ロスト・アクトレス - 7/11

6.二人のアクトレス

 つまるところ、久野里澪がその議員に辿り着いたのはほとんど偶然でしかなかったのだ。
 『元カオスチャイルド症候群者に該当する若年労働者に関する新条例』、提言された内容が澪にとっては気に入らなかった。アメリカにいた澪にはどうせ関係のない話。迷惑ということもないが、ただ単に癇に障ったのだ。最初は、ちょっとすねの傷をつついて炎上させてやろうかと軽く考えていた程度で、政治家生命もましてや生命活動も停止させようとは思っていなかった。だが周囲を探るうち、おかしなことに気が付いた。
 ただの汚職にしては極端な額の、不透明な金の流れ。経歴が不自然に抹消された秘書。特定工業分野への異常な傾倒。お抱え弁護士のみならず、端緒の見えない検察官との深い癒着。
 はっきり認めてしまえば好奇心だった。断じて正義感などではない。付け加えるならば、科学的根拠など何もない馬鹿げた言説だが――女の勘だ。
 『ラプチャーC』というドラッグの情報を手に入れた。ガセだとすぐに分かった。澪は渋谷の情報屋をやっていたのだ、こんなもの実在しないことぐらい考えるまでもなく気付く。ただ、『何故そんなブラフを仕掛けねばならなかったのか』は引っかかった。
 紅莉栖に黙って、なけなしの金で帰国した。わざと露出度の高い格好で、髪も下ろして、渋谷の暗部を歩いてみた。つまらないナンパばかりでむしゃくしゃした。レイプ未遂犯の股間を失神させるほど踏みつけているときだけ、ちょっと気が晴れた。麻薬のディーラーも一応引っかけたけれど、商品のラインナップが退屈であくびが出た。飽きたから今日はもう帰ろうと思ったとき、やけに小奇麗な男に声をかけられた。
『ねぇ君、こういうの興味ある?』
 凡庸極まりない文句。だが男がちらつかせたパッケージは、澪が議員のPCで見かけた『ラプチャーC』のもの。
『今手持ちがないの。連絡先を教えてもらえる?』
 澪は妖艶にそう笑って、サンプルだとかいう小さな包みを胸の谷間に押し込んだ。安宿で中身を調べたら何てことのない睡眠薬(ハルシオン)だった。
 百瀬からも紅莉栖からも連絡が来ていた。明確な理由はなかったが全部無視した。
 だからきっと振り向いたのだって、その議員が殺されたからという以上の理由はなかったのだ。そうであると澪は信じたい。そこに神成岳志とかいう、思いの外長い付き合いになってしまった『間抜けな警官』が居合わせたのも、偶然だと。
 何故彼に電話をしたのか、自分でも分からない。本当のことを話そうと思ったのでもない。ただ
十円玉を入れて、自然と覚えてしまった番号をフォンブースの中で押していた。彼は出なかった。留守番電話に用件をせがまれても、何も言えない。澪は最初から、何を言うつもりでかけたのでもなかったのだから。
 受話器を戻しながら、久野里さん、と少し枯れた調子で自分を呼ぶ声を、ぼんやり思い出していた。

 手掛かりは、あからさまに南下していた。誘われている自覚がありながら、澪は軽やかにそれを追う。どうせもう、心配する人間も悲しむ人間もいなくなった。久野里澪は自ら失われた。委員会に噛みつき、ひとつでも多く傷痕を残す。我が身に残った『理由』などそれで充分だ。感傷も、しがらみも、絆も――もう何も要らない。得たような錯覚に陥ったものを、澪は捨てていくことに決めてしまったから。
 澪は江東区有明の埠頭で、小さく頭を振った。まだ暑いのに引っかけた、濃紺のジャケットの下にはハンドガン。ちょうど胸が大きいので、アンダーに出来た空間に沿うようにホルスターを巻き付けている。シグ・ザウエルP226。随分前に手に入れたきりだが、堅実で、『不合格』の烙印を瑕としなかった『優秀なやつ』。初めは握りづらかった複列弾倉(ダブルカラム)の銃把も、今ではすっかり馴染んだ。予備弾倉を持ち歩かない澪には、これくらい装弾数があってくれた方がいいのだ。
