楽園追放 ―Children’s AnotherEden― - 3/8

第二章 ニュージェネ、みたび

◇◇◇

「今の宮代拓留は、あらゆる意味で一般人だ。何を根拠に、あの血みどろショーがまた始まると抜かしているのかは知らないが、あいつはおよそ捜査の役には立たない」
 澪は車に乗り込むなり口火を切った。場所を変えようと言ったのは神成。連れて来られたのがこんな『移動する密室』とは、警察が聞いて呆れる。この男には、澪がうら若い女性だという意識が全くないようだ。
「犯行予告があった、詳細は明かせない。ニュージェネを模倣しようというんだから、当然『主催者』は西條拓巳と宮代拓留も意識しているだろう」
 神成がエンジンをかけて車を発進させる。どこへ行くのかと訊けば、どこにも、とふざけた答えを返す。人の乗っている状態で長く留まっていると目につくらしい。
 澪は仕方なくシートベルトをした。道交法違反で同業に叱られる刑事を見て笑ってやってもよかったけれど、自分の命と天秤にかけるほど面白くはなさそうだ。
「それと私を拉致することに何の関係が?」
「俺は、宮代くんに捜査協力をしてほしいとは思っていない。何もするな、自衛を徹底しろと釘を刺したかっただけだ」
 神成は澪の皮肉を聞き流した。五年前なら噛みついてきていたであろう、悪質な冗談を。周辺を見るついでのように、澪と視線を合わせる。
「用があったのは、あんただ。その優秀な頭を貸せ」
 冷えた目だった。すぐ前に向き直り、助手席に誰もいないような顔で運転を続ける。
 澪は、ハ、とかすれた笑い声を出して、狭い車内で脚を組んだ。
「見ない間に随分偉くなったようだな。他人の意志を踏み潰すのに慣れてきたって面だ」
「嫌ならいいさ。ああやって、普通ごっこ(・・・・・)をしていたい歳になったというのならな」
「口も少しは回るか。その分なら私はもう要らないだろう、話は終わりだ。降ろせ」
「家まで送ろう」
「ここでいい。生安課にまで知り合いをつくる気はない」
 澪は赤いボタンを押し、シートベルトのロックを外した。するすると戻っていくグレーの帯。神成は浅くため息をついて、車を減速させる。
「付きまといをする気もないし、俺は本庁に戻った。もう渋谷署の刑事じゃない」
「そうか。復帰おめでとう」
 感情のこもらない声で言い、澪は道路に降り立った。車のドアを思いきり叩きつける。念の為、家とは逆の方向に歩き出した。
 神成の口にした台詞がずっと頭から離れない。乱暴な足取りで振り払おうとしても、何度もしつこくリフレインする。
『ああやって、普通ごっこ(・・・・・)をして――』
「か、ってん、だよ……!」
 せっかく、いつもよりはまとまるようにと梳かしていた髪を、かき乱す。
 解っている。働いて、自活して、男受けを狙って慣れない服を着て、どうでもいい話をしながら茶を飲んで。こんなものは全部『普通の若い女性』がやることで、澪のようなアウトサイダーのやることではないのだ。
 ――これじゃない――
「私、の」
 ――私のほしいものは、これじゃない――
 鞄に入っていたペットボトルを取り出し、叫び出したい欲求を水と一緒に飲み込んだ。何かがひらりと地面に落ちる。一枚のメモ用紙。〇九から始まる、十一桁の番号が書き殴られている。見覚えのある筆跡だった。
「ふざけた真似しやがって……」
 こんなことをしなくとも、不本意ながら澪はこの数字の並びを覚えている。
 拾った紙片を握り潰す。だが、かけることになるという予感までは消せなかった。

 

 家に戻って澪はまず、パソコンをつけた。普段なら無意識に行う癖だが、今日は確かな意志を持って立ち上げた。あるフォルダを探す。不要になって削除したつもりだったが、奥底にバックアップが残っていた。自分の粗忽を半分呪い、半分感謝。ファイルは全て無事なようだ。
 脈が速くなってきているのには気付いている。
 アカウントも生きていた。アップロードに時間はかからなかった。そのURLをコピーして、@ちゃんねるへ。事件のスレは過疎っていたが落ちていない。粘着質で結構なことだ。更に結構なことに、つい先日の『もうすぐ丸六年か また起こったら女神再臨ないかな』という書き込みで止まっている。
 澪はアドレスをペーストした。余計な言葉は付け加えず直貼り、sage進行も無視。どう叩かれようと関係ない。目的は浮上させること。
 今度はスレのURLを抱えてツイぽへ。当時熱心だった連中のアカウントに、捨て垢で片っ端からリプライを飛ばしていく。真に受ける人間はいなくてもいい。面白がって拡散してくれさえすれば、あとはハイエナ共が、真偽を確かめに集まってくる。
 澪はここでやっと息を吐き、自分の部屋を見回した。
 相変わらずのワンルームだ。元は畳だったところに、木目模様のマットを貼っただけのえせフローリング。座椅子はやめて、自分で組み立てるタイプのパソコンデスクと、キャスターのついた安い椅子を使っている。
 立ち上がり、折り畳み式の室内物干しに歩み寄る。かけっ放しの洗濯物。部屋着に手を伸ばしかけ、やめた。また『あれ』をやるなら、形だけでもそれらしくしておいた方が入りやすい。タオルと下着を持って浴室に向かう。不動産屋のサイトでは『バス・トイレ別』のカテゴリに入っていたが、見事なまでの三点ユニットだ。どうせ澪が風呂に入っている間にトイレを使う人間はいない。逆も然り。
 鏡に映った顔を見て、ひどいな、と言ってみる。夜までには気持ちを整えなければ。
 脱いだ服を洗面台に置き、カーテンを引いた。湯になるのも待たず、水のままシャワーを浴び始める。もとより汗で湿っていた肌を、透明な雫が舐めていく。重さを増した黒髪が、肉付きの定まった裸身にまとわりつく。
「まだ、卒業はできないか」
 呟きは、雨に似た音に消えていった。少女の名残はもう、湯気の中にさえない。

