ロスト・アクトレス - 5/11

4.パーカーとネクタイとスーツ

「な、なんで僕まで行くことになってんの」
「だって俺、咲畑さんの顔知らないからさ」
「写真、渡したじゃないか!」
「でも彼女は俺を知らないわけだし。君がいれば、向こうから見つけてくれる可能性が格段に上がるだろ」
 本音は意趣返しだなどと、隠す気もない。神成は内心で舌を出した。
 今日は神成も仕事が休み。とはいえ渋谷へ向かう電車の中、服はいつものスーツだった。西條拓巳は相変わらずパーカーのフードを取らない。かえって目立つと言っても聞く耳持たずである。
「帰りたいぃ……」
 シートに丸まって親指の爪を噛んでいる。つくづく、昨日神成を脅迫したのと同一人物だとは思えない。
「ぼ、ぼ、僕は狙われてんだぞ!」
「ああ、だから俺がついていくんだよな」
 神成は吊革に掴まりながら、西條を見ている。西條は決して目を合わせない。
「け、警察なんかアテになるもんか……」
「あのさ、一応俺、『本物』と敵対したことがあるんだけど」
 ちらと、西條が視線を上げる。すがるように。
「そ、それで。いき、のこっ、た……?」
「このとおり」
「どう、やって」
「蚊帳の外、ならぬ壁の外、ってやつで。まぁ脅威認定されなかったわけだな」
「戦力外通告!」
 わっと両手で顔を覆う西條。大人げないので、からかうのもこの辺でやめておいた。
「さて、と」
 いつ降りても増改築を繰り返している、アメリカの不気味な屋敷みたいな渋谷駅を出て、神成は軽く肩を回す。何も力仕事ではないけれど、気分だ。
「ど、どこへ行く気?」
 西條がおどおどと見上げてくる。神成が指差すのは、ハチ公改札口横の駅前交番。
「餅は餅屋」
「だ、だから警察はヤバいって……!」
「だから君は入らずに待っててくれ。下手に動くなよ」
「待っ……!」
 西條を置いて、神成は大股で交番に近づいていく。軽い調子で片手など上げながら。
「よ、おつかれさま」
「あ、神成さん! おつかれさまです」
 二人いた巡査はいずれも顔見知りだった。二十代半ばと三十代後半。人が好くて口が堅い、こんなとき理想的な人間たち。
「また何か捜査ですか?」
 しかも、まだ神成を『捜査一課』の所属だと思っている。ますますもって好都合だ。素知らぬ顔で明確な返答を避ける。
「そこで、妹さんとはぐれたってうろたえてる人を見つけてね。見かけてないかと思ったんだけど」
 ちらと咲畑梨深の写真を見せた。二人共、知らないとすぐに首を振る。
「かわいい子ですね」
「そうかな。どこにでもいるって感じで特徴がない」
 すげなく言って、写真を引っ込めた。実際のところ、可愛らしい女性だという意見には大いに賛成だったが、知らないのなら覚えてもらっては困るのだ。恨むなよと内心で西條と、会ったこともない咲畑に謝った。
「最近、何か変わったことあるか? 犯罪の芽は早いうちに摘んでおくに限る。もう九月だし」
 神成はただ事実を言ったに過ぎない。しかし、渋谷の警察官に『犯罪』『九月』と言えば自然と『若者』を連想させられる。そうですね、と年嵩の方の巡査が考える仕種をする。
「問題がないというわけでもありませんが。他の区と比べてとんでもない、というほどでも」
「例年と比べると?」
「今のところ、去年より『そういった動き』は目立って減っていますよ」
 そうか、と神成は周辺地図に目を遣る。近づいていって、何気なく見えるように、とん、とん、と行く予定の場所を指で叩いてみる。二人の巡査は不思議そうにするだけで、どの箇所にも特別な反応を示さなかった。
「若い女の子がふらっと行っちゃいそうなとこって言えば、この辺かな」
「え? ああ、そうでしたね。女性を捜してるんでしたっけ」
「ああ。訊いてくるって待たせたきりだから、戻るよ」
「はい、見つかるといいですね」
