になって肌を髪を撫でていく。肺いっぱいに吸い込んで声を上げる。
「これが……伊香保温泉!」
「草津だが?」
 即時冷静にツッコむのはやめてほしい。
 素のボケを咳払いでごまかし、慶太郎は飲食店が集まっていると思しき辺りを指差した。
「お腹空いたしどっかでお昼食べてから行こうよ。何食べたい?」
 彩人は一瞬眉を寄せすぐに解く。
「蕎麦でも食うか。ここまで来てジャンクだファミレスだっていうのも味気ないだろう」
「いいね。僕天ぷら食べたい」
 家族七人(両親+慶太郎+弟一人妹三人)では絶対に入れないお高そうな蕎麦屋に入って、二人で天蕎麦を頼んだ。天ぷらが別皿で来たことにまず感激した。
「そういえばあっちゃん、さっき変な顔してたの何?」
 割り箸を横に裂きながら尋ねると、彩人は箸を縦に割りながらまた妙な顔をした。ご飯食べようって言ったとき、と付け加えてやっと合点がいったらしい。
「慶ちゃんが『早く荷物下ろしたい』って言ってたから、チェックインが早い宿を探しておいたんだ。でもまぁ当の本人が先に飯にしたいって言うなら、別にいいかと思って」
「え、なんだ言ってよ。荷物置いてからでも全然よかったのに」
「わざわざ言うほどのことでもないだろう。わざわざ駅前まで戻ってくるのも骨だしな」
 彩人の箸が慶太郎の皿からシシトウの天ぷらを奪い去っていく。代わりに大好物のカボチャ天が移籍。
「どうした慶ちゃん。オクラと間違えて大嫌いなシシトウ噛んだみたいな顔して」
「何でもないよ」
 慶太郎は元々自分の皿にあったカボチャ天をつゆにつけてかじった。外はサクサク中はトロトロ、月並みなフレーズが浮かんだ脳を、だしの香りとやさしい甘みが洗い流していく。正面の彩人は二本のシシトウを、緑の粒(抹茶と塩を混ぜたものだそうだ)と一緒に処理している。
 他人に辛口な彩人も慶太郎にだけは、ほくほくのカボチャ天ぐらい甘い。

 

 旅館は駅から離れたところにあった。不愛想なくらいにこざっぱりしていて、調度や内装は似ても似つかないが雰囲気がどことなく彩人の家に似ている。
 彩人は鞄を置くなり襖を開けたり閉めたりし始めた。少し休めると思っていた慶太郎は肩すかしだ。
「落ち着かないなぁ。何やってんの?」
「点検だけ済ませる。時間が経ってから問題が見つかると、僕らのせいじゃないって証明しづらいからな」
 そういえば家族旅行のときも、母がチビたちの世話に追われている間、父が部屋の中をうろうろしていた気がする。彩人は左回りに歩いているので、慶太郎は右回りで手伝うことにした。
「具体的に何を見てるの?」
「建付けとか、壁や床の傷とか……慶ちゃんはいいよ。やっておくから」
「二人でやった方が早いじゃん。さっさと済ましちゃおうよ」
 慶太郎は当然のことを言ったつもりなのだが、彩人は困ったように苦笑した。なに、と訊くと、べつに、と首を振る。
「慶ちゃんも大人になってるんだな」
「なにそれ」
 会話は途切れ、ぱたぱたと建具を確かめる音が残る。一周したら彩人の淹れたお茶で一服した。
「あっちゃん、お風呂いつ入る?」
「好きなときに行って来いよ」
「は? 一緒に行かないの」
「人と風呂に入るのは好きじゃない」
「今更――」
 言いかけてはたとやめる。
 今更でもないのか。着替えで見える部分と風呂で見える部分は意味が別だ。思えば彩人は小学校の頃から泊まりの行事は休んでいた。高校では、修学旅行と部活の合宿だけは渋々来ていたが……。
「わかった、一人で行く。あっちゃんは適当に過ごしてて」
 慶太郎は茶を飲み終え、リュックサックに左手を突っ込んだ。指先は目当てのものにたどり着かない。鞄を引っくり返して中身を全部出す。明日の服、財布、タオル……。
「最悪。パンツがない」
「本当に予想を裏切らないな君は」
 彩人が放り投げてきたのは、ビニールのパッケージに包まれたボクサーパンツだ。慶太郎は眉をひそめて受け取る。
「あっちゃんって何でいつも新品のパンツ持ってんの?」
「君がうちに泊まりに来るとき、一度として着替えを持ってきたことがないからだが?」
「嘘だよそんなこと」
「少なくとも高校に入ってから下着を持ってきたことは一度もない」
「嘘……でしょ」
 目を閉じて丁寧に反論の材料を探していく。高一の夏休み、秋の試験後、年末、高二の春……三年間全部さらったが確かに毎回パンツをもらっていた気がする。母にも『お兄ちゃんのパンツばっかり増えてる』と文句を言われた。
「えっ待って、てことはもしかして僕のせいであっちゃんの減っちゃってるんじゃ?」
「僕は締め付ける下着は嫌いだから」
「そういえば君トランクス派じゃん! 僕のためにわざわざ用意してんの? 重っ」
「文句はその重さを必要としなくなってから言え」
 ぐうの音も出ない。
 彩人はテーブルに置いてある現地の新聞に目を落とし、手だけであれこれ指図する。
「ランドリーバッグはそれ。まとめて行かないとせっかくのそのパンツを落とすぞ。財布も置いていった方が安全じゃないか、買い物なら夕食の後にもできるからな」
「ああもう、わかったよ。いってきます」
 慶太郎はぶつくさ部屋を出た。
 まったく彩人のやつ、実の親より口うるさい。