 

◆◆◆

『二〇二〇年、九月二日、零時になりました。皆様、どうぞいらっしゃいませ。ケイさんと申します』
「なんだよ……これ」
 拓留は、父のものだったパソコンを見ながら呆然と呟いた。間違いない、六年経ってもはっきり覚えている。これは、かつて拓留が夢中になって聴いていた『渋谷にうず』だ。
「拓留兄ちゃん、ちょっと黙って」
 結人は椅子に座ってマウスを握り締めている。先程から録音を始めているソフトが、外部の音声まで拾ってしまうと言わんばかりの、神経質な口調だった。
 『ケイさん』……久野里澪は、穏やかな心地よい声で、あの陰惨な事件の名前を口にしている。
 渋谷にうずが復活するらしい、という情報を拓留にもたらしたのは、香月華だった。今の拓留が活用するネットの情報は、天気予報だの地図だのといったものばかり。SNSなどの、不特定多数の人間が感情を持ち寄る場所には近づかなくなっていた。
 そこへ香月がメールで、『ケイさん復活か?』のスクリーンショットと番組のURLを送信してきた。慌てて階下に降りてくれば、結人が既にページを開いていた。うきも青い顔でそばに立っていた。泉理は当直で家にはいない。
 よく似せた贋物であってほしかった。当時のリスナー数を考えれば、本物に近いページを再現できる者がいてもおかしくはない。けれどこの二〇二一年の技術をもってしても、特定個人の呼吸の癖をここまで忠実に真似ることは、極めて困難なはずだった。
「拓留さん……どうしましょう、どうしたら? また、起こるかもしれないって、どういうこと、ですか……?」
 うきが震えて、拓留の腕を掴んでくる。拓留は下手な気休めも口にできず、黙って妹の肩を抱く。
 ここ数年で愛する渋谷も随分変わりましたね、今は皆様の方がお詳しいでしょう、と『ケイさん』は謙遜をまじえ、貪欲に情報を得ようとしている。己に群がる魑魅魍魎から。
『成程、ありがとうございます。では皆様から頂いた情報を精査している間、どうぞ一曲お聴きください。渋谷の生んだ伝説級のアーティスト、ファンタズムの「イノセンス~殺戮の創世記詩編 最終章より~」』
 時計の音。激しくなるイントロ。切なく妖艶な声が、光と抗いを高らかに謳う。
「結人。録音、してるんだよな?」
 拓留のかすれた問いに、結人は画面から目を離さないまま頷いた。コメントは追い切れない量と速さで流れている。
「うきを休ませて来るから」
 結人はやはり声を出さず首を縦に振った。ワンコーラスも待てずに逃げたいのは拓留の方だと、賢い弟には解っていたのかもしれない。
「拓留さん、や、いやです、せっかく……せっかく、みんなそろった、のに」
 いつかは待合室として賑わっていたロビーで、うきはソファにへたり込んだ。立っている拓留の両腕を、引き留めるように強く握っていた。
「お父さんも、お母さんも、お友達も、病院の人たちも……結衣さんも、いなく、なって……拓留さん、やっと、帰ってきて、わたし、もう、もう誰もいなくならないって、そう、おもって、なんで……」
 銀縁の眼鏡の奥から涙が溢れている。非常灯の光をまとい、細い顎を伝って彼女の膝を濡らす。六年前の、ずっと世話をしてきた患者たちを奪われたときの、全てに絶望していたあの姿だった。
 乃々は……泉理は留守だ。今、あのときのようにうきを抱きしめてやれるのは、拓留しかいない。
「大丈夫、大丈夫だ、うき。誰もいなくならない。僕も結人も泉理も、ずっと一緒にいる」
「ほんとに……? ぜったい……?」
「ああ、絶対だ」
 左手を背に回し、右手で頭を撫でてやると、うきはきつくしがみついてきた。
 『絶対』という言葉の無価値さも無責任さも、きっと互いに理解していた。

 

