ドレスアップは廃墟の為に

 古郡こなが八汐海翔を呼び出したのは、彼の体調が随分快復した頃だった。
 あれほど嫌がっていた『発作』を乱発した後だから、かなり疲弊していたのだ。おかげで、こなにとって準備期間はたっぷりとあった。
 そう。支度は整った……。こなはポケコンを取り出し、意気揚々とメールを作成した。

『UMISHO氏 
 全国一位の猛者よ
 ついにその座を射止めし貴殿に更なる挑戦を
 勝負の頂にて待つ

 キルバラッド・オンラインを生み出したる天才 神代フラウ』
 ドヤ顔で送ったはいいものの、『それ具体的にどこさ』とマジレスされたので、『私の家だろjk!』と逆ギレする羽目になった。

 

「で? 用って何なのこなちゃん。全一をご指名じゃ断れないけど、この部屋寒いからあんま長居したくないんだよね。まだちょっと身体が本調子じゃないし」
 数日ぶりに会ったというのに、八汐海翔のテンションは低かった。というか、優先事項があればこなのことなど、一ヶ月でもすぽーんと頭から抜け落ちるような男だから、現時点ではこちらも期待していない。
 ふふふ、といつもとは違う悪の幹部っぽい笑い方をしながら、こなはネットでぽちった別に食べもしない三つのクルミ(一応本物)を手の中で弄ぶ。
「か、輝きのその向こう側を見たくはないかね、少年?」
「そういうのいいからさ、用件言ってくんない?」
 両腕をさすりながら真顔で返された。相変わらずにべもない少年だ。しかもそれが別に『こなが嫌いだから』ではなく『フッツーに目の前のことにキョーミない』なので余計に腹が立つ。ぐぬぬと歯噛みしたい気持ちを抑え、こなはあくまで幹部風にエアグラスを揺らす。
「や、八汐先輩は今、リーダーボード1位。おk?」
「そうなってるね。初めて見たときは興奮して鼻血出すとこだったけど、今はチャレンジャーが追随してきそうな気配がないんで、チャンピオンはやや退屈気味」
 八汐は取り出したポケコンを振ってみせた。得たり、とこなはエアワインを口にする。
「だからですね、フラウちゃんは、世界に胸熱展開を振りまいた先輩を褒美として楽しませるべく、新たなるステージをですね、大胆にも追加してあげちゃったわけですよ。うむ、崇めることを許そうぞ」
「それって大型アプデ?」
 八汐の目の色が変わった。しかしまだだ。まだ少し探るように、もう一声と言いたげに口唇の端を油断なく緩めている。
「やー、どうかな。それでかえってゲームバランス崩壊とか、メンテ延長とかされるとこっちも勘が狂うからね。システム側の善意ってユーザーには必ずしも喜ばれないじゃない。こなちゃんならそれぐらい分かってるでしょ?」
「と、当然でしょ、アタシを誰だと思ってるの? ツンッ」
「いや、なんで急に口調変わったの?」
「て、テンプレにマジレスとか八汐先輩マジ八汐先輩……だがそこがいい」
 話が進まないことは自覚しているので、こなはエアグラスを捨て咳払いする。片手に残る、殻のままのクルミをガシャガシャガシャっとかき回す。
「UMISHO氏の過去の対戦結果を、神代フラウ自らが研究し尽くして創り上げたNPC四天王! そしてそれら4体のうち3体を倒して初めて、八汐先輩はフラウちゃんに挑戦する権利を得ることが出来るのだー! ふはははははゴヘッ!!」
 全然水分を摂っていないのに、普段しない笑い方をしたらむせた。ロゼッタが冷静に、最後に水を飲んだ時刻を告げてくる。八汐海翔は特に心配げな様子も見せず、ぼさぼさの頭をかいている。
「管理者権限をそんなことに使わないでほしいよね……。言っても所詮NPCでしょ? あのクソチーターをぶっ倒した俺に、今更何を出してくるかと思えばって話なんだけど。正直ガッカリだよ。まぁせっかく来たから、ただ帰るのも無駄足だしね。一応オンラインマッチングぐらいしてっていい?」
「ふへへ、せいぜいそうやって余裕こいておれー。これはあくまで、う、『UM
