伝えない言葉 - 3/3

戯曲の後に ―Closed Gate―

ストライク・ホーム

「おかえりなさい」
 年越しの空港。澪が言葉を失ったのは、なにも紅莉栖が眉を寄せていたせいではない。
「嘘、冗談よ。まぁいろいろ急すぎて、怒ってるのも完全に演技ってわけじゃないけど。そんなに固まらないで」
 何を勘違いしたのか、紅莉栖は不意にしかめ面を崩した。敢えて訂正はせず、澪は曖昧に口を動かす。久しぶりとか多分そんな自分でもどうでもいいことを言った。
「久しぶり。元気そうで安心したわ、澪」
 紅莉栖は品のいい手袋越しに澪の右手を取る。澪は真冬もコートを羽織るのがせいぜいで、小物は身に着けない。素肌にスエードの感触が心地よく、強く握り返すことがためらわれた。
「どうしたの本当に、長旅で疲れた? お説教なら明日にしてあげるから、今日は安心して帰国を楽しんでいいわよ」
 紅莉栖が笑いながら、左手を澪の背に回してきて、ああまただなと思った。
 澪も紅莉栖も日本で暮らしたことのある日本人なのに、彼女はどうも『おかえり』と言う。
 それならそれでいい。澪も紅莉栖の身体を抱き返した。二人は同性で、ここは空港でアメリカだ。ハグぐらい誰も見咎めやしない。
 彼女が澪の帰ってくる場所をこの国だと思うのなら、それが正答で構わない。
 低い位置にある耳に、澪は囁いた。
「ただいま。紅莉栖」
 何に噛みつき何に抗っても、彼女の近くが澪のホームだ。

 

ウェット・バッド・ドリーム

『澪……かわいい』
 頬を撫でる彼女の手つきで、澪もこれは夢だなと既に知ってしまう。だからといって自由に起きられるものでもないので身を委ねている。
 眼前の女は、ゆったりとした黒いドレスを着て立っていた。見慣れた顔貌を、見たことのない淫靡な笑みに染めて。澪は首を反らし、身動きも取れずに彼女を見上げている。
 彼女の髪が落ちかかってくる。瞳を覗き込まれ、吐息が直にかかる。現実の澪は誰かと口唇を重ねた経験がないが、ここで交わすキスは夢のさらに先まで意識が飛びそうになる。
 以前、彼女にキスの経験を尋ねたことがあった。非常に長く不鮮明な言い訳の後、ある、と小さく呟かれたのを覚えている。
 彼の口唇に触れるとき、彼女もこんな気持ちになっているのだろうか。理解したくないと言えば嘘だが、実験のために彼女の口唇を奪うほど澪もやくざではない。
『ねぇ、もっと私だけに許した顔、見せて』
 彼女の手がするすると澪の肌をなぞり、胸骨に至ろうとする。足音が聞こえ、ああ来たかと澪は遠くに目をやった。
 男のシルエット。人相は分からない。澪の記憶にないから。目の前の女が背後を向く。上ずった声で名を呼び、軽やかに男に駆け寄る。黒い衣装はいつの間にか、上半身を絞った純白のドレスに変わっている。澪に気を払うことはもうない。
 男と腕を組んでしとやかに歩み去る彼女を見送りながら、澪は自分の両腕と胸から下が壁に埋まっていたことに気付いて目が覚めるのだ。