「この番号、まだ神成さんのもので間違いないですか」
『ああ。思ったより行動が早かったな、君も彼女も』
 うきを寝かしつけた後、拓留は結人に声をかけてから自室に戻った。
 電気も点けず、立ったままポケコンを睨みつける。音声通話で何も映っていない画面を。
「その言い草、やっぱり知ってたんですね。僕にかけてきたっていう電話も同じ件ですか」
『そうだ。今度こそ首を突っ込むなよと言うつもりだった』
「ふざけないでください。久野里さんを巻き込んだ時点で、もう僕も、僕の家族も充分巻き込まれてます」
『君は変わっていないな』
「神成さんは随分変わったみたいですね」
 拓留は強く吐き捨てた。神成岳志の声自体は以前と同じだ。だが過度に落ち着き払った口調は、あの頃と比べて様変わりしている。
『年をとったのさ。俺も、そうだな、久野里さんも。彼女は今回、どうやら日和りたいようだから』
「久野里さんが……日和る?」
 拓留は眉を寄せ、ついさっき結人に聞かせてもらった録音を思い出す。『ケイさん』は確かに、ニュージェネに関する新情報を募集していた。しかし、彼女は何も発信しなかった。自身で見つけたものを披露せず、来た文章を読み上げる役に徹していた。
『協力は断られたが、あれは最低限の義理のつもりなのかもしれない。少しは律儀さと慎重さが出てきた、大人になったんだろう』
 罵倒しかけたのを飲み込み、拓留は別の言葉を探す。感情的に責めたところで話は発展しない。特に、今の神成のように淡々と言葉を並べるだけの相手には。
「具体的に、何がどこまで起こっているのか聞かせてください。興味じゃなく自衛の為です。不意を衝かれたら対処のしようがない」
『今のところ、ニュージェネの再開をほのめかす文書のみ。模倣元がオリジナルか再来かも分からない。場所、狙う相手、共に不明』
「いたずら、かもしれないと思っても、動かざるを得ませんよね。警察としては」
『ご理解いただけて助かる』
 拓留が戻ってから初の九月だ。警戒されるのも仕方ない。嘆息し、床に腰を下ろした。
「なら、期間中は僕を第三者にも分かるように、警察の管理下に置いてください。誰にとっても、それが一番安心だと思うので」
『ああ。そうしてもらえるか』
 神成は、その申し出を待っていた口振りだった。静かで事務的な口調。遠い日に、兄がいたらこんな風かもしれないと、親しみを覚えた青年のものではなかった。
『宮代くん』
 すまないなと、最後に呟いた声音だけはどこか頼りなく。いえ、と短く答えて、拓留は通話を切った。久野里に抗議する気力は失せていた。

 

「兄さん、ちゃんと戻ってきてね。約束、約束だから」
「もう、うきったらそればっかり」
 そう笑いつつ指切りに参加してくる辺り、泉理も本当は不安なのだろう。拓留は黙って姉と妹と小指を絡めた。
 九月二日。二十時もとうに過ぎて、青葉寮の前にも夜闇が満ちている。
 身を寄せ合う姉妹の横に、結人は真っ直ぐ立っていた。
「拓留兄ちゃん、留守の間はなるべく僕が見てるから。うちのことも……『先生』のことも」
 結人は、拓留の後ろにいる神成に、ちらと目を遣った。彼女の名前を出さなかったのは、弟なりの配慮なのか。拓留からは見えないが、黙っている以上きっと神成は難しい顔をしている。
「そうだな。お前も、僕のいない間ずっと頑張ってくれてたんだ。またしばらく頼む」
 拓留が無理に笑ってみせると、結人は幼い頃のように口を尖らせ、今度はもっと早くねと念を押した。
「宮代くん、そろそろ」
 神成が硬い声で耳打ちした。拓留は頷き、彼の車に乗り込む。
 向かう先はAH東京総合病院。家族と友人、そしてあそこに勤務する久野里澪を巻き込まないことを条件に、拓留は再び、あの清潔の過ぎる独房へと戻っていく。
「つらいか」
 走り出した車の中で、神成が呟く。前を見たまま独言と聞き違いそうなトーンで。いいえ、と拓留は助手席の窓に寄りかかった。後部座席でこそこそ頭を下げていたのが隣とは、自分も出世したものだと内心で自虐。
「少し、寂しいぐらいのものです」
 そうか、という意味のない相槌にもう返事はしなかった。
 自分より彼の方が余程無理をしていると思った。

 