 デニムのショートパンツから伸びた脚はタクティカルブーツに包まれ、フルフィンガーの薄いレザーグローブの下は汗で湿っている。笑いそうになるのを、必死でこらえなければならなかった。こんないかにもなコンテナの並びで、偽ドラッグの流通ルートをやっと突き止めたような顔で、誰か現れるのではないかと息を潜めて。笑うなと言うのが酷な話だろう。
「そこに、いるの」
 若い女の声がして、澪は即座に銃を抜き放った。コンテナの陰から躍り出る。銃口が九月の朝陽に鈍く光る。対峙したその女は何も持っていなかった。否、何も持っていないように見えた。ただ、その不自然に握られた両手は。
「ギガロマニアックスか」
 澪が呟くや否や、女は顔色を変えた。長い髪の女。二十代半ばぐらいで、澪が見てきた症候群者たちよりも年嵩。白いノースリーブのシャツに、サックスブルーのフレアキュロット。ヒールの低いグラディエーターサンダルは、足全体を保持している分なかなか安定感がありそうだ。海辺で浮かない程度に、だが確実に動きやすさを重視した服装をしている。
「それを知ってるってことは、やっぱりあなたはあたしたちの、敵、だよね」
「私は出来る限りのギガロマニアックスを殺したいと思っている。どうやら正解だ」
 甲高い音。不可視の剣が可視化する。青味を帯びた剣身に赤く光るガラスライン――『ディソード』。澪は銃のグリップを強く握り締める。二人の女は同時に叫ぶ。
「『委員会』のギガロマニアックスは、私の抹殺リストのトップ項も」
「タクは絶対に殺させな――あれ?」
 正確に言えば叫ぼうとした。中途で、互いに首をひねる。
「『タク』?」
「『委員会』?」
 間抜けに顔を見合わせて、彼女たちはようやく、相手が自分と同じ網に掛かった魚であると認識したのだった。

「ほら」
「あ、ありがとう」
 女――咲畑梨深と名乗った――は面映ゆそうに、澪の差し出した缶コーヒーを受け取った。
 あのままあそこで話し込んでいるわけにいかないので、二人は本命のビルを流れ越しに見張れる、『水の広場公園』に場所を移していた。澪としてはあまり長居したい場所ではない。名前こそファンシーだが、安っぽい鉄柵の下に波が打ち寄せては耳障りな音を立て、吹く風は非常に磯臭い。もっと整備された区画もあるものの、人目を避けるなら端を選ぶしかなかった。右手側には有明埠頭橋。すぐ左手には、安い特撮に出てくる怪獣の股座みたいな建物……名前は随分ご立派な『国際展示場』。
 更に悪いことに、咲畑は澪以上に金を持っていなかったので、飲み物代は仕方なく澪持ち。後で『タク』に請求出来るだろうか。
「それで? あんたの言う『タク』っていうのは、どの『タク』だ」
 澪はどかりとベンチに腰を下ろす。背もたれすらない雨ざらしの板は、誇張抜きに椅子の定義を問い質したくなる。どのって、と咲畑もぴょんと隣に座った。
「あたしがタクって呼んでるのは、世界で一人だけ。誰だかは言えない。ごめんね」
「初公判の――」
「こーはん?」
「いや。何でもない」
 成人してすぐ行われた初公判の話に反応しないのなら、少なくとも宮代拓留のことではない。澪にとってはそれで充分だった。
「あたしからも質問、いいかな?」
 咲畑は少し伸びた爪でコーヒーの缶を開けた。不潔な感じがしないのは、切ったときに綺麗にしていたからだろう。澪は緩く首を振りながら顔を伏せた。
