仮想彼岸のフローラルトリビュート - 2/5

S区画

「それでねおばあちゃん、そのときまゆしぃは思ったのです」
 少し離れた墓石の前で、若い女性がしゃがんでいた。つばの広い帽子で表情はここから見えないが、とても楽しそうに故人に語りかけている。全然関係のないこちらまで、つられて笑みがこぼれそうだった。
 それでも、いつまでも見知らぬ女性を観察している趣味は神成にはないし、暇でもない。先を急ぐため、立ち並ぶ墓石の隙間を抜けようとする。
 だが前には、長身の青年が立っていて。後ろからやってきた神成に気付く様子もなく、ちらりと表情を盗み見れば、女性に静かな視線を送りながら、それ以上前へ出て近づくでもなく、ただ穏やかに立っている。
 ぼさぼさの黒髪を後ろに撫でつけて、墓地には不似合いな、長い白衣を羽織っていた。
「すみません。ちょっと通ります」
 神成が片手で礼をしながら声をかけると、青年ははっと振り返った。すみませんと小さく頭を下げ返した後、彼は急に居丈高な顔つきになって腕を組み、いやに緩慢に道を譲ってくる。
 神成は首を傾げつつ、どうも、と横をすり抜けた。だがふと気になって、首だけでもう一度彼を見る。
「失礼。今日、雨は降る予報でしたか?」
 青年は不思議そうに目を丸くして、雲一つない青空を見上げた。
 そのくせ、尊大に組まれた腕に引っかかっている女性ものの傘は、どう見ても日傘ではなく雨傘で。
 視線を戻した青年は、人を小馬鹿にしたような笑みで肩をすくめる。それに腹が立たなかったのはきっと、どこか愛嬌のある仕種だったから。神成も苦笑して、前に向き直る。
 後ろを通り抜け様、女性が虚空に手を伸ばす気配がした。
 青年が何か言ったような気がしたのは、気のせいだったろうか。

 歩いていると、右から向かってきた少女と目が合った。
 高校生ぐらいだろうか。制服のようなブラウスとスカート姿。最近関わってきた子たちとそう変わらないように見える。
「こんにちは!」
 白いハイビスカスを腕いっぱいに抱えた少女は、快活に笑った。こんにちは、と神成も笑み返す。
 ハイビスカスというのがこの辺で手に入るのか、供花に相応しいのか、彼にはよく分からないけれど。少なくとも、少女の無邪気さにはとても似つかわしい花だった。
 こんな風に素直な笑顔を向けてくれる若者ばかりなら、警察も苦労しないのに。そんなことを考えていたら、おい、といきなり地を這うような声が聞こえて。
「なんだ、おめェ。俺の娘に何の用だ」
 殺気をみなぎらせた大男が、柄杓と手桶を、まるで太腿みたいな両腕に提げて現れた。
 神成は確かに犯罪者を追う側の人間だが、あれぐらいの相手になると、いくら見かけによらず潔白な人間だったとしても、正直機動隊を呼びたい。
 先程の少女が、もー、と呆れた声を出す。
「お父さんたら、今初めて会った人だよ! 目が合ったから私からご挨拶したの。マナーでしょ?」
「お、おぅ……」
 急に大男が小さくなったので、神成はその隙に、よく出来たお嬢さんでと愛想笑いを浮かべてそそくさ去っていった。すみません~と少女にすれ違いざま謝られたような気もするが、それも半笑いで流す。
 親子……遺伝子とは不思議なものだ。少女の方は母親に似たのだろうか。
 きっとあのハイビスカスを喜んでくれるような、母親に。

 少し行った先に、また先程の青年がいた。
 けれど白衣は着ていなくて。随分やつれたように見えて。上も下も、黒い服を着ていた。今の神成よりも余程不吉なほど、黒い服を着ていた。
 傘どころか、花一つ持たずに。
 彼は先程の女性のように墓石の前にしゃがんで――いや違う。へたり込んでいる。墓石ではなく、巨大なモニターの前に。何も映っていない真っ黒な画面の前に。泣くことにさえも倦んだような顔で、ただ呆然と。
 痛ましすぎて見ていることも憚られて、神成は彼の後ろを通り過ぎようとした。
 不意に、これも先程の女性と同じく、青年が右手をゆっくりと上げる。
 冷たいはずの画面に、怯えるような指先が触れて。一瞬だけ、悲しげな瞳の少女が青年を見つめた、気がした。
「――ねぇ。帰らないと」
 つらそうな女性の声が聞こえて。子供のように小柄なひとが、胸元を握り締めて彼に傘を差しかけて。あの後青年は、どうしたのだろう。