◇◇◇

「おはよう、澪ちゃん。今日もギリギリだね」
 九月三日、午前八時五十五分。笑顔で話しかけてきた青年を無視し、澪はタイムカードを押した。始業五分前。今日はこのセクションの責任者がいないので、朝礼もないし嫌味を言われなくてもいいはずだった。
 自分のデスクにつこうとして、積み上げられた書類が目に入る。
「またこいつか……」
 うんざりと呟き、澪は旧式のデスクトップパソコンを立ち上げた。背もたれを掴み、クッションの潰れた椅子に腰を下ろす。
「症状も違うし、発症期間中に老化現象が起こってないってんだから、カオスチャイルド症候群じゃないって何度も突き返してるだろうに」
「自分がそう思ってる限りはそれが真実なのさ、本人にとってはね。こういう人たちがいるから、キミも仕事があるんでしょ?」
 先程声をかけてきた、隣席の青年が肩をすくめる。生粋の日本人のくせに、外国かぶれの仕種。垢抜けない眼鏡にそばかす顔。澪より上の二十七・八歳だったはずだが、随分童顔だ。ティーンの頃、澪にアプローチをかけてきていた少年の一人に似ている。
「残務処理よりまともな頭脳労働をしたいもんだ。単純事務をしていると、脳細胞が死んでいく音が聞こえる気がする」
 澪は書類を手に取った。直接面を拝んではいないが、何度も見た名前だ。病院、特に心療内科には『心配性』の患者がしばしばいる。
 今の仕事は、最前線の研究畑ではない。アメリカに戻って後、紅莉栖の勧めで復学したはいいが、澪が精を出した対象は元の脳科学に留まらなかった。法医学、クラッキング等々、武器となりうる何もかもを貪欲に学んだ。委員会が畳んだつもりのシナリオを、めちゃくちゃにぶち壊してやりたくて、持てる力、時間、全てを使って戦った。四年半。
 悲願のひとつが叶った二〇二一年。澪に残されたのは、潰しの利かない経歴だけだった。
「また担当医欄変わってるな……懲りずに誤診だって暴れたのか。そろそろ紹介状出して余所に回させろ、こっちも仕事にならん」
「ところが症候群に関する一番の権威はこの病院と来てる。もう、当時第一線で研究をしていらした久野里先生が前線に復帰なさるしか道はないかも」
「冗談はよしてくれ、ワカギさん。今も昔も、私はデータをまとめて見解を言うだけの、単なる事務員だよ」
 始業のチャイムが鳴る。澪はワカギと呼んでいる青年との対話を打ち切り、仕事に取り掛かる。
 カオスチャイルド症候群自体は、ほぼ全員が寛解した。症候群が引き金となって発症したと思われる別の病、および症候群罹患によって重篤化したと思われる病について、継続した特別支援が必要かどうか資料を作成する。専門知識を要する事務員、と澪は自らの職を称している。
「ところでさ、澪ちゃん」
 ワカギは軽薄だった声を低めた。周囲で各々デスクワークに励んでいる職員を、視線で警戒している。
「あの部屋。また使ってるらしいね、今度も担当はキミ?」
 迂遠な言い方だが訊きたいことは解った。解ったうえで澪は黙って、白衣ではないスクラブに触れる。襟がV字にえぐれた、半袖の青い制服。この部署で、医療衣に該当する服を着させられているのは澪だけだ。十代の頃の『職歴』が尾を引いている。
 宮代拓留の『保護』――事実上の軟禁は、かつて彼の独房であり治療室でもあった個室で行われるらしい。当時の澪の『職場』の一部だ。神成や宮代を経由せずとも、その程度のことは耳に入ってきた。
 だからといって、どうにかする気もない。どんな過去があろうと、今の澪は一介の事務員だ。宮代が巻き込まれないと分かっているのなら、皆が飽いてしまったお遊戯を繰り返したい馬鹿が、一人で踊っているのを見て笑っていればいい。西條の関係者は全員行方をくらませているらしいし、宮代の家族や友人の保護なら、警察は躍起になってするだろう。
 そもそも、澪が『再来』に首を突っ込んだのは、
 ……これ以上考えるのはやめることにする。ポケットからミントタブレットを取り出して、一粒噛み砕く。
「黙って働け、おしゃべり野郎」
 ホームポジションに両手を置く。深呼吸。
 このマシンで、九官鳥にばれずに情報収集をするのは骨が折れそうだ。

 

 南沢泉理は総合ロビーで、律儀に澪の退勤を待っていた。ちゃっかり受付でアポイントメントを取られていたので、裏口から知らん顔で帰ることもできなかった。向こうの勤務先はこことは別の小さな診療所のはずだから、休みか仕事上がりなのだろう。
 澪が近寄っていくと、南沢はソファから立ち上がって頭を下げた。澪は南沢の正面に立つ。白衣を着ずに会うのは初めてかもしれなかった。
「わざわざ挨拶に来たなら礼儀正しくて大変結構なことだが、今の私にあいつをどうこうする権限は一切ない。ここを使うことすら、直接は聞かされていなかった」
 面倒は御免なので先手を打った。南沢は怪訝そうにしている。
「どういうことです? あの子は、ちゃんと話し合って決めたことだからって……」
「誰と話したんだか、とにかく『ちゃんと』の頭数に私は入っていないということだ」
「久野里さんには、何も言わなかったんですか」
 成人して薄化粧を覚えても、南沢はあどけない顔貌のままだった。しかしその両目は今、激しく澪を睨み上げている。
「何の相談もしなかったんですか。拓留は」
 避け続けた明言が嘘のように、きっぱりと彼の名を呼ぶ。
 澪は、何故ともなしに顔を背けてしまう。
「私に当たるな。あいつが勝手をするのは、お前らのしつけが悪かったからだ」
「そうね。……そうです、ええ。私のしつけが足りなかったんだわ」
 ばかな子、と南沢は額を押さえた。『来栖乃々』の頃からよくしていた仕種だった。
「本当に、ばかな子」
 繰り返す声は震えている。南沢の両手は、だらしなく下がった澪の右手をそっと包んだ。
「何かあったら、すぐに連絡を」
「何で私がそんな手間を」
「いいえ。何かあったら、こちらからあなたにすぐ連絡をします。不出来な弟がご迷惑をおかけして、ごめんなさい」
 遅くに失礼しました、と腰を折り、南沢はさっさと歩み去っていった。何か言い返したい気はあったのに、具体的な台詞が一つも浮かばず、澪の手は空を切った。
 澪はあの頃、傍聴席や証言台に居合わせたことはない。だが宮代は法廷で、一切の弁明をしなかったそうだ。ネットの匿名の書き込みによれば、当時の彼の様子は『異常』であり、名も忘れたライターによれば『奇妙』。伏し目がちに判決理由を聞く姿は『厳か』で『傲慢』、主文を読み上げられた瞬間『満ち足りた』ように『清廉』にわずか笑んだという。まるで極刑を『待ち望んでいた』風にも、『嘲笑っている』風にも見えたと。
 以前の彼には様々なラベルが貼られたが、似た表現は極めて少ない。見た者が期待したフィルター越しにしか捉えられない、『ミヤシロタクル』はそういう存在だった。
 きっと今も。澪も、彼自身が友人や家族と称する者も、一度ゆらぎをまとった彼をいくら『解釈』したとして、『理解』はできない。彼がそのように線を引いた以上は誰にも。
 彼がどうしたいのかは、彼自身にしか分からないのだ。
 頼りなく長い影が伸びて、澪はしばらく、床を睨みつけたまま立ち尽くしていた。