 動くなと言ったのに、西條は交番脇の木の傍に移っていた。
「誘導の得意なフレンズなんだね、すごーい」
「は?」
「梨深の写真。返して」
「ん? ああ。どうもありがとう」
 神成は一枚きりのL判写真を、伏せて差し出す。西條は引ったくるようにそれをポケットに入れた。
「それで、君はどう思う?」
「え?」
 いつまでもここで話し込んでいては不審に思われる。信号が青に変わったのをいいことに、神成はスクランブル交差点を渡り始めた。西條が慌ててついてくる。
「どういう意味!」
「俺は彼女の性格を全く知らない。思考パターンがトレース出来ない。どこか、君たちにとってだけ意味の解る場所があるはずだ。知り合いの楠さんが思いつく場所でさえ、もう調べ終わっているんだろう? 赤の他人の俺が考えたって分かるもんか」
「む、無責任な警官だな……」
「それは心外だよ。こんなに現実的なアドバイスをしてるってのに」
 西條は聞こえよがしに嘆息して、だから警察は嫌いなんだと吐き捨てた。神成も概ね同意見だ。警察ってやつは、肝心なときに無責任で役に立たない。
 結局、日暮れまで歩き回って収穫は何もなかった。強いて言えば、西條拓巳の体力のなさと愚痴の多さが、今度こそ嫌というほど分かったぐらい。
「やっぱりな」
「何が!」
 神成は、キャットストリートの『一周二周してもう自分にはオシャレなのだかダサいのだか分からない服飾雑貨』などを見渡しながら、顎に手をやる。
「君たち、そのラプチャーなんたらってやつの話、どこで仕入れた?」
「ど、どこって。とある筋、としか……」
「委員会絡みの?」
「そう、だけど」
「じゃあ、咲畑さんはもう渋谷にはいないんじゃないかな」
「はぁ!?」
 息も絶え絶えだった西條が、急に掴みかかってきた。
「なんだよそれ、三行!」
 本当に気力の使いどころの理解出来ない男だ。言葉遣いも。神成は頭をかいた。
「厚労省の知り合い――麻薬取締官にそれとなく探りを入れたが、このところ渋谷で新しいドラッグビジネスが始まった気配はない。顔見知りのホームレスにも声をかけたが、何も知らなかった。アングラにはアングラなりの、ここにはここなりのルールがある。彼らに全く気付かれず、金がない若者をターゲットに大量のブツをさばける新興ルートをつくるのは、いくら連中でも不可能だろう。って、四行になったな。まぁいいか」
「それ、つまり……?」
インクを付けられた(・・・・・・・・・)。連中はそんな面倒な仕事をしなくても、ありもしないものに引き寄せられた、目印のある魚だけを一本釣りすればいい。本来なら誰も知らないはずの情報に触れてしまって、うろうろと泳いで回る魚の前にだけ、ルアーを投げ込めば済むんだ。連中にとっては、もう渋谷なんてその程度の価値しかない」
「あんたそれ、いつから」
「可能性なら、今朝には」
「最悪だ!」
 西條は神成を思いきり突き飛ば……そうとして、跳ね返って自分で尻餅をついていた。大丈夫かと差し出した手を払われる。
「そ、それじゃあ僕は、とんだ、ピ、ピエロじゃないか! 何で言ってくれなかったんだよ!」
「そりゃあ、自分の目と足で確かめなきゃ、君も納得出来ないだろうし。俺だって、この仮説が本当かどうかなんて確証があったわけじゃない。それにさ」
 改めて手を差し伸べながら、神成は、我ながら開き直りすぎだと思うような台詞を吐いた。
「通報を受けたら、本当かどうか分からなくても動く。それって警察官の義務だろ?」

「ってわけで、機嫌が悪いんですよ。西條くんは」
「災難でしたね……神成さんも、西條くんも」
 楠は苦笑しながら、また紅茶を出してくれた。西條は靴を脱いで事務所のソファに横たわり、膝を抱えて丸まっている。
「何で優愛には敬語なんだよ、僕にはタメ口なのに。ど、どうせオタクはカースト下位だよ! 優愛もオタクのくせに、み、見た目がいいとさ、得だよね!!」