 

「あっ……つ」
 浴場のガラス戸を横に滑らせると、熱気が全身にまとわりついてきた。時間が早いだけあって一人占め。歌い出しそうに気分がいい。風呂は昔から大好きだ。かしましい妹たちから逃れられる。
 タオルと桶を手に洗い場を歩く。白い湯気が冷えた肌に馴染んでいく。プラスチックの椅子をシャワーですすいで、備え付けの知らないブランドのシャンプーで頭を洗い始める。
 目を閉じている間に、彩人とのことを思い出していた。
 出逢ったのは二歳か三歳だったはずだ。同じ保育園で過ごして、きょうだいのいない彩人は長男の振る舞いの慶太郎に懐くようになった。小学校に上がる頃に野球を始めると言ったら、彩人も一緒についてきた。
 実際のところ、才能の差は明らかだった。投げることが好きなだけの慶太郎より、明晰な頭脳と精確なキャッチング、手堅いバッティングを兼ね備えた彩人の方が選手として優れていた。だというのに、彩人は天から与えられた才を全て『永田慶太郎という投手を勝たせる』ために費やしてくれた。息をするよりも自然に、ただそれだけを。
 慶太郎はシャンプーを落とし、邪魔になった前髪を後ろに撫でつける。身体を洗い終わったら露天へ。自然と縮んだ右肩を左手でそっと包み、お湯の中に自分を沈めていく。
 彩人が慶太郎に過剰な献身を見せ始めたのは中学の頃だった。慶太郎の右肩の故障がきっかけ。彩人がその原因を、自分だけがレギュラーに選ばれたせいだと考えているなら、それは思い上がりというものだ。彩人とは関係のない慶太郎の過失。それ以上でも以下でもない。
 もっと拒絶してやればよかった。こんなのは友情の『正しい』かたちではないと。けれど『正しい』友情も知らない。『投手と捕手』の関係に甘え、捧げられるものを盲目に受け取ってきた。
 慶太郎と彩人はもうバッテリーではなくなる。厳密には既にバッテリーではない。もの心ついた頃からほとんど切れ目なく続いた関係が終わって、二度と戻ってはこない。
 感傷とは違う。どうすることもできなかった、負い目が――消えるような。降り方がわからなかった役目を終えるような、安堵。
 肌がぴりぴりしてきた。慶太郎は息を吐き、緩慢に湯から上がった。
 仕切り戸を閉めて洗い場に戻るとき、そういえばいい景色だったような気がすると思った。多人数で育ったせいか、共有する相手がいないと途端に世界の解像度が下がる。

 