 

◆◆◆

 消灯時間を過ぎた病室を、非常灯がぼんやり照らしている。拓留は看護師の閉めていったカーテンを開け、空を仰ぐ。月明かりを期待したが、近年は病院の周囲も随分眩しくなってしまった。
 拓留は書類上『入院を要する精神疾患』によって、因縁深い病院にしばらく寝泊まりする。これから起こるかもしれない連続殺人事件の関係者にされるかもしれない、なんて、確かに病的な妄想だ。苦笑して窓ガラスに触れた。区画の性質から、人が通れるほどは開かないようになっている。その事実を確かめて、そっと手を引く。
 外部との通信は一切禁止。面会も例外なく禁止。着替えや差し入れなどを持ってくることは、家族のみ許可された。チェックを通り抜けた物品だけ、どうにか拓留の手元まで来る。確か文書類は破棄されるはずだ。
 ただの入院にしては厳しい処置だが、神成は最大限の配慮をしてくれた。前回と違い、願い出れば一定の範囲内、付き添いの看護師と歩き回れるそうだ。具体的には、自動販売機で間食や飲み物を買う、他の患者と同じく二日に一回入浴する、などが許されている。警官がドアの前に立って、一切の出入りを禁ずるのは『当該日』だけ。
 随分人間としての扱いを受けていると思う。自分がしでかし、また、しでかすかもしれないことと比して考えれば。
 突然ドアの開く音がして、拓留はカーテンを握って振り向いた。見回りの看護師だろうか? しかし入ってきた若い女は、まるで医者のような、濃い青の医療衣(スクラブ)を着ていた。
「……久野里さん」
 拓留は自分の顔が歪んでいくのを感じた。彼女は入院病棟には来ないと聞いていたから、ここにいることに同意したのに。
「もう聞きつけたんですか。流石耳が早いですね、『ケイさん』」
 久野里は皮肉に耳を貸さなかった。瞬きを忘れたように目を見開いて、一直線に拓留へ歩み寄ってくる。何をと問う暇もなかった。胸倉を掴まれベッドに押し倒される。馬乗りになった彼女は拓留の目を見据えたまま細い両の手を拓留の首にかける。迷いなく力を入れてくる。
「やめ……ッ!」
 拓留は思わず彼女の身体を強く払っていた。腹を殴られた拍子に久野里は拓留の喉から手を離す。
「どうし、たん、ですか、いきなり」
 咳き込みながら、拓留は何とか立ち上がる。久野里は落ち着いた動きで拓留と向き合う。だがその表情は、はっきりとした嫌悪と憎悪に染まっていた。
「もう抗う腕も、立てる脚もあるんじゃないか。……そんなに虫籠が好きか」
 何を試したのか、何を怒っているのか拓留もすぐに悟る。解放されたはずの喉元がひどく詰まって、自分の手を当ててしまう。
「仕方ないでしょう。虫が大人しく籠に入ってるって分かるだけで、安心してくれる人たちだっているんですよ」
「お前はそいつらに安心していただきたくて生きてるのか。御大層な存在だな」
「そうじゃない!」
「もういい」
 久野里がきびすを返す。一つに結んだ長い黒髪が揺れる。しかし、懐かしい実験用の白衣は翻らない。
「一生ここに住め。私は知らん」
「待っ、もっとちゃんと話を……!」
 追いかけようとしたが遅かった。外から電子ロックをかけられる。ドアノブを何度か回してみたが徒労に終わった。
「先に再開したのは、あなたの方じゃないか……」
 開けられない扉の前で、拓留は力なく座り込んだ。
 『ケイさん』は開演のアナウンスを告げてしまったのだ。ニュージェネレーションの狂気は、もう始まってしまった。