「いや、楠さんが敬語で話すから、つい」
 彼の向かいに座りながら、神成は頬をかいた。確かに楠と西條の年齢はひとつしか変わらないそうだし、不平等ではあるだろう。似たような愚痴を、二年前には自分も心中でこぼしたことがある。
 楠は立ったまま、白い両手を胸の前で重ね、ゆったりと微笑んだ。
「わたしのは癖ですから、神成さんも西條くんと同じように接してくださっていいですよ。判さんもわたしのこと、『優愛ちゃん』って呼んでくれてましたし」
「え、それは……大丈夫なんですか、その、絵面とか」
 気遣ってくれたのだろうが、かえって神成の顔は強張った。親子ほどは歳が離れていないのが、いっそう問題アリな気がする。西條がぼそりと呟く。
「優愛が『パパ』って呼び返してたらアウトだった」
「西條くん!」
 楠が真っ赤になって怒る真似をした。西條はそれに対しては怯えた様子を見せないし、この二人の関係もよく分からない。西條には、高校の先輩後輩だとか元ストーカーだとか説明されたが、いまいち要領を得なかった。あの独特の言葉遣いで煙に巻かれたのだ。
「それより優愛、ノーパソ! 文句言ってやる」
「は、はい。ちょっと待ってくださいね」
 それこそ、『坊や』と『ママ』にも見えるのだが。
 テーブルにノートパソコンが置かれると、西條はむくりと起き上がり、今までとは別人のような素早い指さばきでロック解除キーを入力した。一体誰のパソコンなのだろう。楠のメインデスクと思しき机には立派なデスクトップがあるので、この事務所の仕事用ではないようだ。
 気になって立ち上がり、彼の背後に回ってみる。西條はヘッドセットの端子を乱暴に差し込むと、何故かスピーカー部を耳に当てずに、ただ首からぶら下げた。そのまま、世界規模で使われている無料通話サービスを立ち上げて、どこかにコールした。何故か相手のユーザー名は空白だった。こんなアカウントの取り方が出来るものなのだろうか。
《やあ、ナイトハルト。そろそろ連絡が来る頃かと思っていた》
 それは、声ではなく、チャットの文字。対して西條は不機嫌丸出しの声で返す。
「ガセネタ掴ませてなんだよ、その態度!」
《やはりか。知らせるだけは知らせておこうと思ったのだが、裏目に出たかね》
「カッツェが真に受けて出てって戻ってない!」
《それは、》
 ここで一度、間があった。通信のラグではなく向こうの思案している時間らしかった。
《すまないことをした。彼女の行方についてはこちらも追おう》
「ぼ、僕に謝ってももうどうしようもないから、どうするかはこの人と話してくれる」
 西條は自分の首からむしりとったヘッドセットを、神成に突き付けてきた。話せというのだろうか、この得体の知れない相手と。
「半値は?」
「え? は、はんね?」
「ハンドルネーム。あんたまさか、本名でネットしちゃうタイプのDQN?」
「ああ、いや、いつも適当に……英数字とか」
「コテハンないのか」
 西條がちらとモニターに目を遣る。神成もつられてそちらを向く。新しいメッセージを受信している。
《君がつけてやってはどうかね》
「……クラヴァッテ」
「くら……?」
《成程、真面目な方のようだ。では私も便宜的に【Anzug】とでも名乗ろうか》
 空白のユーザー名が『der Anzug』に書き換わる。読めない。ヨーロッパ圏の言語で、神成がまともに扱えるのは英語だけである。
「あ、アンツーク。社畜乙」
 西條は言い捨てて――恐らくはそれが読み方なのだろう――ヘッドセットを投げる。神成は慌てて受け取ったが、その衝撃がノイズになったらしい。画面の中で『アンツーク』とやらが『丁寧にやりたまえ』と批難がましく言っていた。神成は渋々、マイクが音を拾いやすいように、ヘッドセットを持ち直す。
「あー、聞こえてます?」
《聞こえているとも、クラヴァッテ》