 こながクルミをほっぽり出してお決まりの笑い方に戻ると、八汐は少しだけ興味を取り戻したようだった。どういうこと? とまだ立ったまま聞いてくるので、まぁ座りんしゃいと促すが無視される。こなも深追いはしない。
「つ、つまり、さっきも言った通り、これは先輩の戦い方をパターン化して一番『されたくない』攻撃・回避方法を導き出して創っただけのNPCで、だ、断じてチートではない! むしろ綯様やメガネにぶつけたら、逆に倒しやすいかもしれないレベル」
「へぇ。じゃあ、弱点補強プログラムぐらいの役には多少立つんだ?」
 八汐は、ぱっと瞳を輝かせた。普段無気力な顔ばかりしているくせに、突如こういう子供そのものの表情をする。それも多くの場合『キルバラ』がきっかけで。別に自分自身のことではないのに何だか気恥ずかしくて、こなは落としたクルミのうちの一個を裸足でぐりぐり転がす。不健康な足裏には結構痛かった。
「で? 何の条件もないのにそこまでしてくれるなんて、俺はそこまで君の善性を信じてないんでね。俺に、何をさせたいの? 何を、望んでるわけ?」
 八汐が灯りの乏しい部屋で八汐はポケコンを掲げ、不敵に笑う。モニターの青白い光が、日光に映える焼けた肌を、人工的に浮かび上がらせて。
 ナニをじゃー!! メガネとのナニをナニでー!! と叫びたいのをぐっとこらえ、こなはなるべく強く、八汐海翔の顔を見た。
「私の条件は、まだ言えない罠。その代わり、八汐先輩が勝ったら、何が起こるか、お、教えてあげる」
「俺が?」
 八汐は意外そうに目を丸くした。てっきりまた、こなが勝ったら変態的な要求をされると思っていたのだろう。こなだって本音を言えばそうしたいが、それでは八汐海翔は動かない。
 目を逸らして、クルミを蹴っ飛ばした。
「た、TAGIRINGERのアカウント」
 見なくても、八汐が顔を強張らせたのが分かる。他の誰のことだって無関心みたいな態度のくせに。瀬乃宮姉妹のことなら、彼は普通の少年以上の過剰反応すらするのだから。こなは俯いたまま話を進める。
「今、瀬乃宮みさ希のポケコン、押収されてて……垢は私が、まだBANせずに、と、凍結してる状態。みさ希たん、入院中で意識戻ってもすぐには動けないっしょ? 別のポケコンあれば、データ移行して、『キルバラ』させてあげることも、周りが許してくれれば出来るわけだが」
「……なに? こなちゃん、ミサ姉のことをダシにして俺を動かそうっていうの?」
 八汐の声は笑っていた。
 しかし、熱湯に氷をぶち込んだような――ぴしりと、ひび割れる音が聞こえるようで。なまじ怒鳴り散らすよりも、彼の神経が不穏な昂り方をしていることが伝わった。彼は瀬乃宮みさ希との関係に――いや違う、『勝負』に――水を差されることを、ある意味死よりも嫌うから。
 こなは目を汚れた床に向けながら、早口に弁明する。
「わ、私は、別に本人が望むなら、自分の手で戻してあげちゃってもいいけど……八汐先輩が新しいポケコン持ってって一緒に『キルバラ』やってあげたら、敵に塩も送っちゃうさすが全一の俺的厨二病もかませて先輩の株も爆上がり、的な展開も、なくはないです」
 そんなの別にどうだっていい。瀬乃宮みさ希と彼が、失った時間をどう埋めようと、こなの知ったことではない。きっと本当のきょうだいみたいに、もしかしたらまた憧れの眼差しを注ぎながら、他愛なく笑い合うかもしれないなんて。そんなの知りたくない。
 だからこれは、本当は勝負なんかではなくて。
「……そ。こなちゃん、俺に気ぃ遣ってくれてんだ」
 八汐海翔は静かな声音に戻って。こなに歩み寄ってきて、頭を撫でてくれもせずに、余計な世話だねと、やわらかく呟いた。
「四天王に3勝して大将、で、それがこなちゃん? 大将が一番弱いんじゃない?」
「か、各三番勝負ですし! 私のところに来る頃までには疲れ切ってるかもしれませんしおすし!」