「どうせ読んでるんだろう」
「しようと思えば、出来るけど……。あたしは折原さんみたいに、他人の思考が自然と入ってきちゃうほどじゃないし、それに」
 お互いに気分のいいことじゃ、ないでしょうと。その気遣った大人の言い方が、澪の癇に障った。今日はまた結んでいる自分の髪を、がしがしかき回す。
「何が訊きたいんだ」
「うん。『ラプチャーC』って、知ってる?」
 真剣な咲畑に、澪は適当に答えた。
「アホみたいな名前の実在しないドラッグだろ」
「ないの!?」
「分かってて追って来たんじゃないのかよ……」
「な、ないんだ……」
 咲畑は顔面蒼白で頭を抱えていた。澪もある意味抱えたい。このくだらないブラフに、こんなに素直に引っかかっているギガロマニアックスがいるなんて。
「ど、どうしよ。タク、絶対心配してるよね……」
 咲畑はポケットからスマートフォンを取り出した。新品同然だ。ケースにも入っていなければ、アクセサリの類もない。まるで店頭の試用機。
「それで連絡すればいいだろう」
「う、それが……これ、買ってもらったやつなんだけど。見栄張って、『電話代は自分で払うね』って言っちゃって。でも結局、お金足りなくて……今月、止められちゃってて。たはは……」
 はー、と大袈裟に嘆息して咲畑はうなだれる。
「また怒られるなぁ」
「その『タク』は恋人なのか?」
 澪はコーヒーをあおりながら問う。咲畑はやや顔を上げ、だが定まらない視点で、どうだろうと答える。
「あたしはタクが好きだし、タクもあたしを好きだって言ってくれたけど。それって、もう何年も前の話だし。多分タクはあたしに、責任、みたいなの感じてるから。一緒に『いてくれる』だけなのかもしれないって、たまに思う」
「私は事実関係を確認しただけだ。恋愛相談には乗らない」
 ゴミ箱が手近にないので、澪は飲み切った缶をその辺に放った。そうだね、と笑いながら、咲畑もちびちびコーヒーを飲んだ。
「それでも、あたしはタクを守りたい。だからこの噂を聞いたとき、タクがまた狙われてるのかもって思ったとき、いてもたってもいられなくて。一人で何とかしたかった。つらい思いをするのはもう、あたしだけでいいって思ったから」
 澪は黙ってその惚気を聞いていた。守りたいものの残っていない澪にとっては、どうでもいい話だ。なのに、『つらい思いをするのはもう自分だけでいい』という言葉だけ、やけに頭にこびりつく。
「ねえ、久野里さん、だっけ。あなたは、誰が何の為にこんなことしたか、知ってるの? あたしもちゃんと……知りたいよ」
「そんな義理はない。さっさと帰って、『タク』とやらに『騙された』と泣きついて、電話代を払ってもらえ。じゃあな」
 澪は立ち上がった。それを咲畑が、待って、と硬い声で止める。
「『渋谷地震』と『白い光』の原因」
 足が、縫い付けられたように動けない。真夏と変わらないほどの熱射の中で、澪はぎこちなく振り返る。咲畑は真っ直ぐに澪を見ている。
「『AH東京総合病院での実験』。『プロジェクトの中心人物』。『覚醒の初期成功例』。『ニュージェネレーションの狂気の真相』。あたしは全部知ってる。全部、そこにいた」
「読んだ、のか」
 澪は乾いた喉で絞り出す。互いに気分がよくないと言いながら、読んだのかと。そうだよ、と咲畑は臆面もなく言い切る。
「言ったでしょう。あたしは、タクを守る。たとえその為に、あなたにどう思われても」
 澪は聞こえよがしに舌打ちした。ここまで開き直られると、もう言い返す術が限られてくる。それに真相がどうあれ、咲畑が並べたてた事柄は、こんなつまらない事件よりもずっと澪の興味を惹くものたちだ。仕方なく座り直した。