「……そいつが、あんたたちの流儀かどうかは知らないが。俺のことはなるべくその珍妙なコードネームで呼ばないでくれ」
《了承した。私も嫌いではないのだが、実は得意でもなくてね。単刀直入な物言いは好感が持てる》
「話を進めても?」
 顔も声も分からない相手に値踏みされるのは、はっきり言って不愉快だった。隠すつもりもない。神成は口早に用件を告げる。
「その女性の失踪事件について知っていることがあるなら、全て話してもらいたい。実在しない新ドラッグの噂についても全てだ」
《随分と高圧的だな》
「気が立ってる。単刀直入な方が好みなんだろう」
《確かに。自分の発言には責任を持とう、私も怒っているわけではないよ。ところで君は――声からして貴方はと呼ぶべきかな、どういう経緯でそこに?》
 何でいちいち上から目線なんだ、と思いつつ、神成は発信側の名前欄を見る。
「えっと、し、しっぷうじんらいのないとはると? に、依頼されて」
《羞恥的な事態に追い込んで申し訳ない》
「ひ、人のコテハンをわいせつ物扱いするなよ!」
「ごめん」
《そういうつもりではなかった》
 西條の抗議に、神成は額を押さえた。キーボードでなら『なんだそれ』と思うような名前も平気で打ち込めるのに、口に出すのは他人のものでも勇気が要る。
「その、つまり彼に頼まれた。ついでに、俺も委員会絡みだろうっていう沙汰に巻き込まれてる。断り切れなかったんだ」
《何故知り合ったのかは訊かない方がいいかね》
「そうしてくれ。それは保安上じゃなく俺のプライバシーの問題になる――」
 そこまで言って、はっとした。まずい。一番重大なことに気を取られて些細なミスをした。いや、まだミスというほどではないか。
《保安上、か》
 意味深にタイプされ、舌打ちする。やはりこの形式はやりづらい。心がけて話さないと、普段どんな言葉を選んで使っているのか筒抜けになってしまう。
「あんたは何故声を出さない」
《保安上の理由で》
「ふざけてるのか」
《至極真面目だとも。遅くないなら、そちらも文字入力にするといい》
「いや、構わない。今更面倒だし、何より癪だ」
 どうせ本気の嫌味を言うなら、この方が利く。そう開き直って、神成は続けた。
「で? どうなんだ」
《ラプチャーCの話なら、私の失態だった。詫びよう。委員会の構成員のPCに潜り込んだが、どうやらこちらの思惑など筒抜けだったようだ》
「何でDaSHに頼まなかったのさ」
 横から口を挟んだのは西條だ。ちゃんと聞こえていたようで、『アンツーク』は律儀に返してくる。
《世界の存亡がかかっている、とまで言われて、無理強いは出来まい》
 その『世界の存亡がかかった』事態が、『奥方の臨月』であったのを彼らが知るのは後のこと。『DaSH』が誰かも知らないまま、神成は話を戻す。
「それを知った彼女が飛び出した、ここまではいい。でも、ただのガセなら帰ってくるだろう。そうでない以上、俺たちは連中にまだ先を行かれてる。何か心当たりは?」
《ところで、同じPCに潜り込んだ者が他にもいたようだが》
「あ?」
《見覚えはないか。「久野里澪」》
 目に飛び込んできた文字列に、一瞬視界が揺れる。どうして。今こいつが、その名前を。
《栗悟飯とカメハメ波の身内らしいが、知っているか。ナイトハルト》
「ぼ、僕はシラネ。でもそこの『クラヴァッテ』が捜してるのは、その女」
「勝手に情報を漏らすな!」
 西條を怒鳴りつけてから、神成はソファの背に両手を置き深く息を吐いた。
 これしきのことで取り乱していてどうする。久野里の手掛かりが見つかった、自分は『先輩』の真実を掴む。それだけでいい。
「確かにその女は俺の身内だ。俺が巻き込まれたと言ったのも、そいつが消えた件と……いや、もうひとつは確証がないからやめておく。誰かさんを踊らせてしまっても悪いしな」
《耳が痛い》