「まぁいいさ。どうせ俺、NPC4体で疲れてやるほど甘くないよ」
 八汐は、こんなのどこで買ったの? と訝し気にクルミを拾い上げてまじまじと見つめている。
「でもさ、それでいくと、四天王? と戦ってる間、こなちゃんすごく暇なうえに、特にメリットなくない?」
「メリットなら、ある! チャンリンシャン!!」
 もはやメリットでもネットスラングでもないただの死語を叫びながら、こなはガンヴァレルの決めポーズをかました。
「八汐先輩が勝っちゃったら次へのハンデとして私が指をペロペロさせてもらって! 負けたら慰めに鎖骨ペロペロしてあげまするぞ!!」
「それ、俺にメリットはないってことじゃないの……」
 嫌そうな笑みを浮かべて、八汐は拾い上げたクルミを放り投げた。
「まぁいいや、やるからには全勝狙いだよ、俺。ちなみに変態行為はルール違反で即失格だから」
「さすが八汐先輩、歪みねぇな……しびあこ」
 いつもよりハイテンションな動きばっかしたから疲れたと、こなは座り込む。八汐は苦笑して、提げていたビニール袋から、結露の滴るレモンフレーバーのビタミンウォーターを、こなに差し出した。
「ま、すぐだから。神は座して、悠々と観戦しててくださいます? 長くはお待たせしませんし」
「ふはは、そう思惑通りにいくかなー」
 とはいえカラカラだった喉に、こながドリンクを三分の一ほど流し込む。八汐海翔は手近な毛布を引き寄せると、今のところ身に纏うわけではないが、ようやく腰を下ろした。
 こなの用意したケーブルに有線で繋いで、この場でだけ遊べる特別ステージにご招待。八汐の顔は、すっかり試遊台に並ぶ小学生のようになっている。こなは右手を大きく上げて、ロボ部専用NPCの紹介をする。
「だ、第一ステージ! 先鋒、『MEGANE』!!」
「はは! このスナイデル、プレアデスカラー!? スナイパーのくせに隠れる気ゼロじゃないの!」
 これだけ八汐が笑ってくれれば、これでもう出オチを任せた甲斐もあるというものだ。こなは上機嫌で横になり、イチゴ味のぽっきーをかじる。八汐はというと、早くも笑みを消し特殊ステージの分析に取り掛かっていた。
「いつもの市街地じゃないね。これ……もしかして、この廃ホテル?」
「メガネはいつも私の安息を奪いに来る、絶対に許さない絶対にだ。というわけで、八汐先輩のガンヴァレルのミッションは、フラウちゃんのいる角部屋を狙撃される前にミスター・スナイデスを倒すこと」
「防衛ミッションか。あんまり好きじゃないけど、来る場所は分かってるんだし、射程内に入られる前に先手必勝で済むんなら――」
「なお、スナイデスは七人の女神の祝福を受けているので特殊効果を発動することがあります」
「それは充分チートじゃない?」
 文句を言いながらも、もう試合開始のシグナルは鳴って。八汐海翔は戦闘モードになる。理不尽なまでの『女神の祝福』を潜り抜け、派手すぎるスナイデルを瞬く間に仕留める。
「まず一勝。知り合いを模してるってのも、内輪すぎだけどなかなか悪くないね」
 八汐はそれなりに上機嫌の様子だった。こなは微苦笑してビタミンウォーターを口にする。甘酸っぱいイチゴぽっきーの後では苦くえぐかった。
 その後、廃空港で待ちをしているが、死角からの攻撃へのカウンターには滅法強いボルトヴァリアン『KARATE』を倒し。中堅・宇宙ヶ丘公園のスティングーマ『AIRI』はコンボを叩き込まれた回数に応じて『GEJI-NEE』として発光し、戦法が百八十度変わるが、八汐はそれにもすぐに対応し。
 時間をかけた『もてなし』も、『全一』の前では暇潰しにさえならなかったことを、こなは改めて思い知る。
 のそりと半身を起こし、薄汚れた毛布で剥き出しの肩を覆う。
 先輩、知ってるよね。私、元々ロボ部に興味なんかなかったって。誰がどうでもよかったって。