「簡単に言えば、罠だ」
「罠?」
「そう。委員会の情報を嗅ぎ回っている人間『だけ』を、あぶり出す為の」
 澪はほとんど飲んだ様子のない咲畑のコーヒーを引ったくり、喉の奥に流し込んだ。どうせ元々は澪の金なのだ。
「一部で知名度が上がることは世界への影響力にも関係するが、同時に連中はあくまで透明な存在として、民衆を掌握せねばならない。その為に、知りすぎた『下層民』を粛正する役目が必要だった。あの議員はそれ用の餌係で、管理の杜撰さゆえに『首を切られた』」
「じゃあ、あたしたちは……」
「そう。その印付きの餌を勝手に食った私たちは、連中の狩りの対象。お決まりだろ? 港は犯罪者が『おしおき』をするのに絶好の場所だ」
「……ダメ! タクのところに帰らなきゃ!」
今度立ち上がったのは咲畑の方だった。澪と違うのは、去ろうとしているのではなくこちらを睨んでいること。
「お前の都合なんか知ったことか」
 澪も腰を浮かせ、咲畑を見下ろした。向こうの身長は日本人女性の平均ぐらい、こちらは日本人男性の平均を越している。これだけ角度がつけば怯んでもいいものを、咲畑は一歩も引かなかった。
 澪は肩をすくめて嘆息する。
「だが、私も犬死にはごめんだ。根なし草なりに死に場所ぐらいは自分で選ぶ」
「じゃあ、共闘だね?」
「取引だ。私はこの件の責任者を引きずり出し、中枢に繋がる情報を得たい。その際ある程度の損害を与えておけば、連中もこちらを警戒して、むやみやたらと手を出してこなくなるだろう。忌々しいが、お前のギガロマニアックスとしての力を貸せ。『タク』――西條拓巳の為にもな」
 咲畑は目を丸くして澪を見上げていた。どうしてタクのことをと掴みかかってくると思ったのに、いきなり、へにゃりと無防備に笑う。
「なんだよ」
「ううん。ありがとう、久野里さん。がんばろうね」
 見透かされて困るようなことは考えていなかったはずなのに、鍵付きの引き出しを開けられたようで気分が悪い。澪は顔を背け、とんとんと自分の側頭部を指先で叩いた。
「交戦中に限り、思考盗撮を許可する。お前らに頭の中を覗かれるのは死ぬほど嫌だが、他に通信手段がないんじゃしょうがない」
「あ、大丈夫。えっと、人間の脳はものすごい量の情報を処理してるから、いくらギガロマニアックスでも、他人の脳の動きを丸ごと読み取るのは不可能なんだって。あたしたちの中でもやっぱり個人差があって、『映像』を見るのが得意な人とか、『想い』を受け取りやすい人とかがいて、あたしは『考え』みたいな整然としたものを読む方が向いてるみたいだって……あなたによく似た先輩が、確か、言ってた。かな」
 あはは、あんまり自信ない、と咲畑は頭をかいている。要するに、咲畑は既に言語化された情報を窃視することに長けているということだろうか。それならば、恐らく表層領域への侵犯だけで事が済む。
「たぶん、そう、たぶん」
「交戦中に限ると言っただろう!」
「ごめんね、そうだった!」
 うう~、と咲畑はばつの悪そうな顔で小さくなっていた。
「あのね、今のはあたしが自分で読んじゃったんだけど。他人の感情が昂ると、奥まで潜ろうとしなくても、勝手に入ってきちゃうことがあるの。あなたの思念は特に強いから、もしどうしても見えちゃったら、ごめんなさい」
「……読まれたくなければクールでいろって? 善処するよ。くそったれの妄想狂め」
 吐き捨てて、澪は再び場所を移すことにした。二人きりでも一人ではないなら、やらなければいけないことがある。
「どこ行くの?」
「作戦会議だ!」
 ふん、と鼻を鳴らした。
 女二人で『委員会』の手先共を潰す。これ以上クールなことが他にあるか?