 土産物屋をひととおり見て、買うものに当たりをつけてから部屋に戻った。
 ただいまと声をかけたが音がしない。襖を開ける。彩人は窓辺の椅子に座っている。浴衣に着替えて手元にはタオル類。慶太郎が戻ってきたら風呂に入るつもりだったのだろう。
 思えば彩人の寝顔を見るのは初めてだ。家に泊まったときも慶太郎より遅く寝て早く起きて、まるで昭和の『女房』。
 慶太郎はめずらしくしわの寄っていない眉間をじっと眺める。
 中学まで、周囲からはずっと凸凹コンビと呼ばれてきた。彩人の背が高くて慶太郎がチビ。今でも比べると小さいのは慶太郎だ。けれど慶太郎は高校で五センチ以上背が伸びて、彩人は入学時からほとんど変わらなかった。体重も多分あまり増えていないと思う。
 捕手としてはお世辞にも恵まれた体格ではなかった。いくら才覚と技術があったといっても、別のポジションの方がはるかに活躍できたはずだ。それでも捕手にこだわった理由も、譲らずに済むよう続けていた努力も慶太郎は知っている。
 この旅行も、今までの部活も、彩人はいつも慶太郎を優先してくれた。同じ人間である以上、気力も体力も無尽蔵ではない。限りある中から大事に割いてくれたのだ。慶太郎のために。
 慶太郎は洟をすすって彩人に背を向けた。
 正しい友情なんてわからない。適切で理想的な関係なんてわからない。慶太郎と彩人はもうバッテリーではない。
 バッテリーではないから、これからはできることが少しはあるはずだ。
 テーブルの位置をずらす。押入れを開けて、まず掛布団、それから重量のある敷布団を……。
「慶ちゃん?」
「うっわ」
 手が滑って布団を抱えたまま後ろに引っくり返った。彩人が呆れ顔で見下ろしてくる。
「風呂入ったら飯までは寝るって? 本当に欲求に忠実だな」
「ちがうよ!」
「ああ、わかってる」
 彩人はしゃがんで慶太郎と目線を合わせた。めちゃくちゃに腹の立つ笑顔だ。
「君は本当に僕のことが好きだよな」
「は? あっちゃんが僕のこと好きすぎるんでしょ?」
「違うな。慶ちゃんが僕のことを好きなんだよ」
 彩人は穏やかな声でゆったりと言った。違うと言い張るのも違わないと言い張るのも的外れに思えて、慶太郎は口をもごもごさせて黙る。
 彩人は片手で浴衣の裾を払って立ち上がった。
「僕も風呂に入るよ。せっかく露天付きの部屋にしたしな」
「この部屋お風呂ついてんの? 言ってくれれば僕も大浴場行かなかったのに」
「広いのも、それはそれでよかったろ?」
 釈然としない。しないから、やっぱり反撃をしてやった。
「だったら僕がいない間に入っとけばよかったじゃん。わざわざ待ってようとしたのはさ、結局僕のことが好きだからじゃ――」
「そうだよ」
 彩人は照れも隠しもせず、やわらかく微笑んだ。
「そうじゃなきゃこんなとこ来るもんか」
 顔が熱くて何も言えなかったのは慶太郎の方だった。
 ずるい。肝心なこと(カノジョができたとか別れたとか親とケンカしたとか体調を崩したとかそういうの全部全部!)は問い詰めないと言わないくせに、こういうときばかり素直で。
「慶ちゃん。上がったら、夕食までまた少し散歩でもしようか」
「何でもいいよ、もう!」
 慶太郎は敷きかけた布団を放り出してテレビを点ける。
 隣の部屋からサッシの音。消える彩人の気配。慶太郎は画面に目をやるが、東京でも映る局の番組は全く代わり映えしない。
 慶太郎と彩人を取り巻くものは、これからどんどん変わっていく。部活、同じ授業、行事、共通の友人、あったものはなくなっていく。なかったものはきっと増えていく。新しい友人、恋人、アルバイト、仕事――知らなかったものをまとい始めていく。
 それらを全部乗り越える、というほど大仰な関係ではない。ただ、ただとても。
 ただとても、僕らは忘れっぽいのだから。
 何かが欠けても、何を得ても、大人になったことすら忘れて、僕らはあの日のままの名前で互いを呼び続けていくんだろう。