ロスト・アクトレス - 8/11

7.「俺を(僕を)」「見ろ(見るな)」

「いい歳した男が、二人してギターケース担いで電車移動って……まるでバンドマンだな」
「そ、それなら、優愛よりあやせのが様になってた、よね。ふひひ」
「うう、確かにわたしには彼女ほどのカリスマ性はないですけど……」
「あやせって、岸本あやせ? FESと名乗ってる?」
「あんた、どこまで知ってるんだよ……気持ち悪いな」
「気持ち悪いって言うな、事件の情報を覚えるのはこの仕事の基本なんだよ。俺たちはな、たとえば常時何百人という指名手配犯の顔と名前を照合出来るように仕込まれて」
「ハハッ、総務乙」
「うぐ……!」
「ふ、二人共ケンカしないで……」
「「ケンカではない」」

 昨晩、『アンツーク』はようやく、例の検察官の居場所を特定した。
「せ、聖地じゃん……それじゃこれ、聖戦(ジ・ハード)?」
 西條の動揺の理由は謎だったが、示されたのは江東区有明、東京国際展示場駅周辺――すなわち東京ビッグサイト近辺。
「湾岸地域。ドラッグ騒ぎの終着地としては皮肉が利きすぎてて、笑えない」
 神成が額を押さえても、見えていない『アンツーク』は気にも留めてくれない。見えていても気にしてくれそうにないが。
《潜んでいるというより、誘っているようだな。ここで片をつけようという魂胆だろう》
「相手戦力は」
《不明》
「そ、それが分かんないのに作戦立てられないだろ!」
《そう怒るな、ナイトハルト。カッツェたちは少なくとも捕らえられてはいない。私たちの調べと彼女たちの歩みは概ね一致する。ということはだ》
「二人は、きっとそこに来る……」
《ご明察だクラヴァッテ》
 そう呼ぶのはご法度だったかと、付け足された嫌味だかフォローだかは無視して、神成は問う。
「武装させるからにはそれなりの規模なんだろう」
《カッツェはギガロマニアックスだ。警戒がそれなりで済めばいいが、最悪向こうのギガロマニアックスが出てくる》
「ああ、それなら俺には好都合かもな」
「も、もちつけ。和久井は『序列』を下げられてるって話だし……他の僕らより上の世代のギガロマニアックスは、多分、こんな規模の小競り合いにしゃしゃってこない。同世代は大体味方だし、下は……あとは分かるな?」
 突発事態に弱い西條にたしなめられるとは、自分も大概どうかしている。神成は深く息を吐き、ありがとうと西條の肩を叩いた。
「力みすぎてた。すまない」
《私は構わんよ。大切な者が危機にさらされているかもしれないというのだから、普通は取り乱すものだろう》
「普通、ね……」
 本来ならば、警察官はこんなときほど冷静でいなければならないのだが。総務に移ってからどうも調子が狂う。神成は頭をかきながら、余計なことを口走らないよう一度マイクから離れた。おなじみになった楠の紅茶で喉を潤し、パソコンの前に戻る。西條は既に『アンツーク』との対話を進めている。
「じゃあ、その埠頭ビルの一室に、『ラプチャーC』の在庫が大量に眠ってるって、設定でいいの?」
《そうらしい》
「なら、勝利条件の設定を」
 神成は、ノートパソコンを置いてあるテーブルにばんと手をつく。マイクの向こうにも聞こえるように。
「仮に二人を保護したところで、インクを付けられた事実は変わらない。この先、さしあたりでも安全を確保するなら、どこまでするべきだと思う?」
《完全制圧だ》
 『アンツーク』は、一分の遅れもなくそう返した。
《その場にいる武装勢力の完全なる沈黙。それだけの力を見せつければ、軽々に手出ししてくることは減るだろう》
「そ、そこまで頑張りたくない!」
 反対したのは西條だった。ある意味で予想通りだが。
「そっちは指示出してるだけだからお気楽でいいよね、た、戦うのは僕らなんだぞ!」
《妹君のことはいいのか》
「う、うう、その話はヤメロ……僕のライフはもうゼロだ」
 西條はソファの上で身悶えていた。ひとしきり芋虫のような動きをした後、急に起き上がる。