 

『九月七日、朝のニュースです。今日未明、○○大准教授の××××さんが、遺体で発見された事件ですが――』
 拓留はうつ伏せに寝転がり、イヤホンのコードを指先でいじっていた。結人が差し入れてくれた、電池式の古いラジオに挿してある。受信専用だというので許可が下りた。
「宮代くん、入るぞ」
 神成は言いながら、既に部屋に入ってきている。
「……おはようございます、神成さん」
 拓留は起き上がり眼鏡をかけた。それでも寝不足の両目はピントが上手く合わない。ああ、おはようと神成はぎこちなく挨拶を返してくる。流石の彼も顔が強張っていた。
 九時半。面会可能時間より三十分早いが、本当なら患者の起床時間はもっと早い。
「具合、悪いのか。出直そうか」
「いいわけないですけど、一人で黙ってる方が気が滅入るんで、話はしていってください。椅子はそこに」
「あ、その前に」
 拓留がベッドに腰かけている間に、見知らぬ人間が入室する。日焼けも眩しい精悍な青年だ。そのままドラマの若手刑事のようだった。
「渋谷署のコガだ。俺は再来のときの『前科』があるからって、お目付け役らしい。まぁ高校時代の後輩だよ」
 神成は苦い顔で、スーツのポケットに両手を突っ込んだ。コガと呼ばれた青年は丁寧にドアを閉めると、よろしくお願いしますと拓留に礼をした。人好きのする笑顔だったが、拓留は神成以外の警官に気を許すことができない。一応の礼儀として、名乗って頭を下げ返した。
「それで、宮代くん。事件についてはどこまで?」
 拓留が大丈夫と分かるなり、神成は性急に切り込んでくる。この癖は今に始まったことではない。拓留はつけっ放しだったラジオを引き寄せて、電源を切った。
「今日未明、大学教授が渋谷地震慰霊碑前で遺体で発見された、としか。まだ、日付が一致しただけの別の殺人事件の可能性も……」
 神成は答えず、コガと顔を見合わせた。意見を求めても仕方ないと思ったのか、すぐ拓留に向き直る。
「『慰霊碑前』という表現は、間違ってはいないが正確じゃない。君は、ニュージェネ第三の事件を覚えているか。二〇〇九年の方だ」
「張り付け、でしょう。路地裏で大学教授が……あ」
 反射で答えてしまってから、拓留は声を失った。神成は頷き、言葉を続ける。
「そう、今日は准教授が、両腕を広げたかたちで打ち付けられていた。杭も張り付けのものと同一の製品であることが確認された。警察は当時から一貫して、その杭の情報を外部に公開していない」
「『秘密の暴露』……?」
「むしろ、宣戦布告だな。これは間違いなくニュージェネーションの狂気だという、パフォーマンスだ」
 今回の犯人はオリジナルの事件を詳細に知っている。当時の犯人かその身内、あるいは警察関係者。それなら。
「僕は、関係ないでしょう。再来で使われた『駒』は、『ゲームマスター』を含め杭のことなんて誰も知らなかったはずだ」
 拓留は慎重に言葉を選んだ。細心の注意を払わねば、入り口に立った若い刑事に余計な勘繰りをされる。返す神成の台詞は、あらかじめ用意されていたように整然としていた。
「知らなかったかどうか君に断言はできない。それに、再来と関係がないかどうかもまだ断定できない。君が何もしないという確証も、君に誰も接触しないという確証も、何ひとつない。現状維持だ」
 拓留は解放されると思って『関係ない』と口走ったのではない。神成も恐らく解っている。それでも言った。引き結ばれた口唇を、拓留は直視できなかった。
「だったら、何の為に僕のところに顔を出したんですか。まさか杭について何かこぼすなんて考えていたわけじゃないでしょう」
「そう構えるなよ。いいじゃないか、君と久野里さんの無事を確認するぐらい――」
「久野里さんには会わないでください」
 強い口調で拓留は顔を上げた。神成は涼しい顔で見下ろしてくる。
「君との約束のことなら覚えているさ。こちらからの接触は避ける。だが、向こうから話しかけてくるのを拒む権利は、君にも俺にもない」
「……相変わらずの詭弁ですね」
「君が綺麗すぎるんだ」
 神成は結局椅子に腰かけることなく、きびすを返す。
「また来る。次は」
「十九日ですか?」
「何か起こる前に、いい知らせを持ってきたいと言いたかっただけだよ」
 じゃあ、と神成は部下を連れて出て行った。ドアが閉まり、電子錠のかかる音が響く。
「コガお前、途中で看護師口説くなよ。昔からナース好きだもんな」
「や、やめてください先輩。中に聞こえますって」
 拓留はドアをじっと睨みつけていた。
 見ずにいた歳月が長かったにしろ、やはり神成の様子は以前と違いすぎる。再会してこれまで、一度も笑っていない。今さっき後輩に飛ばした冗談も、説教と聞き違いかねないトーンだった。
「仲間だと思ってたのは昔の話っていうのは、どっちも同じなのかな」
 久野里の顔を思い浮かべながら、拓留はまたベッドに横になった。ラジオをもう一度つけようとはどうしても思えなかった。

