渇仰

「オレ、茗香(めいか)と付き合うことにしたんだ」
 五ヶ月ぶりに会った徹平(てっぺい)の背丈はほとんど伸びていなかった。椎弥(しいや)は三センチ伸びた背中を丸めてじっと黙っている。
 八月。全国の球児が沸く季節。この大切な時季に『違和感』なんて低レベルな嘘がまかり通るほどには椎弥はチームに貢献しているし、練習を放り出しても構わないほどに妹と幼なじみが大事だった。
 木陰のベンチは、いつものグラウンドとは別世界。蝉の声が近い代わりに熱が遠い。
「椎弥。なんか言ってくんないと、オレどうしたらいいかわかんないんだけど」
 徹平がジュースの紙パックを指で擦るたび、地面に水玉模様ができる。
 てっぺーがブドーあじで、おれがリンゴあじ。
 徹平は肝心なことを無視するくせに、幼い頃椎弥が言ったどうでもいい横暴にだけは律義に従う。
「別に、ゆーことなくない。二人の問題だし、おれはカンケーないし」
 椎弥は奢ってもらったジュースにストローを突き刺す。なんだよそれ、と徹平が気弱に笑う。
「椎弥が言ったんだろ。茗香を頼みたいって」
 違う。椎弥は確かに『おれからめーかを守って』と言った。覚えている発言を故意に捻じ曲げるのは人を騙すのと同じことだ。
 椎弥は口を尖らせてりんごジュースをすすった。
「『偽りを脱ぎて、各々の隣人と真実をものがたれ。我らは互いの肢体なればなり』」
「なんだっけそれ」
「エペソ人。四の二十五」
「よく覚えてんな」
 徹平が頭をかく。彼が信仰をまだ持っているかは、椎弥にとって大した問題ではない。自分が過たないために唱えるだけ。帰依というよりも鎖だ。
 祈りはいつも同じ。自分が捕らわれている間に、大切な人たちが安らかな場所まで逃げてくれますように。
「てっぺー、野球また始めたの」
「軟式だから椎弥とは当たらないよ。弱小で、夏大もこの前負けたばっか」
「ピアノは?」
「本物は、音とか、金とか、いろいろ難しくてさ。ちっせぇキーボード買った。六十一鍵しかなくてちょっと不便してる」
「ふぅん」
 六十一個もあって何が不便なのか椎弥には分からないが、最愛の茗香が徹平と滞りなく通じ合えるのならそれでいい。
 椎弥は顎を上げ空を仰ごうとした。目の前に汗のにじんだ徹平の腕。
 ああ、日光を遮っているつもりなのか。
 椎弥の虹彩は生まれつき色が薄い。球児を見守る友であるべき太陽は、格別の敵意を持って椎弥の目を刺し貫こうとする。
「これからはオレがちゃんといるから。椎弥も必死に茗香から逃げなくていいよ」
 徹平の言葉に椎弥は視線を落とした。
 ダメだ。まだ椎弥の方が茗香を愛している。徹平には椎弥が敵わないぐらい茗香を想ってもらわないと、安心して身を引くこともできない。
 感情を少しも伴わないからかいで牽制した。
「一回逃げたてっぺーに言われてもなぁ」
「一回逃げたから言えんだ。もう逃げないって」
 凛々しい声。椎弥は徹平の表情を確かめられずにリンゴジュースを飲み干す。甘酸っぱさが乾いた喉に突き刺さる。
「がんばれよ」
 総て悪しき言は、口より出すなかれ。
 すべからく善き言を語り、聞く者に恵みを与えん。