「やるよ! やればいいんだろ! ギガロマニアックスなら一応こっちにもいるし、ポンコツだけど!」
「ひ、ひどいです!」
「やってやんよ! 僕だって、しょっちゅうこんな風になっちゃ身が持たない!」
《決まりだな》
 画面上に五文字が表示されて、神成も西條も楠も腹を括って、作戦の概要を。
 決行は白昼堂々。平日の、就活イベントに紛れて。
「俺、仕事が」
「適当に抜けてよ」
「君も簡単に無茶を言うよなぁ」
「すみません、西條くんは働いたことがないので簡単に言えちゃうんです……」
「に、ニート差別はやめてください!」

 そして今に至る。
 神成は、法事と言って午前だけ(それで済めばいいのだが)抜けてきたので喪服に黒いネクタイ。に、ギターケース。ほぼある種のバンドの人である。西條は傷んだジーンズに薄手の長袖パーカーで、やはりフードを目深に。で、ギターケース。これもまるでバンドの人(神成の独断と偏見によれば)。確かに、パステルピンクのブラウスに、パンツスーツの楠だけが浮いている。いや、車両全体で言えば彼女だけが馴染んでいるのだが。
 奇妙な道中を終えて降り立った先は、西條風に言うと『聖地』――東京国際展示場駅。改札を抜け、透明なドアの向こうへと踏み出す。刑事にとっても、ここは『かの湾岸警察署』の近く。神成も似たようなミリタリーコートを冬になると着ている。
「普段、ごちゃっとした街にばかりいるせいかもしれないけど」
 既に強い海風に髪をあおられながら、神成は空を見回した。
「こういう、湾岸地域特有の……人工的な余白の多さって、気後れするよ」
「け、警察が気後れすることなんて、あるんだ。国家権力のくせに」
 西條は、真っ先に歩き出した楠をおっかなびっくり追いながら、小さく言った。神成も気を取り直して足を進める。座標データは、誤差修正も含め彼女が管理しているのだ。
「その前に人間だぞ。それに、今は警察官として来てるんでもない」
「勘違いV系バンドマンかっこわらい」
「それはそれで不本意なんだがな……」
 舗装された道を行くのは、ぱりっとした格好をした、二十歳前後の若者たち。今の西條たちよりも年下で、ちょうど最初の事件が起こった頃の神成と同じぐらい。眩しすぎて吐き気がする。
 血も陰謀も死も知らない、無垢な存在。この時季ならまだ、内定が取れない未来だって像を結ぶまい。気が滅入るのは神成の勝手というもので、彼らにこうなってほしいともなるべきだとも思わない。彼らは彼らの中で真剣に生き真剣に悩んでいる。それでいい。希望は希望の担い手が、美しいまま持っていてくれれば。知ることは必ずしも幸福ではないのだ。ましてや優劣の基準でも。
 彼らから離れて道を曲がる。西條が、生で見るの初めてだけど多分西ホール側、と教えてくれた。
「さ、最近は個人でも通販対応してくれるとこ増えたけど。逆に企業は会場限定とかやり出すし、悔しい! でも欲しくなっちゃう! ってことで僕は転売ヤーではなく、まるっとDaSHにお願いすることが多い。も、もちろん戦士への報酬は弾むけどね。ふひひ」
 神成も巡査の頃、超大型イベントでこんな建物をどう警備しているのか、どうしても気になって来たことがある。しかし西條の言っていることは半分も解らない。
「あそこです。あのビル」
 不意に楠が足を止め、埠頭橋の向こう側にある、ガラス張りのビルを指さした。神成の記憶では、あの周辺は倉庫ばかりであんなビルはなかったはずだが。
偽情報(ブラフ)によれば、あそこに『ラプチャーC』があることになっています」
「よし、手筈どおり行くか。それじゃあ西條くん、頑張って」
 神成が踏み出せば、ちょちょ、と西條が服の裾を引いてくる。
「そっちこそ簡単に言いすぎ! こっちは一般人、いや一般人以下のオタクなんだから心の準備ぐらい」
 と、同時、不穏な音が遠くから響いた。一発だったが、神成が聞き間違えるはずがない。あれは。
「……銃声だ!」
「あー絶対梨深だよ! 絶対梨深がなんかやったよ! ああーもうやだ引きこもらせろよぉ!!」