 

◇◇◇

 神成岳志を見つけられたのは他でもない、向こうが澪の勤務している棟に姿を見せたからだ。どう見ても声をかけられるのを待っていたくせに、偶然だなと白々しく言ってのけるのだから罵る気も起きない。
「次はどこの誰が狙われると思う?」
「それを考えるのはおたくらの仕事だろう、公務員。今回張り付けと似た被害者だったんなら、次もオリジナルと似た特徴の人間じゃないのか」
 職員用のレストルームには、澪と神成の二人きり。本来なら働いている時間である。警察とかいうご身分の方に要請されたおかげで澪も大手を振ってコーヒーを飲めるわけで、本当にクソくらえだ。
 神成は長椅子で黒い缶コーヒーをあおった。
「教授と准教授程度の振れ幅を許す手合いだぞ、類似で絞り込めたら苦労はない。それよりも、新しい秘密の暴露に期待することにしている」
「それで宮代拓留という餌をここに撒いたか。あんたもよくよく人でなしになったな。囮捜査を嫌がったのはどこの誰だったか」
 澪が立ったまま壁に寄りかかれば、そういうんじゃないと神成は首を横に振った。
「直後の地震による混乱であやふやにされてしまったが、ニュージェネの主犯格の一人はここの看護師だった。だが張り付けは、そいつの犯行とされている事件の中にはない。あの連続殺人には共犯者がいたはずなんだ」
「生き残りが十二年経って動き始めたとでも? 馬鹿げた推理だな」
「肉体が同一とは限らない。思想的な生き残りなら可能性はある」
「手垢のついた哲学に今更かぶれたか」
 澪は空になった缶を手元で揺らした。ゴミ箱はあちらだ。神成に近付いていくのは気が進まない。神成は知らぬ顔でまだ自分のを飲んでいる。
「捜査なんて、手垢がついたぐらいの基本が一番近道なんだよ。『ニュージェネレーションの狂気』という仕掛けが、最初から『委員会』の管理下にあったとすれば、初代の連中が六年前の『再来』を看過したというのも道理は通る」
 その名を出せば澪が動くと思っているのは変わらないらしい。実際、神成の述べた仮説は澪も歩いてきたところであった。ただ、初代の犯人グループと、和久井、佐久間、『尾上』が同一線上にいるとはやはり考えづらい。かつて語られたように、委員会も一枚岩ではないと考えるのが自然だろう。
 澪は缶をゴミ箱に向けて投げた。金属の縁に弾かれて入らなかった。
「宮代に会ってきたんだろう。奴は現れていないのか」
「俺のお目付け役がいたんでね。無関係ということになっている名前を、不用意に出すことはできなかった」
「無能め」
「そう言うな。これでも八方手を尽くしている」
 神成は立ち上がり、澪の転がした缶を拾ってゴミ箱に入れた。自分の缶は中身が残っているらしい。随分ゆっくりと口に運んでいる。
「正確には分からないそうだが、少なくとも一昨年の夏頃から一度も見ていないと、ここに来る前には言っていた」
「二〇一九年……太陽嵐が激化した頃か」
 澪はポケットからミントタブレットを取り出して噛み潰した。隣の席の九官鳥を殺したくなる度に一粒砕いて憂さを晴らしているが、今は別の男への苛立ちのせいだ。
「お台場の騒ぎも委員会が絡んでいるとは聞いたが、私も詳しくは知らん。善玉のギーク野郎が、正義の番人ぶって情報の拡散を止めやがったからな」
「秋葉原の?」
「そのスーパーハカー殿だ。ところで、あんたのお目付け役とやらはどこに?」
「外だ。煙草を吸ってる。もう戻ってきたようだ」
 神成の手が、ようやく黒い缶を金網の中のビニール袋に落とした。
「この病院も、近隣の道路も全面禁煙だし、しばらくは戻って来ないと思ったんだが。結構話し込んじまったな」
 神成の空になった右手が、懐からスマートフォンを出した。折り畳みの携帯電話をやめたと思えば、ポケコン一強の今でもそんな古いものを使っている。一世代遅れないと死んでしまう病にでもかかっているのだろうか。
「俺は署に戻る。『ケイさん』の網に誰か掛かったら教えてくれ」
「ご自分でアクセスなさいませ、お客様」
 嫌味たっぷりの笑顔で告げてやったが、神成は表情を変えず、また来ると小さく残しただけだった。
 澪は舌打ちし、もう一本コーヒーを買って休憩室を出る。神成の背中はもう遠い。廊下で様子を窺っていたらしいワカギが近づいてきて、大仰に耳打ちした。
「今の刑事さん? 重い雰囲気の人だったねぇ」
 澪は黙って缶のプルタブを指先で起こす。飲料缶は技術の頭打ちを迎えたのか、ずっと進化していない。
「何か嫌なこととかされてない? 大丈夫?」
 ワカギが顔を覗き込んできたので、眉をひそめて押しのけた。おしゃべりが多いのみならず、いちいち距離を詰めてくるのも鬱陶しい。
「仕事の邪魔って意味なら、あんたもあいつも似たようなもんだ。席に戻るぞ」
「えー、澪ちゃんが自分から仕事に戻りたがるなんて珍しい」
「二度と職務に復帰できないようにしてやろうか」
「冗談冗談、遅いから心配して見に来たのに、そんな邪険にしないでよ」
 澪は無視して廊下を急ぐ。途中で、マナーモードにしていたポケコンが震えた。メールだった。『ご無沙汰してます』とスパムメールのような件名。送信元が見知ったものでなければ削除しているところだ。
『今日、帰りに病院に寄ります。できれば少しお話したいです』
 澪は退勤予定時刻を簡潔に打ち込み、返信を終えるとポケコンをしまった。
 余計なことに時間を取られた分、残業にならなければいいのだが。