 モニタ越しの文字だけなのに、どこか笑むような余裕を感じて、皮肉った神成の方こそ苛立ってしまった。しかし我慢だ。
「そいつがどうなったかも分からない?」
《同じ情報を掴んだのなら、カッツェと同じ網にかかっていてもおかしくはない。彼女は私より先にそれに触れ、足跡も残さずに去っている。DaSHが緊急で調べてくれなければ、今でも気付かなかっただろう。やり手だ》
「言われるまでもなく知ってる、そんなこと。で、何なんだ? あんたの話は迂遠なばっかりで全然核心に近づかない。もったいぶるな」
《せっかちだな。そう急かされては首が締まる》
 そこでしばらく間が空いた。神成はまた冷めてしまった紅茶で喉を潤しながら、次の文を待つ。
《先日、都議会議員が殺害された事件を知っているか》
「ん? ああ……あれだけニュースで騒がれてればな」
 カップを持っていてよかった、と内心で安堵。口を離す間分、動揺を飲み込む時間も出来た。その事件こそ、神成が深追いしすぎて外されたものだったのだ。余計なことを言わずに先を促す。
「それが?」
《我々が潜ったのは、その被害者の個人PCだ》
「え――」
 今度こそ、故意にではなく、本気で言葉を失った。自分が関わらせようとしていた事件に、久野里は既に首を突っ込んでいた? だとしたら。だとしたら、あれは。
 慌ててスマホを取り出す。邪魔なヘッドセットを置いて、受話器の形のアイコンをタップ。ああ、留守番電話はどう聞くのだったか。消してはいないはずなのに。やはりスマートフォンは操作が煩雑すぎる。
「どうしました?」
 楠が心配そうに寄ってくる。神成は、留守電が、としか返せなかった。
「キャリアはどこです? でしたらここを……」
 穏やかに、丁寧に楠は説明してくれる。その声を聞いていたら、神成も落ち着いてきた。いい歳をしてみっともない、と反省。これではどちらが公務員だか分からない。
 結局、保持期間が過ぎているとかで、メッセージは残っていなかった。
《どうした?》
 『アンツーク』の発言時刻は、数分前。以降特に何も打たず、ただ待っていてくれたらしい。いや、単に集中して様子を窺っていただけかもしれないが。神成は咳払いして、改めてマイクを掴む。
「何でもない。勘違いだ。死んでるんじゃ手掛かりとは言えない」
 答えながら、意識を半分、消えた留守番電話に割いた。
 八月の末、久野里と連絡が取れなくなった頃。捜査中、公衆電話から着信があった。出るのに手間取っていたら留守電になってしまって、それでも通話しようと試みたのだが、先に無言で切れた。留守番電話に用件を吹き込まない人間など珍しくもないし、本当に必要ならまたかけてくるだろうと思いつつも、どこか気になっていたあの電話。切れる直前に聞こえた、わずかな音。ひゅっと鋭く息を吸うあの癖を、自分は知っているのではないかと、ずっと。
 今、確信した。久野里澪だ。議員のことを嗅ぎ回っていたのなら、殺された後も誰が死体に群がるか見ていたはずだ。そこに神成が来て、何かを言おうとして、やめた。もしくは。
《犯人の見当はついている。警察はノーマーク、いや、かばっていると言うべきか》
「へぇ、ワイドショーを見てるだけで犯人当てクイズが出来るなら、警察は商売あがったりだな」
 この嫌味は本音。画面から向こうのリアクションは読めない。返事に時間がかかっていると思ったら長文が送られてきた。
《現職の検察官、これも委員会の構成員だ。議員先生には随分金を融通していたようだな。殺害理由はいたってシンプル。これ以上傷口が広がらないうちに、損切りした。餌を撒くにしても、一度は知らないうちに持ち去られ、二度目は強引にラインを引き千切られているのだからな。流石にかばいきれまい。
秘密裏に処理出来るものをわざわざ公開したのは、見せしめのつもりだろう。となれば警察に圧力がかかり、逮捕・拘留が出来なくなるのも無理はない。無知な、失礼、無垢な警官が一人、そいつに声をかけてしまい、少し騒ぎになったらしいが》