「またか……」
 舌打ちして頭をかく。牧瀬家の天井は今日もいつもどおり。
 こんなのはフロイト先生のご意見を仰ぐまでもなく欲求不満だ。だったら好き勝手させてくれればいいのに、夢の中でまで手に入らないものを繰り返し思い知らされるなんて、どう考えても割に合わない。
 横を向けば、紅莉栖が呑気に寝息を立てていた。夜中に変なスレでも見たらしく、その怪談話が科学的にどれほど馬鹿げているかを長々力説した挙句、疲れたと言い張って澪の布団にくるまって眠ってしまったのだ。
 澪は右手を彼女の髪にもぐり込ませ、正面からうなじに触れる。紅莉栖が目を覚ます気配はない。この指先をこれからどこへやるか迷う。
 偽りのない傲慢を吐いてしまうなら、澪は相手が自分に執着を示すよう仕向けられる自信があった。性別を問わず、紅莉栖に限らず。『愛』と錯覚させてしまうこともきっと。
 指先を背骨のくぼみに移す。
 その後、どうしたらいいかわからない。メッキの感情と関係を維持する方法がわからない。自分の両親と同じだ。やり方は簡単で管理は不向き。セックスは一晩で人生は死ぬまで。ならば刹那を我慢するのが長期的に見れば一番利口。だからといって。
 自分が衝動に弱い人間であることを否定しきれるほど、澪も蒙昧ではないのだ。
 寝間着のシャツから覗く、紅莉栖の白い肌に顔を近づけた。鎖骨の細さを知るぐらいの味見は冗談で済むはずだと、都合よく欲望を正当化した。
 立ちのぼる温度がわかるほどの距離で、紅莉栖の薄い胸が息を吸って膨らむ。
「……かべ……」
 ―それが意図的であれ無意識であれ、関係のないことだ。身体を起こして、澪はベッドの上であぐらをかいた。
 紅莉栖は心なし頬を赤らめ、枕の端をぎゅっと握っている。安心と期待がないまぜの寝顔。
 指も口唇も吐息も声も、別の人間のものに置き換えられてしまうかもしれないのなら。
「あんたが憎たらしいよ。紅莉栖」
 私は、その男が思ってもいないことしか言わない。
 あんたがその男にしてほしくない、私のしたいことだけしかしない。
 澪は紅莉栖の首の表側に触れる。ほんのわずか沈むよう親指に力をかける。
「殺してやりたい」
 いっそあんたたちの世界から私を殺してやりたい。
「澪……? どうしたの、泣いてるの……?」
 紅莉栖が不意に目を開けて、澪の手に自分の手を重ねてくる。澪は小さく首を振る。
「泣いてる? 笑ってるだろ?」
 殺されたい。死にたくない。
 手に入れたくない。愛されたい。
 消え去りたい。そばにいたい。
 筋の通らない悪夢から早く目覚めたい(むげんにこのままおぼれたい)

「愚かな妄想だな」
 澪は目を閉じて、桜色の爪にそっと口唇を落とした。
 まぶたを上げるのはとても億劫だ。

 

ハニーハニー・イズ・イット

「あーもう、腹立つー!」
 誰のこととは言わないが、一緒に聞こえてくる単語から、紅莉栖が怒っている相手は例の男であるのに違いなかった。
 澪は黙って隣を歩く。夜の街は過剰にセンチメンタルで、女二人連れを滑稽に照らす。
「大体今回のことだって、あいつが……」
「紅莉栖」
 澪は紅莉栖の肩を抱き寄せた。思いのほか力がこもってしまったが仕方ない。
 もう少しで、彼女は勢い余って車道に飛び出すところだった。
「ごめんなさい、澪。うっかりしてた」
「あんたに何かあったら、一番後悔するのは私じゃないだろうに」
 自虐しながら彼女の身体を正面から抱える。紅莉栖は小さくて、澪の影に全部入ってしまう。
「あったかい」
 こてんと、紅莉栖が肩に頭を預けてくる。両腕が澪の腰に回る。
「澪が男の子だったら、きっと恋に落ちちゃうなぁ」
「うそつけ」
 苦笑して、澪は自分とは違う色の髪を指先で梳いた。
 澪の性別がどうだろうと、どうせ紅莉栖があの視線を向けるのは例の男だけだ。
「早く行くぞ。少なくとも店は、紅莉栖と私が来るのを待ってくれてる」
「そうね。あーあ、約束を反故にしないのがお店の予約だけなんて。つまらない生活」
 するりと澪の腕の中から抜け、紅莉栖はその場で小さく一周してみせた。
 髪が空気を含んで広がって。ふと重力に従って。
 それに合わせて少女の笑顔は、女性の横顔に切り替わって。
「……ほんと、つまらないな」
 何気ない独り言でさえ澪の感情をかき乱す。

 澪は口唇だけで、フルネームも知らないその男を呼んでみる。
 ―なぁ、『狂気のマッドサイエンティスト』。
 早く印をつけておけよ。
 お前の女を欲しがっている人間は腐るほどいるんだ。
 私だって、いつまでも無償でお守りをしてやるお人好しじゃない。
「澪? 行きましょう!」
「ああ」
 澪は頷いて歩き出す。紅莉栖の腕を堂々と取り、つまずかないためにエスコートする。

 お前にその気がないならそれでもいい。好都合だよ。
 この女、かわりに私が
「奪っちまうぞ」