 

 総合ロビーに顔を出すと、相手は既に着いていた。澪に気付いて立ち上がり、律儀に礼をする。行動が姉にそっくりだ。
「すみません、久野里さん。お仕事でお疲れなのにお時間取らせちゃって」
「文節ごとに『お』を付けるな。馬鹿丸出しだぞ」
 橘結人は、ちゃんとした敬語って難しいですねと苦笑した。
 碧朋学園の制服姿。内部進学は義務ではなかったらしいが、まだ兄が解放される前、十五歳だった結人は静かに言った。『僕が碧朋から逃げたら、何を言っても説得力がなくなるじゃないですか』――その台詞は澪もよく覚えている。
「拓留兄ちゃんには会いました?」
「いや」
 タイムラグもなく嘘をついてしまってから、厳戒態勢だからな、と澪はソファに腰を下ろす。大改装があって以来、ここの雰囲気も随分明るくなった。
 結人も澪の隣に行儀よく座る。
「本当に、起きちゃいましたね」
 口唇は動いたが、少年の喉は事件の名を呼ばなかった。澪は嘆息してポケコンに目を落とす。
「今回の通称は、『またおまえか』……言い得て妙だな」
「なんですぐそうやって、面白がって名付け合戦とかするんでしょう。不快です」
 吐き捨てるように結人は言った。彼が強い口調で何かを詰るのは珍しい。
「これって、また拓留兄ちゃんが巻き込まれてるんですか」
「まだ分からない、というのが本音だな。この事件だけ見れば、犯人は再来ではなくオリジナルを意識しているように見える。それより」
 澪は、先程買った野菜ジュースのブリックパックを一つ、結人に差し出した。休憩所にはなく、売店横の自販機だけで売っている。帰りにたまに買うのだ。
「神成さんの方が妙だと思わないか?」
「神成さんが、ですか?」
 結人は顔を歪めてジュースを受け取る。発言についてなのか、好きではないと言っていた製品をまた渡されたからなのか。
「確かに、何だか思い詰めてるように見えましたけど……」
「昔からニュージェネに執着している口振りではあったが、それにしたって今回の様子はちょっと尋常じゃない」
 澪はストローを挿し、今日の夕食をすすり始める。
「あいつは三度目のニュージェネを言い当てた。私が調べた限り、ああまではっきりと事件の発生を確信している人間は他にいなかった。『犯行予告があった』と言っていたにも関わらず、警察組織にそのことは報告していないようだしな」
「え、や、やめてください、それって……」
 結人は首を振り、身を引き始めている。勘のいい奴だ。
「『神成岳志が妄念の為に、自ら事件を手引きし自演で解決しようとしている』。そういう筋書きでもおかしくはないと言っている」
 結人の口が大きく開く。怒鳴ろうとしているのは明白だった。しかし深く息を吐いただけで、結局荒い言葉を出すことはなかった。
 代わりに澪の目をじっと見つめて、呟く。
「僕、頼まれてるんです」
「何を」
「久野里さんのこと。拓留兄ちゃんに。だから」
 結人は落ち着いたよく通る声で言った。
「起こったことには、きちんと向き合います。全部。信じたい人を真っ直ぐ信じる為には、そうするべきだと思うから」
 それは六年前、彼の兄が同じ十八だった頃に怠ったことだ。弟はしっかり覚えている。
「やっぱりお前は弁護士向きだよ」
 澪は立ち上がり、結人の頭をくしゃりと撫でた。上背は抜かれていないとはいえ、互いに立った状態ではこんなこともやりづらくなってしまった。
「なんか、褒められてる気がしないです」
 結人は拗ねた顔で鞄から何かを取り出す。どうやら弁当屋のビニール袋だ。割とでかい。
「晩ご飯、ちゃんと食べないとこの先つらいですよ。さっき買ったばかりだし衛生的には大丈夫なはずです、栄養的にはいまいちかもしれないけど」
「おまえな」
 澪はまくしたてかけて、先程の結人の様子を思い出し、大人しく受け取った。
「まったく、兄貴と姉貴の面倒くさい部分ばっかり寄せ集めたような育ち方しやがって」
「ありがとうございます」
「褒めてない」
 金は払わないからなとつっけんどんに言えば、もらいましたよと結人は笑ってジュースのパックを振った。
 九月七日も、もうすぐ終わる。