ロスト・アクトレス - 2/11

1.ニュージェネの亡霊

「調子に乗りすぎたな」
 鹿爪らしく言う刑事部長の前で直立しながら、それはちょっと違う、と神成岳志は内心で訂正した。彼は調子に乗ったのではなく、ドジを踏んだだけだ。
 二〇一七年九月某日、関東地方東京都千代田区霞ヶ関の天気は晴れ。警視庁の中では一部雷が落ちている。先日起こった殺人事件の捜査中、神成がうっかり(・・・・)呼び止めて話を聞いた相手が、偶然上にとって『都合の悪い方』であったそうなのだ。そして先方は『犯人扱いするつもりか』とひどく怒っている、らしい。
 伝聞なのは、神成の把握している事実とは異なるからである。神成は、相手が検察関係者だとはっきり認識していたし、『犯人』ではなく『限りなくクロに近い被疑者』の扱いで、至極丁寧に話をお聞き申し上げた(そちらの方なら用語は正しく使ってほしい)。実際今でも、八割方は彼がやっただろうと思っている。異議を申し立てないのは、上層部がこの件を『全く誤認などしていない』ことも重々承知しているから。何もかも神成のミス(・・)にして、何らかの思惑を遂げたい者がいる。それが何者か、何名かも分からないうちから、やみくもに噛みつくのは正義ではない。馬鹿というものである。
「誰も庇い立てしてくれないとは、日頃のスタンドプレーがたたったかね。神成警部補」
「どうでしょう。ノンキャリの宿命というものかもしれませんね」
 うっすらと笑いながら返せば、眼前の警視長は露骨に眉をひそめた。神成は今年三十、歳は親子ほども離れている。そのうえ向こうは出世コースを邁進してきたエリート、神成が勝ち得た地位などずっと昔のスタートラインでしかないが、キャリア組の彼は現場をほとんど知らない。実はそれがコンプレックスであることなど、神成でなくとも知っている。だからと言って下に見るつもりはないが、やられた分をやり返しただけだ。
 捜査一課に配属されて、神成が巡査部長から警部補までの道を急いだのは、単純に『同じ景色を見てみたい』と願った相手がこの階級だったから。それ以上の理由などない。ここから上は管理職の色が濃くなり、現場での直接指揮が難しくなる。自分で動かねば気が済まない性質の神成にとって、『警部補』とは出世の頂点なのだ。もう、事件以外に対してがむしゃらでいる必要もない。
 ただなぁ、と神成は軽く視線を彷徨わせた。降任を言い渡されるのは流石に困る。それは、一般企業のお父さん方が肩を叩かれるのと同じ意味だから。どうしたものかと思案していると、刑事部長がようやく沙汰を口にした。
「君には刑事総務課で庶務をやってもらう」
「異動ですか」
 神成は焦点を目の前の相手に戻す。刑事部長自身の決定だというのは顔を見れば分かった。人事にも話の通った正式な辞令なのだろうか。独断だったとしても神成に拒否権はないのだが。
「一ヶ月限りだ。そこで頭を冷やせ」
「わかりました」
 とは言ってみるものの、上っていない血を更に下ろせというのは酷ではないのかな、とも考える。言わないけれど。
「神成」
 話が一通り終わって、立ち去り際に呼び止められた。振り返ると、刑事部長は薄い口唇の端を不器用に歪めている。
「気に入ったら、第一課に戻ってこなくてもいい。デスクワークも悪くないぞ」
 神成は微笑んで一礼し、退室した。笑顔も嫌味もセンスないですねと、失礼千万な本音は最後まで隠しきったまま。

 私物を詰めた段ボール箱を抱えて期間限定の職場へ向かえば、短期バイトに教育係をつけるほど暇じゃないと一蹴され、とりあえず見て学ぶだけの時間を過ごして、あっさり終業となった。九月上旬の空はまだ明るい。まだ例の事件も解決していない中、自分だけ定時で放り出されることに罪悪感を覚える。
「どうしましょうか、ねぇ……『先輩』」
 夕暮れとも呼べない光の色に、ふと呟く。七回忌の年に、聞いて呆れる『弔い合戦』があって、それから更に二年が過ぎようとしているというのに。こんなに人の死を見つめ続けているくせに、いつまで引きずっているつもりなのだろう。
 神成は首を振り、門から公道へ踏み出した。もう『警部補』で、三十だ。追いかけるのではなく追いつき、追い抜く段に入っている。今は自分が望むかたちではないとはいえ、それが市民を守ることに繋がる仕事ならば、変わらず全力で取り組むべきだ。いい加減、感傷は捨てて――。
「え」
 ――決意は、ものの十秒で霧散した。片側四車線の桜田通りを挟んで、向かいの法務省赤れんが棟の前に、見覚えのある男が立っている。『判安二』だった。間違いなく死んでいるはずなのに、そうだと神成は確信した。