 結局、西條が一番に駆け出していく。神成と楠が追いかける。
「ホント、咲畑さんのことだけは頑張るんだな……」
「西條くん、は、昔から、そうで……」
「く、楠さん? 大丈夫か? 息切れるの早いよ?」
「わ、わたし、運動苦手で……さ、先に行って、狙撃ポイント、確保して、ください」
「あ、ああ、気をつけて……早めに来てくれないと俺一人でこれ撃てるか分からないんだけど」
 既にへたり込みそうな楠をとりあえず置いて、神成は、こちらももう失速しかかっている西條に迫る。
「俺は別に、オタク趣味をどうこう言う気、ないけどさ!」
「な、なんだよ!」
「基礎体力ぐらいつけとけよ、君たち!」
 ともあれ、女たちの無事を祈りたい気持ちは同じ。二人の男は全力で、作戦配置に就くべく足を動かす。

「正面突破は」
 澪の問いに、咲畑は力強く頷いた。目標はもう眼前に見えている。
「いける。あの数なら、あたしがどうにかする」
「上等」
 何だかんだで難しいことは抜きにした。絶対の目的がないのなら隠れる必要もない。暴れられるだけ暴れて、やばくなったら逃げるのがシンプルでいい。
 『本物』のギガロマニアックスは、澪が想定していたよりも数段常軌を逸した存在だった。ドアの前で六人、エントランスホールで十二人、咲畑梨深は一滴の血も流すこともなく無力化した。澪が、外部と通じていそうな警報装置を無効化しているわずかの間に。
「難しいことはしてないよ。あたしたちの姿が、一番銃を向けたくない相手に見えるようにしてるだけ」
 咲畑はリアルブートしたディソードを両手に、静かな口調で言った。剣としての鋭利な縁。だが流線的なフォルムは、どこか管楽器を思わせた。妄想だけで悲鳴を奏でる残酷なホルン。
 澪には関係のないことだ。その仕組みを解明したい欲はあっても、彼女の感傷にまで踏み込む理由はない。敵が落として走り去った突撃銃(アサルトライフル)を手にする。
「久野里さん、それは?」
「SCAR‐L、最近よく出回ってるやつだ。ハンドガンじゃ有効射程が短すぎるから少し借りる」
 減音器(サプレッサー)は一応つけたままで。セレクターはフルオート、各個撃破は咲畑に任せて、澪は面で威圧する方が効率的だ。となるとマガジンがもういくつか欲しいか。
「慣れてるの?」
「まさか。私は善良な科学者だぞ。護身を越えた銃を触るのは初めてだよ」
 銃床(ストック)の位置を調節。このライフルは体格に合わせて長さを変えられる。階が進んで狭くなったらいっそ畳んでしまおう。
「捨てて、それ」
「あ?」
 咲畑は無人になったホールの中央に立ったまま、悪趣味なほど磨き抜かれた床を睨みつけていた。
「人を殺したらダメ」
「何を今更、人倫振りかざして――」
「違うの。あなたが考えてるような理由じゃない」
 増援の足音が聞こえてくる。咲畑はすっと前に出る。
「相手の人だけじゃなくて。殺してしまって、一番ダメになっちゃうのは……絶対、あなただから」
 その、澪より年上の、しかし紅莉栖とそう変わらない歳のギガロマニアックスは、軽やかに鏡面の床を蹴り。身を裂くことさえせず、空への一閃だけで新しく四人を絶望へと沈める。
「取引でしょう。攻撃はあたしがやる。あなたは本当にしたいことをやり遂げることだけ考えて」
 二股の階段の上に降り立った彼女は、澪の思考を読んだのかどうかすら分からない口調と言い回しで、すげなく告げた。
 澪は舌打ちして、階段を駆け上がる。ライフルはきつくグリップを握って捨てなかった。

 西條は、梨深がいないと僕は意味がないと、半泣きで埠頭橋を渡っていった。神成はそのまま水辺に沿って走り、『夢の大橋』――何が夢なものかという話ではあるが――に上がっていた。幅三十メートルほどの石畳の橋である。右手側はお台場、赤い観覧車が平和に回っている。なんでもここは、大規模のイベントでは『待機列』になることもあるそうだ。