 でも今回、結構調べたつもり。苦手な連絡とかして情報集めたし。チューチューやすまさに頼りたくなかったから、モデリングの色換えとか小物干渉しないかのチェックとか全部自分でやったし。『居る夫。』死んだから、突貫のアプリじゃどうにもならなくて、画像も撮りに行ったし。
 『ユーザーにはそんなの関係ない』
 そう。先輩は楽しければ、私の苦労なんかどうでもよくて。努力も。想いも。何もかも。ただ『キルバラが面白ければ』。――なんて開発者冥利に尽きるお言葉、今後も精進いたします。
「すごいよこなちゃん、この『AIRI』と『GEJI-NEE』の性能チェンジ、かなり手強い! 隠しコマンドとして実装すれば、条件次第でリーダーボードが変動する!」
「貴重なご意見ありがとうございますた」
 このモニターより目を輝かせて言ったかと思えば、彼の瞳は既に『キルバラ』のガンヴァレルを制御するための視覚制御装置に戻っていて。最初こそ、ジャンキーレベルのオタクと感じたこともあるこの落差も、今のこなにはいっそ心地いいぐらいで。
 手を伸ばそうとして、やめた。
 それでも彼が『キルバラ』を好きだと言ってくれて、嬉しかった。『ガンヴァレル』は母の遺産でも、『キルバラッド・オンライン』はこなが身を捧げて作った我が子だから。
 『ガンヴァレル』には詳しいが技ひとつまともに出せない瀬乃宮あき穂より、『ガンヴァレル』なんて知らない――これも正直複雑であるけれど――八汐海翔が、ゲームとして優れていると一日何時間も時を費やしてくれている。それが、ただ、泣きたいくらい胸が痛かった。
 真剣な横顔。モニターの灯りが反射して。頬の産毛が青く光って。伏せた瞳は0と1に全てを賭ける。あるいは人生さえ。
 彼は格ゲーマー。全国一位。八汐海翔。こなの命を救ってくれた。傍にいてくれた。心をあたためてくれた。話をちゃんと聞いてくれた。汚されそうな『ガンヴァレル』を救ってくれた、ゲンキ以上のこなのヒーロー。
 だけど手は、伸ばせない。彼のプレイを邪魔は出来ない。
 いつだって、口先ばかりで本当に『ぺろぺろ』しなかったのは恐かったから。彼のプレイの妨げになることが。
 古郡こなが、八汐海翔に好意を持つその前から。彼女は彼に興味を持っていた。チーターでないことなんてほとんど分かっていたけど。接触してみたかった。プレイ記録を観て、鮮やかさに惹かれた。その強さに、直に打ちのめされてみたかった。
 そうだ。八汐海翔は、古郡こなによくしてくれたけれど。そのずっと前から、神代フラウは、UMISHOに心惹かれていたのだから――。
 ぎり、と親指の爪を噛む。
 ずっと、二次元に行きたかった。スクリーンが邪魔だと思い続けていたのに。
 今は目の前に、冷たく透明な、硬い一枚が欲しい。それさえあれば、こなにだって薄皮越し、彼に触れることが出来るのに。
 何もなくて。実在の、オフラインのあなたは三次元で。触れてしまえば、あなたは私を観測してしまう。
 八汐先輩。UMISHO氏。どっちでもいいよ。私が誰より敬愛するプレイヤー。全一になんてなる前から、私の一番だった人。
 そこにいて。どこにも行かないで。だからこの指先は、どこにも届かない。こんなに、こんなに触れたいのに。
「よっし、副将のスターラプター『AKIHO』まで来た! ……ってあれ、これは『BUCHOU』じゃないの?」
 八汐の問いにこなは答えなかった。ただ無感情に、ロゼッタに時間を聞く。ゲンキがゲームをするときの推奨休憩時間を言った後、元気があれば多少の無理は利くもんだとパワハラ上司みたいなことを言うので、ミュートした。
「こなちゃん?」
「……次期部長メガネに決まってるのに『MEGANE』と『BUCHOU』いたら、メンツ丸潰れっていうか。プライドへし折られて泣いてるメガネはおいしいですけどね、デュフフ」
「あ、そっか。昴くんを尊重してくれたわけね、さすが次期副部長」