 天然なのか全て分かって刺し返しているのか測りかね、『無垢な警官』は歯噛みするしかない。ここで反論でもしようものなら、私がそうですと名乗り出ているのと同じだ。切っ先をやや逸らす。
「で、逃げた魚たちを捕まえる方に、作戦はシフトしている?」
《と、考えても不自然ではない。私の当て推量だがね。同じ轍を踏んでもいいのなら、調べてみるといい》
「望むところだ」
 神成は短く答え、久野里澪に関する記憶を辿る。いつも彼女は、神成に背中を向けていた。一人で考えに没頭するときも。勝手に歩き始めるときも。信じ、預けるときでさえ。
 無性に腹が立ったのを、精神力で押さえつけ。神成はその背中に、視線を定める。
 必ず追いつく。足を止めさせる。振り向かせる。もう見送るだけの無力な青年で、いたくない。
「同じ道が一番早いなら、そこでいい。迷う必要はない」
 しばらく返答がなかった。やがて、たった八文字が。
《ナイトハルトは?》
「そこまでなってるんなら、行くよ。行くしかないだろ」
 西條はぼそぼそと呟いた。このマイクの集音性能で、拾えたのかは分からない。だが『アンツーク』は淡々と、二人の女の身柄を捜すことを約束し、会話は終わった。
「西條くん、わたしも――」
「いいよ。優愛はまだどっかのストーカー男の件とかも、証拠揃ってないんでしょ。所長仕事しろ。ニートの僕が行くべき」
 西條はふらふらと事務所を出ていってしまう。楠の、宙に浮いたままの手が痛々しかった。
「彼は……どうしてそんなに、咲畑さんに?」
 どう、と神成には問えなかった。執着と言っても固執と言っても不適当なようで。楠は目を伏せてふるふると首を振る。
「わたしの口から、勝手には。でも、今の西條くんをこの世界に繋ぎ留めているものがあるとしたら。……それは、咲畑さんの存在そのものなんだと、思います」
 先程伸びかけた手は今、ブラウスの胸元をきつく握り締めている。
 神成は黙って彼女を見下ろしていた。届かなかった者の顔だ。妹と。西條と。もしかして、判も。彼女はいつもこうして、背中を見送ってきたのだろうか。
「あなたも、来てくれますよね」
 だから、声をかけたくなった。読まれているかもしれないんじゃ恥ずかしいなと、半端な笑いを浮かべながら、神成は言う。
「俺が久野里さんの捜索を依頼したのはあなたですから。えっと、流石にこの年齢差で、『優愛ちゃん』って呼ぶのは問題ありすぎだと思うけど……協力、しよう。楠さん」
 楠は眼鏡の奥の瞳を、大きく見開いた。やがてそれをやわらかく細めて、微笑みながら頷く。月並みだが、花の咲いたような笑顔。こりゃ『先輩』も強くは出れなかっただろうなと、神成は視線を逸らした。
「西條くんには、俺から話しておく。さっきの彼と一緒に、引き続き情報収集を頼めるかな」
「はい。それでしたらわたし、今は本職ですから」
 力強く答え、楠は自分のデスクについた。スタンバイ状態のパソコンを起こす。キーボードを叩く手つきも、モニターを睨めつける目も、別人のように凛々しく。そう、『真実を追う者』の姿をしていた。神成も安心して、事務所を出る。
 西條はまた階段の傍で、壁に寄りかかりコーラを飲んでいた。歩み寄ってきた神成に気付き、下手投げで何かを放ってくる。神成は受け取ろうとして、飛距離が全然足りていなかったうえに方向が明後日だったので、五秒ほど追いかける羽目になった。
「ノーコンだな!」
「う、うるさい!」
 やっとつかまえたのは、昨日飲み損ねた缶コーヒー。西條はそっぽを向いて早口に言う。
「お、おごってもらっちゃった、から。あんたそれ、飲んでなかったし」
「お気遣いありがとう。いただくよ」