 神成は、縁の丸く張り出した部分に立った。件のビルを目視で確認。距離はおおよそ二五〇メートル。言ってしまえば大したことはないようだが、普段扱っている拳銃弾の有効射程がせいぜい五〇メートル……狙った場所へ確実に当てるなら十メートルぐらいにもなることを考えると、とんでもない遠さだと改めて感じる。やはり西條と一緒に白兵戦でも挑んだ方がまだよかったのではと、思ったところで今更だ。守られたがりの彼にさえ『逆に邪魔』と両断されたのだから。
 ライフルを取り出す。人通りもないわけではないけれど、その辺はもう超誇大妄想家に任せるしかない。二脚がかえって邪魔になるので、欄干のくぼみに置いて固定。ストックを肩に当てるが、狙撃に関して素人の彼はスコープの覗き方もろくに知らない。手持無沙汰で呟いた。
「静かだな……」
「ギガロマニアックス研究は、元々『沈黙の兵器』開発の副産物だそうですから。本来、彼女たちは大仰なことをしなくとも、相手を無力化出来るんです」
 そうこうしているうちに、楠が隣に追いついてきていた。やわらかな髪をなびかせる横顔があまりにも儚げで、神成も、何故『わたしたち』ではなく『彼女たち』なのかと問うことが出来なかった。小さく動く口唇をただ見ているだけで、音の意味を理解するのにラグが生じた。
「ラベルの話……」
「え?」
「西條くんが、したでしょう。咲畑さんのことで……」
 楠は両手を胸の前で重ねて、目を伏せる。
「わたしたち、みんなそうなんです。わたしは、美愛ちゃんを殺してしまいました。わたしが、優愛ちゃんを死なせてしまったから。だからわたしは『楠優愛』を生きている」
 何を言っているのか、神成もはっきりとは分からない。ただ状況と、途中で明らかに変わった口調が、痛いほど真実を匂わせる。
「西條くんは、何も知りませんでした。彼は、自分が十七年を生きてきた『西條拓巳』だって、疑いもしなかった。それほど、『ニシジョウタクミ』さんのリアルブートは完璧だったんです」
「待ってくれ、それって、つまり彼も……」
「――尾上世莉架さんと、似ているんじゃないかって、ことですよね。違います。彼女が『新規作成』だとしたら、西條くんは『上書き保存』の為に生み出されたんです」
「だったらオリジナルは……!」
 神成の強くなった語気を拒むように、楠は顔を覆って座り込み、首を横に振った。
「彼は、託された人だから……あんなに臆病なのに、優しい人だから……。『西條さん』を誰もが忘れ去っても、まだその記憶を大事に持っている、妹さんと咲畑さんのことだけは、守らずにいられないんです……。彼らを正しく定義出来るのは、もうその二人だけだから」
 ――ああ、と神成は胸中で深いため息をつく。
 楠は、何度こうして、愛しい背中を見送ったのだろう。別の女たちの為に命を懸ける、決して振り返らない背中を。それでも彼女は、彼の前では恨み言ひとつ口にしなかった。気をつけてと控えめに笑ったきりで。
「楠さん」
 神成はライフルを一度下ろして片膝をつき、楠と目線を合わせた。こんな服だから差し出すハンカチも真っ白だけれど。
「俺は『西條くん』しか知らないけど、彼、そんなに聖人じゃないよ」
「あ、は、はい。そうですね……?」
「そう。すぐ変なスラング言うし。結構打算的だし、冷たいとこもあるし」
「わ、悪口ですか?」
「どうだろう。でも、彼は俺にきっぱり言ったんだ。妹さんと咲畑さんを守りたいのは、『西條拓巳』の感情だって。疑わないし、捨てないって」
 大きな目が見開かれて、雫をこぼすことをやめて。神成はその華奢な手にハンカチを押し付ける。
「君が守りたいのは、誰だい?」
「わたしは」
 楠は立ち上がり、右手で神成のハンカチを握り締めたまま、左手で目許を拭う。
「西條くんしか知りません! 七海さんも、咲畑さんも、守りたいのはわたしだって同じです!」
「わかった、そうしよう。俺も西條くんと、君しか知らない。だけど、いや、だからこそ、君たちの守りたいものは一緒に守ろう」