 大型のトラックが通り過ぎる。よくあるフィクションならここで見失って、なんだ気のせいかと言うところのはずだった。だがその姿はまだくっきりと見えている。幻覚と呼ぶにはあまりにも鮮明に存在している。『彼』は何事か口唇を動かした後、ふらりと皇居の方に歩いていく。
「待っ……!」
 死人を追いかけるなど馬鹿そのものだと解っていた。それでも足を止められなかった。もう二度と見失いたくないと、道理から外れたことを願ってしまった。
 神成はもどかしい信号を待ち、横断歩道を慌てて駆け抜けた。あの日呼び止めたかった背中を求めて、必死に息を弾ませる。場合によっては犯人逮捕の為にどこまででも走り続けなければならないはずの足は、今日に限って上手く動かない。向こうはただ歩いているだけに見えるのに、いくら伸ばしても手が届かない。
 蝉の声がうるさい。
 皇居沿いに移動しているうち、内堀通りを渡って日比谷公園まで来てしまった。どうやらここに入っていったようだ……この期に及んで馬鹿らしくもなってきたが、今更引き返すのもすっきりしない。祝田門から中へ。いつもならまだ誰かしらが利用している時間なのに、人の気配が全くなかった。慎重に奥へと進んでいく。革靴が砂利を不吉に鳴らす。
 『健康広場』と呼ばれる、カラフルな遊具類のある区画へ来た。やはり誰もいなかった。
「追いかけてきたのは、あなただけでしたね」
 木陰のベンチに一人腰かけて、やわらかに微笑んだ眼鏡の女の他には、誰も。

「楠優愛さん、ですか」
 突然渡された名刺の文字を読み上げながら、神成は眉をひそめた。なにも彼女が不審だというだけではない。知らない名だが、とても近いものならば記憶に残っている。
「失礼ですが、その……」
「楠美愛でしたら、わたしの妹です。ご記憶でしょう、集団ダイブの」
 言いよどんでしまった神成の後を継ぐように、女――楠優愛は静かな声で告げた。こちらから尋ねるよりなお具合が悪い。ならばいっそ開き直ってしまうよりなかった。
「あなたは判安二について、何かご存知なんですか」
 神成は、強い、だが威圧的でない程度の口調で問う。楠は、まるで日傘でも持っているように軽く握っていた手を、ゆっくりと開く。
「はい。判さんが……いえ、判さん『を』信頼していた警察の方を、捜していました」
「それは仕事絡みで?」
 言いながら、神成はちらと名刺に目を落とした。『楠探偵事務所 所長』といかにも怪しげな肩書がついている。楠は警戒も納得尽くという様子で、微笑みながら首を傾げた。緩やかに波打つ長い髪が揺れる。淡いブルーのブラウスにグレーのタイトスカート、ストッキングに包まれた脚は、上品に揃えて流してある。歳は二十五・六だろうか、この残暑の中、彼女だけが春めいて見えるほど雅やかだ。
「そうといえばそうですが、ほとんど私情のようなものです。ご承知の通り、わたしたちは犯罪の可能性が高い案件を独自に調査することを、許可されていません」
「『でも調べたい』。――成程、それで『判さんのような刑事を』」
 楠はいたずらを指摘された少女の顔で、きゅっと肩をすぼめる。賢しげに、ご明察ですと胸を張らなかった純朴さに、神成はふっと力を抜く。苦笑しながら、彼女の座っているベンチを小さく指差した。
「申し遅れました、俺は神成岳志といいます。仕事柄正式な名刺はありませんが、一応、警視庁から出て来られる程度には警察官です。どうやら込み入っていそうですので、お隣失礼しても?」
「あ、はい!」
 楠は慌てて、ベージュの大きなトートバッグを自分の側に寄せた。ゲロカエルんのストラップが三つもついていて、まだ根強く持っているひともいるんだなと、頭のどこかがぴりと痛む。それをいちいち気にかけているほどの青さもなく、神成は一言礼を告げてベンチに腰を下ろした。初対面の男女が並ぶにはやや狭かったが、楠の膨らんだバッグが、緩衝材としていい働きをしてくれた。
「先程の判さんの姿は、あなたの見せた『妄想』ですか? 楠さん」
「神成さん、でしたか。どこまでご存知なんでしょう? 判さんはそこまで届かなかったはずなのですけど」
 楠は神成ではなく正面を見ている。笑んでいたが、視線は刃物のように鋭い。神成も女の横顔ではなく、虚空を向く。
「俺が知っているのは、『視覚野』『デッドスポット』、そんな程度のさわりだけですよ。『剣』は見えない」
