ロスト・アクトレス - 3/11

2.もうひとつの序章

「久野里さんと連絡が取れない?」
 百瀬克子が電話をかけてきたのは、八月の末の熱帯夜。神成は路上でそれを受けた。先日ついに壊れたガラパゴスケータイの代わりに、周囲からさんざん説得されて買ったスマートフォンは、まだ他人の物のように使いにくい。
『ええ。日本には戻ってるようなんだけど……』
「失踪、ってことですか」
 神成は片手で頭をかく。久野里澪は、昨年末に再度渡米した。しかし百瀬とはそれなりに連絡を取っていたはずが、ここへ来て電話にも何にも応じないという。
 普通のご家庭なら、いやいやお母さん落ち着きましょうとなだめるところだが、百瀬は久野里澪の母親でもなければ、今更そんな言葉でごまかせるような女性でもない。加えて久野里もいわゆる普通の若い娘ではないので、何らかの事件と関係していると考えてしまう方が自然だった。
 百瀬は困惑した様子で続ける。
『アメリカでどう過ごしていたか、私も詳しくは知らないけど。あの子のお金で、そう自由に動けるはずもないのよ』
「すみません、百瀬さん。現時点で事件性がないので、俺は全く動けません」
『あら薄情ねぇあんた、あれだけ世話になっておいて』
「と、言われましても。警察の動ける材料が、今の話の限りだとゼロです」
『どうして理由も告げずに、とは思わないの?』
「いいえ? 俺に彼女の都合を慮る義務も義理もありませんので」
『イヤな男』
「どうも。もし何か耳に入ったら連絡しますから、それで勘弁してください。それじゃ」
 神成はスマホを耳から離し、通話終了の方へ画面を擦る。これぐらいは貸与品でとっくに覚えている。さて、と息をついて、改めて眼前の建物を見た。
「……出ないはずだな」
 絵に描いたようなボロアパート。久野里澪が暮らしていたはずの部屋には、明かりはおろか何の気配もない。電話を着信拒否にされたからと念の為訪れてみたが、やはり無駄足だった。そもそも部屋の鍵は神成が預かったし、諸事が済み次第、この手で大家に返している。
 何もないのなら長居しない方がいい。神成はまだ納まりの悪い電話をしまい、歩き出す。
「百瀬さんも知らない、か」
 軽率にフリージアに問い合わせなくてよかったと、神成はそこだけ自分を評価する。たとえ『百瀬さんを介すと面倒くさい話になりそうだったから』という理由であっても。今担当している事件にどこか引っ掛かりを覚えて、委員会が絡んでいないかどうか久野里に確認を取りたかったのだ。
 だが彼女は消えた。あれだけ世話になり、唯一敬語を使っていた相手である、百瀬にすら何も告げず。恐らくは彼女自身、あるいは百瀬の安全の為に。神成が久野里に果たせる義理といえば、せめて彼女の意思を尊重してやることぐらいだった。
 そして、彼女が金の問題をかなぐり捨ててでも、自ら行動したい理由があるとしたら。
「やっぱり……連中が、動いてる」
 確信を込めて呟く。神成が異動になる数日前の話だった。

「ただいま」
 神成が家に戻ってその台詞を言うようになったのは、実に今年に入ってからだ。どうした、とでも言いたげに身をすり寄せてきたのは、一匹の黒猫である。
「なんだ、もしかして飯食ってないのか? いつもの場所に出しといたのに」
 神成は、クロと名付けられた猫を抱き上げた。出逢った頃はほんの仔猫だったが、今やすっかり大きくなってしまった。幸い『ペット応相談』の物件に住んでいた為、ある人物から預かって……神成の感覚ではあくまで預かっている。大きな事件で長く家を空ける際は、近所の猫愛好家に面倒を頼むのだが、基本的に神成が一人で世話をしていた。なかなかに利口なやつで、普段は決まった場所に餌を置いておけば、計画的な食べ方をしてくれる。今日はたくさん見積もって出しておいたのが、仮の飼い主が急に帰って来たので調子が狂ったらしい。本物かどうか確かめるように、神成の襟元にしきりに顔を突っ込もうとして来る。
「ちゃんと俺だよ。まったくご主人に似て疑り深いな」
 神成は嘆息しながらリビングに行き、テーブルの上にコンビニの袋を置いた。クロがするりと手をすり抜けていく。座る予定の椅子を奪われて、仕方なしに立ったまま電子レンジに親子丼を入れた。五〇〇ワットで四分半。鈍い機械音が手狭な部屋に響く。
「お前のご主人、また誰にも言わずにいなくなったって。いつもそうだよなぁ。どうして事前に相談するってことが出来ないんだか」
 にゃあ、とクロが相槌のように小さく鳴いた。かつて彼女を根負けさせたというぐらいだから、頼んでおいたら見つけてくれたりしないかな、と馬鹿げたことを考えつつ。
「……お前の成長記録も、もうずっと報告してないんだけど」
 クロを話題にした定時連絡も、いつからか返事が来なくなった。急かすようで気が引けて、神成も余程でない限り何もしなくなってしまったのだけれど。
「寂しくないか?」
 口にした台詞が、猫へのものだったのか、それとも。考える前にレンジが鳴った。クロもぴょんと降りて、餌時の定位置に走っていく。神成は、あまり味を感じない親子丼を胃の中へ押し込む作業に没頭する。