 神成も腰を上げた。わたしも久野里さんを守りますよという小さな声は、肩をすくめて聞かなかったことに。ポケットから、細長い金色を取り出す。
「最後の集中」
 ウインクのひとつでも飛ばせれば様になるだろうが、生憎そういうのは苦手なので笑うだけ。楠もようやく笑ってくれて、二人でそれをじっと見つめる。
 もう背中は見送らない。神成と楠の現実は今、そのたった一発の銃弾。

「ッ、ただのネズミ捕りにしては規模がデカい……!」
 澪は舌打ちをして、物騒な機械から身を隠した。ロボットたちは固定された笑顔で、呑気な音声ガイダンスを垂れ流しながら銃弾をばらまいてくる。咲畑は澪の傍で呼吸を乱している。
 フロアはもう二桁に達したが、ここへ来てまずいものを出されてしまった。二足歩行式人型ロボット……二〇一五年に放映が終了した『機動バトラーガンヴァレル』というアニメをきっかけに、爆発的に普及した代物である。もっとも『歩行』とは名ばかりで、未だローラー走行ではあったが。
 文字通りの『脳なし』に、咲畑の妄想は通用しない。壊す妄想を澪と共有しようにも、彼女自身がそのイメージを抱きかねているらしい。多分変な電波が出てる、と咲畑はあれが姿を現してから、ずっと頭を押さえて顔を歪めていた。
「だから言ったんだ……!」
 連中は咲畑がギガロマニアックスだと知っていたはずだ。だから自分たちは席を外しているし、効果のありそうな罠を張っている。だとすればものを言うのは物理武器だ。
 澪はタイミングを計る。あの子供の上背ぐらいの気色悪いロボットたちは、一斉掃射の後しばらくして再装填(リロード)の硬直時間が発生する。……三、二、一。
「そこ!」
 上体だけ出して、トリガーに指をかけぐっと力を込めた。肩で反動を抑え込むことで精一杯。素人の腕で的確に狙えやしないけれど、銃口をゆっくり横に振り、面制圧で馬鹿げた機械共を黙らせていく。弾倉が空になったのでボタンを押してリリース、ボックスが床に転がる。今乱暴に挿し込んだのが、澪の手にした中では最後のマガジンだった。
「ごめんね、久野里さん。あたし、えらそうなこと言って」
 咲畑は隣で自身の汗を拭う。もう随分息は整ったようだ。澪は小さく首を振る。
「気にするなとは言わんが、どのみちあんたがいなきゃ私はとっくに死んでる。だからとりあえず脱出までは付き合え。ついでにコーヒー代を返せ」
「ええー……ちょっとしか飲んでないのに」
「冗談だよ」
「今『半分な』って思ったでしょ」
「読むな!」
「思考じゃなくて顔に書いてあったよ」
 無人になった廊下に出る。一番大きそうな部屋のドアを、咲畑のディソードが段ボールか何かのように斬り落とす。ブラフでは、『ラプチャーC』があるはずの部屋。外側の壁が全面ガラス張りで、B級アクション映画ならきっと幹部が鎮座している。しかし、澪の考えた通りここにも誰もいない。
「これ以上は意味がない。痛手はそれなりに与えた。手掛かりならまだあるしな」
「そうだね。あたしも、一度戻ってタクを安心させたいから。もう脱出――」
 咲畑が言いかけたとき、唐突に何かが部屋になだれ込んできた。七体の二足歩行ロボット。だが今までと質が違う。大人と同じ頭身で、もっと滑らかに動作する、精巧な造形のもの。動くマネキン。銃器ではなく、もっと原始的な凶器、すなわち刃物で武装していた。
「……そう。全部見てるって言いたいんだ」
 ディソードを構えた咲畑の声が震えている。形の違う七種の剣。その中に自分の所持していたものや、咲畑のものと同じ形状を認めたとき、澪はそれが『何の出来損ないか』を瞬時に理解した。
「久野里さん、逃げて!」
「ここからどこに!?」
 咲畑の忠告に怒鳴り返し、澪はフルオートで最後のマガジンを撃ち尽くした。破壊はおろか傷つけることすら出来なかった。
「窓! 脱出するもの作るから、はやく……ッ!」
 咲畑は叫んでいたが、窓の外には何もない。ここで飛び降りるほど澪も無謀にはなれない。