 苦笑して改めて近寄ると、西條はもうおなじみの調子で、勘違いしないでよね別にあんたの為なんかじゃないんだからと言う。そういうのツンデレっていうんだろと缶を開けたら、そういう知ったような口利く一般人が一番の敵だと怒られた。
「君はまた、行かないって言うと思ってた」
「そりゃ、い、行きたかないよ。言っとくけど僕は、自他共に認める引きこもり予備軍なんだぞ。でも税金ぐらい払ってるんだ、こ、公務員にはもっと仕事してほしいよね。ホント」
「うん。だから」
「そうだよ。それでも、行くんだ。梨深を助けに」
 周囲の壁にぶつかった夜風が、一つに集まって建物の隙間を抜けていく。神成の髪と西條のフードを激しく揺らす。
「どうしてそこまで。君は、彼女のヒーローになりたいのか?」
「まさか。僕はただのオタクだよ」
「八年前もそう叫んでいたな」
「く、黒歴史ノート勝手に開けるのイクナイ」
 神成はもう暮れてしまった空を見遣った。住まいの灯りで薄ぼんやりしている。働いている者たちの放つ、どこかぎらついた光ではなく、もっと人間味のあるもの。
 あの日テレビの中継で、彼は叫んでいた。一転して自分を褒めそやす無責任な観衆に、彼はまだ抗い続けていた。自分は英雄ではないと。他人に自分という人間を決めさせないと。その言葉はある少年の心に穢れない罪の萌芽を刻み、神成の心に小さな棘を残した。忘れかけていたその棘が、時間をかけて全身をめぐり、血管を傷つけながらまた胸に戻ってくる。
「自分の本質は、自分が決める、か――」
 呟くと、西條はちらと視線を上げた。片側だけ覗いた、相手の心を呑み込むような、虚ろな瞳。
「あんたの本質は?」
「え?」
「あんたに説明はしてやらないけど。僕は自分が梨深を助けたい理由を、死ぬほど自覚してる。でも、あんたはそう見えない」
「ああ、その質問、結構……痛いな」
 神成は向かいの壁に寄りかかり、俯きながら苦笑した。
 ずっと、警官として、人として、『正しい』と信じられる選択をしてきたつもりだ。確かに自分の『意思』であり『意志』であったと胸を張って言える。だがそれは、『神成岳志』の『本質』であったのだろうか。
「長く刑事をしすぎたのかもしれない。その前のことが思い出せないんだ。記憶は連続しているが、実感がない。君流に言えば、俺に残っているのは『神成岳志』というラベルだけで、ボトルはとっくに空になってるのかもな。俺だけがそのことに気付かないまま、道化を演じ続けているのかもしれない」
 コーヒーをあおる。この苦みですら、自身の存在を実感する手助けになりはしなかった。血も涙も流しすぎたのだ。だからこの缶と同じ。どんどん軽くなって、何もなくなる。
 西條もコーラを飲み、残暑も厳しいのに長い袖で、口許を拭った。
「ぼ、僕、妹がいる」
「うん? そうなのか。ちょっと意外かも」
「でも、いるんだ。うざいやつだけど。だから、判て人の気持ちは少し、解る気がする」
 神成には、西條の言いたいことはわからない。恐らく彼は、他人に自己の意見を聞かせることに慣れていないのだ。けれど、何か言おうとしてくれているから、黙って聞いていたかった。
「僕は、二度と七海を巻き込まない。絶対に梨深を死なせない。これは『西條拓巳』の感情だから。疑わないし、捨てない。そう決めてる」
 わからない。わからない、のに、どうしてか、苦しい。その決然とした口調が。揺るぎない意志が。眩しすぎて、直視出来ない。神成の口から滑り出るのは、言い訳じみた言葉だけ。
「俺は……刑事としての義務を抜いたら、久野里さんを特別守りたいってわけじゃ、ないよ。でも、あの考えなしのガキには、いい加減頭に来てる。周りに支えてもらって、やっと好き勝手出来てるくせに、自分一人で生きられるって顔して」
「昔の自分を、見てるみたいで?」
「そうだよ。だから腹が立つんだ。ちゃんと生きた面を拝んで、調子に乗るなって、頭にげんこつのひとつもくれてやりたいと思ってる」
「ば、爆発しろ」