「探りは結構です。『ギガロマニアックス』と『ディソード』の方が簡便ですからそれでどうぞ。あなたが『見た』と思っている『判さん』も、私が脳に送り込んだ『エラー』に間違いありません。ただ『思考盗撮』したのではなく、確かにわたし自身が覚えている姿を使いました。公園には、歩道橋を使って先回りさせていただいただけです」
 春の陽射のようなやわらかさはいつしか消え失せ、それこそ不可視の剣で打ち込むように、楠は言葉をぶつけてくる。しかし身を斬ろうという害意はない。この緊張感が、神成にはかえって心地いいほどであった。
「話が早い方はこちらも大変助かります。俺の答える番ですね。判さんは恐らく、ギガロマニアックスにまで辿り着いてはいなかったと思います。ただ、フリージアに身を寄せていたある研究者は、その存在を認識していた。ならばあの事務所と強く結びついていた判さんが、かなり近い場所まで踏み込んでいた可能性も否定は出来ないわけですが」
「憶測なんですね」
「若造でしたから。『ニュージェネ』に関しては、本人から何も教えてもらっていないんですよ。そのうちにってことも出来ないまま、全部終わっちまいましたしね」
 は、とかすれた声を漏らす。楠への嫌味ではない、自分の不甲斐なさが改めて嫌になっただけ。しかし、楠の放つ空気は幾分和らいだ。下口唇に細い指先を当て、そうですか、と小さく呟く。
「わたしも、フリージアで百瀬さんと判さんのお世話になったんです。美愛ちゃんを……妹を喪ったショックで、当時からもう、探偵の真似事のようなことを始めていて。いろいろあって、独断で動かれるよりはと、判さんが捜査の一部に協力させてくださって。それで、あのひとがどこまで知っていたのかも、ある程度分かっていたんです。『剣を出したり消したりする手品』とまでしか口にしていなかったはずだと、思ったので。試すような言い方をして、ごめんなさい」
 そうですかと、今度は神成が同じことを言った。どこかで聞いたような話だ。ただし力関係は随分違っていたろうが。
「あの人、独自捜査でディソードまで辿り着いてたのか。敵わないな、ホントに」
「あの、神成さんは、判さんの部下でいらしたんですか?」
「一応は。直接っていうのでもありませんでしたが。――『再来』の現場で指揮を執っていたのは、私です」
 一人称が変わったのはわざとではなかった。自分の声が耳に入ってきてそうだと気付いたが、訂正するほどのことでもない。神成は黙って、正面に見える検察庁のビルを睨んでいた。
「六年」
「え?」
 急に言われて、上手い反応が出来なかった。楠は自分の両手の平を軽く合わせて、視線を地面に落としている。
「いえ、八年ですね。世間が忘れるには充分ですけど……当事者たちには、短すぎるのかもしれません」
「あ……」
 神成も彼女を直視することが出来ない。頭をかきながら、のっぽの時計を用もなく見上げた。
 判を喪ったという点では、神成の方が傷は深かっただろう。しかし職場の上司など、どこまでいっても他人でしかない。半身を喪った彼女は、一体どんな気持ちで『再来』を見届けたのか。あの、今年の初夏に成人した彼は――自らの意思で事件に首を突っ込み、自ら望んで半身の手を離したけれど。楠は何の覚悟もないまま奪われ、きっと取り憑かれたように事件に没入していったのだろう。
たった八年で何を忘れられる。肉親を亡くしたわけでもない神成でさえ、この様だというのに。
「それで、調べたいことというのは」
 ゆっくりと、話をスライドさせる。すみません、と楠は目尻を一度きりこすった。
「話が早い方がと言われたのに、逸れすぎましたね。人を……捜していただきたいのですが。戸籍がないので、正規の捜索願が出せないんです」
「戸籍が、ない」
 神成の首の裏を、冷たい汗が伝う。
 まだ残る蝉の声。頭をよぎる、実在しないはずだった少女の姿。幼なじみを甘く呼ぶ笑顔。
『タク』
「あ、違い、ますよ。彼女は実在します……事実としては」
 楠はよく分からない説明をしながら、神成の顔を気遣わしげに覗き込んだ。自分でも理屈を持て余すように、指先で薄紅の口唇に触れている。癖なのかもしれない。
「詳しいことは、後で必ず。とにかく、ギガロマニアックスのことを知っている方にしか、お願い出来ないんです」
 その細い指を固く握り締め、真っ直ぐに、彼女は言った。
「お願いします。咲畑梨深という女性を、捜していただけませんか」
「でしたら、俺からも個人的に依頼したいことがあります。楠所長」
 神成も、その視線に正面から向き合い、きっぱりと返した。
「――久野里澪という女性を、捜していただけませんか」