 人形たちは何も言わず、剣を振るでもなく、ただ迫る。咲畑は妄想を諦めたようで、直接的な武器としてディソードを握り直す。澪も黙ってハンドガンを抜き、どうにかこのガラクタを出し抜けないか考える。だが二人の女は何も出来ずに、そのままじりじりと窓際に追い詰められていく。
 有明の空は皮肉なくらいの快晴であった。

「あれ……! 咲畑さんと、恐らく久野里さんです!」
 双眼鏡で観測手(スポッター)を務めていた楠が、西條が向かったビルを指差しながら叫んだ。神成もライフルのスコープを覗き込む。ここまで視野が狭いと不慣れな彼には一苦労だったが、どうにか目標を捉える。
「ああ、間違いなく久野里さんだ。まったく、どうしようもないなあいつ……!」
「なんだか、追い詰められてるみたいです……どうしましょう」
「ここから『繋げられる』かな?」
「や、やってみますけど……それに気付いてもらえなかったら意味が」
「じゃあ、いよいよこいつの出番だろう!」
 射角を調整。このスコープのレンズは本来十一枚あるべきなのだが、再現されているのは両端の二枚のみ。十字線(レティクル)から彼女たちを外す。この射撃に物理法則は適用されない。零点規正(ゼロイン)湿度気温気圧銃口初速風速風向重力自転慣性(コリオリ)効果――ああ知ったことか知ったことか。今の神成には関係のないことだ。精確な照準を定める必要もない、弾丸は直進する(・・・・・・・)。この銃がしなければいけない仕事はひとつだけ。
 神成は深く息を吸い、止める。彼女たちより離れた、ガラスの下方を狙う。この弾丸の貫通力なら、余計な飛散はせず、ただぶち抜いて音を立てるだけだろう。いつもより重い引き金に、指をかける。スコープの向こうを睨みながら、強く念じる。
 こっちを向けよ。君はいつもそうだ。俺なんて眼中にないって顔して、そのくせこうやって迷惑をかけて。心配をかけて。うんざりなんだよ。だから、もういい加減、背中を向けるのはやめて。
 こっちを向けよ、久野里澪。
「俺を――見ろ!」
 怒鳴り声と共に放たれたのは七.六二ミリ×五一NATO弾。神成が『アンツーク』に頼らず用意した実弾……その具現化。神成は楠と、何度もそれを観察した。目の前でばらして構造も説明した。実射動画を何度も観て、イメージを共有した。
 このライフルがハリボテでも、偽物でも。二人は最初の一発を真実(・・・・・・・・)だと信じたから。この『銃弾』だけは、完全無欠の『現実』になる――!!
 勢いでエジェクトした薬莢が地に着く前に、神成岳志が狙撃銃を所持していた事実は消え失せる(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)。そのまま、最初からそこにあった細い橋(・・・・・・・・・・・・・)を駆け上がる。ビルの窓ガラスが内側から勢いよく割れ、二つの影が一つに固まって飛び出してくる。久野里澪は咲畑梨深に抱えられるように着地した。咲畑に手を引かれて橋を馳せてくる。神成も走った。全力で。この不吉な黒いネクタイを風に任せながら、声を限りに叫ぶ。
「久野里澪!」
 どうしてフルネームなのか、呼び捨てなのか、この際どうでもいい。ただその女の手を掴みたくて、右手を前に突き出す。行ってと咲畑が彼女の背を押した。久野里澪が転がるようにこちらに来る。同時、突き下ろすような暴風に阻まれ、橋に亀裂が入る。
「澪っ!!」
 右手をいっぱいに伸ばした。彼女も。神成は崩れゆく足下と、不愉快な浮遊感の中で、ひたすらその指先を求め、喘ぎ、手繰り寄せる。自分の領域に引きずり込む。
「――!」
 何か叫んでいた彼女の頭を胸に抱えて、神成は怒鳴った。
「息を止めろ!」
 重力。衝撃。背中が水面に叩きつけられる。自身は止め損ねた息が、一塊の泡になって水中に消えていく。とにかく久野里だけでも呼吸を確保させなければ。彼女の身体を押し上げた後、遅れて神成も塩水から顔を出し、咳き込んだ。
「神成さん!」
 小娘の分際で心配そうな声を出すなというのだ。今まで散々な態度を取ってきたくせに。神成は息苦しさに耐えつつ声を張った。