 また意味不明のことを言って、西條はコーラの五〇〇ミリペットを飲み干した。空のボトルを持て余すように振りながら、段差に腰を下ろす。
「あんたの、『先輩』。判刑事の、こと」
「え?」
「話すよ。約束だから」
「でもまだ、咲畑さんは」
「だから。ぼ、僕がそのとき……しっ、死んでたら。払えなく、なるだろ」
 死、という箇所で西條の声は裏返って。そりゃあそうだろ、と神成は泣きたい気分で笑う。天秤にかけたらどちらを選ぶか決まっていても、彼は恐ろしくないわけではない。それでも行くと、助けると、彼は何度も自分を奮い立たせている。
 なんて臆病で、なんて勇敢。最初の『狂気』を我が身ひとつで終わらせた、『英雄』と呼ばれる弱く優しい青年。
 西條の話は、さして長くなかった。神成は隣に腰かけて、相槌だけで聞いていた。西條がかつて、無意識に広範囲の思考盗撮を行える規模のギガロマニアックスであったこと。偶然に判の最期の思考にチャンネルが合っていたこと。『彼』は諏訪が捕らわれたという狂言を信じて、丸腰であの病院に向かったこと。直前まで、楠と行動を共にしていたこと。そして――。
「僕が知ってることは、これで、多分、全部。優愛はまだ気にしてると思うから、聞かせたくなかった」
「そうだな。ここで話してくれて、ありがとう」
 神成はカロリーブロックを取り出して、二袋入っているうちの片方を西條に渡した。ローテーションで選んでいた味は、いつからかチョコレート味だけになってしまった。西條は礼も文句も言わずに受け取った。
「もっと、怒り狂うかと思ってた」
「ま、薄々勘付いちゃいたからな。事実だって突き付けられると、思ってた以上にヘコむけど」
「こ、これも僕の妄想かもよ。優愛も取り込み中だったみたいだから、直接見た人間はいないんだ」
「気休めはいいよ。信じる」
 合図をしたわけではないのに、同時に封を切った。かじった塊は相変わらず、もそもそと口内の水分を奪う。飲み物を残しているうちに食べるのだった。また小さな失敗。
「なんだか、気の毒だなって……思ってさ」
「先輩が?」
「そう、先輩。二人共」
 神成は力なく笑った。追いつきたかった背中。その隣の背中にだって、本当はずっと手を伸ばしていたのに。ずっと。成り代わりたかったのではなく、ただ並ばせてほしかった。一緒に行きたかった。生きたかった。
「裏切られた方もだけど。仕方ないって、笑って許してくれる相手なんて、そうそういないだろうに。そこまで信じてもらって、解ってて平気で引き金に指をかけて、最期まで何も感じられなかったなんて、もういっそ」
 きのどくだろと、神成は片手で頭を抱えて。西條は、それ、諏訪護には一番キツい皮肉かもねと静かに言った。
「ちなみに、諏訪を殺したのは、間接的に僕ってことになるかもだけど。それは聞く?」
「いい。君はきっと殺してない。あの男を殺したのは、多分あの男自身の妄想だ」
「だいたいあってる」
 これまずいよねと、西條はつまらなそうに言いながら、そのくせ二本目を口に運んでいる。
「チーズのがいくらかマシ」
「アドバイスどうも。今日からまたバリエーションが少し増える」
 喉の乾くチョコレート味。神成は九月の夜に、その感傷を噛み締める。
 これが『俺』だ。過去を気にする。引きずってる。でも、そのままでいたくない。過去があるから、今を同じにしたくないと望める。間違えたから、今度は間違えないと強く願える。俺に『本質』と呼べるものが、ひとつでもあるとしたら。
 『道を繋ぐ』。途切れさせない、終わらせない。それだけだ。
「西條くん」
「なに」
「七日までに、絶対ケリをつけるぞ」
「だ、誰に言ってんの。僕は、疾風迅雷のナイトハルトだぞ。ふ、ひひ」
 また九月だけれど。今年は最初から、一人ではない。
 戦場食を胃に押し込むと、二人の男たちは、黙って拠点へと帰投していく。