心的外傷のブロークンノイズ

 二〇〇九年、冬。渋谷地震が起こってからというもの、まゆりは元気がなかった。
 もちろんあの大災害で浮かれる方がどうかしているけれど、岡部倫太郎は別に『不謹慎厨』でもない。友人の橋田至と、間近に迫った大学センター試験の話も普通にするし、こうやってたまの登校日に制服の上へ白衣を羽織り、コンビニでジュースの買い飲みだってする。
 池袋には被害がなかったから。大変だなとは思うし、近所ではあるけれど。
 倫太郎にとっては、人並み以上の同情を引き起こすほどの嘆かわしい事件ではなかったのだ。
 それでも、幼なじみの少女がずっと塞いでいるから。こうして、毎日まゆりの高校から家まで送り届けている。まゆりは俯きがちに、倫太郎の隣を歩いていた。
「ごめんねオカリン。毎日、まゆしぃの学校の近くまで来てもらっちゃって」
「気にするな。お前は俺の人質だ、あの胡散臭い地震からこっち……機関の動きがないかどうか警戒するのも、俺の狂気のマッドサイエンティストの性というものだ!」
 すっかり板についてしまった『鳳凰院凶真』の口調で答える。
 実際、あの超局地型地震については、様々な憶測―陰謀論が飛び交っている。どれも馬鹿馬鹿しい妄想の域を出ないが。あまりいい趣味とは言えないことを自覚しながら、倫太郎もその手の話にはそれなりに目を通しているのだった。
 そんなことはいい。問題はまゆりだ。祖母の死んだ直後とまではいかないが、その半分ほどには落ち込んでいる。まゆりは倫太郎よりも繊細だから、その『隣人』に起きた不幸を、他人事として切り離せないのだろう。
 まゆりの視線が渋谷を向く。視力としては捉えられないけれど、方向として、意識として。遠くへ。
「ねぇオカリン。池袋で同じことが起こったら、まゆしぃたち、きっと無事じゃなかったよね」
「そうだろうな」
 倫太郎は努めて感情のない声で答える。
 そんなもしも、近隣の区民ならみな考えたことだ。もしそうなら、まゆりの家も倫太郎の家も無事では済まなかっただろうし、岡部青果店は営業もしていないし、倫太郎だって残り少ない高校生活を消化することもなく死んでいたのかもしれない。
 けれどそんな仮定、普通はこう落ち着くのだ。『自分じゃなくてよかった』。倫太郎だって、ご多分に漏れずそう。
 別に、特段冷たいことだとは思わない。そうやって線引きをしてしまわなければ、どこかで他人事にしなければ、世界の出来事全てを自分の感情で引き受けていたら、心なんてすぐに壊れてしまう。
 ぎり、と倫太郎は口唇を噛んだ。
 まゆりに言葉でそう説明してやったとしても、心底納得してはくれないのだ。倫太郎の言うことだから、そうだねぇと、曖昧に笑って理屈を解ってはくれるのだろうけれど。
 まゆり自身の優しさは、その逃げをきっと許さない。
「まゆしぃね、渋谷にお友だちがいるの」
 ぽつりと。天気雨のように、まゆりが呟く。
 片雨のように、第三者には観測されない涙のように。
「メールが、くるんだぁ。一日に一回だけ充電させてもらえるんだって……。つらいって、苦しいって、何で私たちだけって、毎日来るの。でもまゆしぃはね、何もしてあげられなくて。こんなに近いのに、まゆしぃだけは、こうしてオカリンがそばにいてくれて。いつもどおりで。その子はずっと、電話でも泣いてるのに、どうして――」
「まゆり」
 倫太郎は低い声で、やわらかく痛々しいばかりの声を遮った。
 右手を突き出し、まゆりを、顔も知らないまゆりの『友人』を睨み付ける。
「ケータイを貸せ」
 まゆりはただでも丸い目を更に丸くして、小首を傾げた。意図は解っていないだろうが、素直に携帯電話を倫太郎の手の平に載せる。
 ロックもかかっていない不用心な電話を操作すれば、件の友人の名はすぐに分かった。
『助けて』『元の生活を返して』『まゆりちゃんはずるい』『私だけこんな目に遭って』『見捨てないでね』『寒い寒い寒い』『体が痛いよ』『苦しいよ代わって』『ねぇまゆりちゃん』『まゆりちゃん』『まゆりちゃんだけどうして幸せなの?』
『どうして まゆりちゃんは生きてるの』
 滅多にないほど大きな舌打ちをして、倫太郎はその少女の送ってきたメールを全削除した。電話もメールも勝手に着信拒否にしてしまう。連絡先も、アドレス帳からは削除した。
 確かに被災したことに関して、彼女には何の咎もなかったはずだ。それは、つらいだろう。苦しいだろう。理不尽だと嘆きたくも、世界を呪いたくもなるだろう。だが。
 倫太郎は固く目を閉じて、小さな携帯電話を握り締めた。
 ――まゆりを、巻き込むな。『世界』が巻き込まなかったまゆりを。
 お前は、『どうして』巻き込まなければならない。引きずり込むな。まゆりを壊すな。お前をまゆりと『代わって』やらせることなんて、絶対にない。そんなこと、俺が絶対に許さない。
 どれだけ自己中心的で、非情で、無責任で、恥知らずでも。
 岡部倫太郎は。鳳凰院凶真は。椎名まゆりを傷つける全てを、認めるわけにはいかなかった。『こんなこと』、『対岸の火事』であってもらわなければ困る。
 もしもその少女が発狂してしまうとしても、そんなのは気の毒だが本人の強さの問題で。まゆりが引き受けるべき罰などでは、決してないのだ。
「……そいつとは、もう連絡は取るな。機関のィエイジェントかもしれん」
 出来るだけ鳳凰院のトーンで言いながら、電話を返した。まゆりは瞳を揺らしながら、うん、とくしゃくしゃな顔で微笑んだ。
 まゆりはきっとこれからも、その少女の慟哭を毎夜聞くのだろう。いかなまゆりでも、自分の携帯電話の設定解除ぐらい、出来るはずだから。
 それにデータは消せても記憶は消せない。向こうが保持したデータなら、すぐに共有もされてしまう。
 それでも倫太郎は、拒めと命じて。まゆりはどうせ絶ち切れなくとも、うんと頷いてくれた。これ以上の問答は無駄で無価値で無粋だった。
 最終的にどうするかは、まゆりの決めることだ。
「腹減ったな」
「まゆしぃねぇ、昨日の夜からずーっとチョコバナナクレープ食べたくてうずうずしてるのです」
「おまえそれ、TVの特番でやってたやつだろう。ちらっと見たぞ」
「えっへへぇ」
 日常のような会話をして。彼らのことに目をつぶって。
 二人は『平和』に逃げる為に、少し遠回りをして帰る。