「ッ、い、じょうぶだ! 彼らは!?」
 落ちたのは岸と岸のちょうど中間ほどの地点だった。残された足場には咲畑梨深と、今しがた上ってきた西條拓巳。後を追ってきていたのは、マネキンのようなものだった。数えてみる。七体……全て形状が違う刃物で武装。
 咲畑梨深は、神成が初めて見る女は、西條拓巳に寄り添うかたちで立っていた。まるでそうなる為に生まれたかのように。そして西條拓巳も、当然のごとく彼女を背にかばって立っていた。まるでそうする為に生きているかのように。
 マネキンたちはこちらを見向きもしない。それを幸いとし、神成は久野里を抱えたまま、元いた公園側の浅瀬へ泳いでいく。
「神成さん、大丈夫ですか!?」
 真っ青な顔で楠が駆け寄ってきた。おれはだいじょうぶ、と神成は公園の鉄柵を乗り越え、濡れて邪魔になった髪を後ろへ撫でつけた。先に上がらせた久野里を見遣る。彼女も髪を気にして、長すぎるしっぽを毒づきながら絞っていた。どうやら憂うに及ばないらしい。
「彼らは、一体何を……」
 神成はシャツの第一ボタンを開け、水を含んで重くなったネクタイを解く。全部脱いでしまいたいがそうもいかない。楠は神成の疑問に答えずに、曖昧な笑みで西條たちを示した。
 西條が頷いた。咲畑は頷き返し、彼の背に両手を添えた。途端、彼の持っていたあの『剣』が刃渡りを変える。彼の上背ほどにも長くなる。
「あれは……!」
「――言ったでしょう。あれは、『西條くんのディソード』です」
 潮風の中で、髪を押さえることもなく、楠は目を細めながら彼らを見ていた。
「かつて、咲畑さんが西條くんを守ろうとして危機に陥ったとき、西條くんは自分から死地に飛び込んだ。ずっと誰かに守ってもらいたいと望んでいたはずなのに、彼女を救いたいという想いが他のどんな願いをも超えたんです。その姿を、咲畑さんは八年経っても色褪せず覚えています。西條くんにとっても、あれは本当に特別な出来事だったはずです」
 だから、あの『ディソード』は二人が一緒じゃないと使えないんですよと、消えそうな声で楠は微笑んだ。
 並ぶ敵影。マネキンは西條たちを囲むようにゆっくりと移動する。彼はその妄想の剣を上段に構える。刀身が仄赤く輝き、旋風が、目深に被ったフードを激しく押し上げる。彼は素顔をさらしながら、普段なら他者から逃れようとする瞳を、真っ直ぐ前に据えた。
 咲畑が両手に持った、彼女自身のディソードが、西條の背中で大きく広がったように見えた。真白の燐光を放ちながら、翼のごとく彼を彩る。彼はただはっきりと、自己の存在を宣言する。
「やるよ。……僕は、梨深の望んだ妄想だ(・・・・・・・・・)
 ぱんと羽が散り、鋭利になった欠片は西條の『剣』に集う。神成は思わず久野里の手首を掴み、自分の後ろに下がらせた。見えない! と噛みつかれたが放っておく。楠は真剣な顔で西條たちを見守っていた。襲いかかる歪で流雅な刃を、西條は剣圧だけで弾き返す。
 八年。その数字の意味を、神成は痛いほど理解してしまっている。宮代拓留は自らの手で『ニュージェネレーションの狂気の再来』の幕を引き、ギガロマニアックスとしての力を捨て去った。オリジナルである『ニュージェネレーションの狂気』も、西條拓巳の手で収束へと向かった。だとしたら、彼がギガロマニアックスとしての力を失ったのも。
「惚れた女の為に全て使い尽くした、か……」
 いつの間にか久野里が、いざとなれば神成を盾に出来る位置から、西條たちの姿を観察していた。それでいい。神成は、彼女を前に出す気はない。
「男なんてさ」
 ぽつりと、呟く。西條が横薙ぎに『剣』を一閃する。七体の動くマネキンを、正確無比に破壊する。あれはきっと、『咲畑梨深が見た、最も勇敢な西條拓巳の姿』だったのだろう。
「そんなもんだよ」
 映画のように派手な爆発を見つめながら、神成は何故か(・・・)ポケットに入っていたライフル弾を、ずっと指先でいじっていた。