「だ、だがその役職だけは断固拒否するッ!!」
「つったって、次の三年生は君らしかいないんだけど……あ、始まった」
 今度のステージは部室前だった。八汐海翔がよく『キルバラ』をやっていた木陰の近く。八汐はやる気満々で『AKIHO』に向かっていく。こなは冷めた目でそれを見つめている。案の定、彼がその異変に気付くのは早かった。
「……どういうこと? こなちゃん」
 ほら、また。こなは笑ってしまう。瀬乃宮姉妹のことになると、八汐は笑いながら激情をちらつかせる。
「『AKIHO』だけ、基本性能もいじってない、戦法もない、特殊能力もない、ただの色違いだよね?」
「――何を当たり前のことを。部長先輩に出来るのなんて、ガチャプレイだけジャマイカ。赤いからって三倍速く動けるとか『ガンヴァレル』の設定じゃないんで持って来られるの正直いい気するわけない罠」
「あは、その言い方。アキちゃんにだけは、『何の取り得もないですね』って言ってんだ? ま、事実だけどね」
 認めながらも、八汐海翔は立ち上がってポケコンを片手で握りしめている。ポーズ中のシグナルだけがずっと鳴っていて。こなは落ちていたクルミを、手近な工具で殴りつけて割った。
「あるあ……ねーよwww 体力ゲージ見てみるべし」
「へ?」
 八汐は怪訝な顔で画面を見下ろし、目を見開いた。こなの仕掛けた、最後のギミックに気がついたらしい。こなは拳を口許に当てて、デュフフ、といつもの笑みを浮かべる。
「『十二の試練(ゴッドハンド)』。その機体は1戦で連続12回倒さないと勝利判定されないお。しかも3戦中2回。――八汐先輩。別に、アレを倒してしまっても構わんのだろう?」
「ハッ、そういうこと。諦めの悪さだけは誰にも負けないアキちゃんらしいや」
 八汐は立ったまま戦闘を再開する。聞こえるのは破壊SEばかり。馬鹿正直にぶつかるしか出来ないNPCを、今彼は無表情で片付け続けている。王の貫禄で、作業のように葬っていく。
 あれがこなの惚れ込んだユーザー。全国一位の絶対王者。これだけいろいろ策を弄したって、大将まで上がってきた彼は、それまで以上に神代フラウを簡単に撃破して、瀬乃宮みさ希への土産を持って、意気揚々と自分の領域に戻っていくのだろう。
 だから言えなかった。こなが勝った時の条件なんて。
「あー、よく研究してるね。この学習能力のなさ、マジでアキちゃんだよ」
 八汐が、もしかしたら独り言かもしれない音量で呟く。こなは黙って彼の横顔を見上げている。
 二人が、決戦前にキスをしたらしいことは、何となく知っていた。その前に自分が、気を失った八汐の口唇を奪ったことは、誰にも言っていなかった。
 種子島に生まれていれば。同い年なら。つまらない仮定は何度もした。
 プログラムは得意。体力は同じぐらいないし、後ろ向きだけど、肌だって見せ合ったよね。何もなかったけど。
 けどダメだった。何をしたって。あなたは私を見てくれない。救おうとはしてくれたけど、それは自分の目的の上に私がいたからで。
 視界がにじむ。こんな惨め、オタクらしくないのに。
 ――私を見てよ。あなたから私にキスして。
 もっとハイテンション腐女子フラウちゃんでいたいのに。
 ――抱きしめて。寂しいときは傍にいて。利用だってしてもいいけど、たまには打算抜きで支えさせて。
 メガネとそういう風に甘々ニャンニャンになってる薄い本ください。
 ――嘘。同じ妄想なら、自分と彼がそうなっているものだって、たくさんした。
 こなは八汐と『AKIHO』との戦闘を最後まで見守ることが出来なかった。毛布で顔を覆って視界を真っ暗にする。
 ――私を好きになって。ずっとここにいて。当たり前みたいに隣にいて。出かけるときは世話を焼いて。
 そんなたくさんの我が侭、何度『キルバラ』に勝ったって言えやしないのに。だから、本当は。本当は。
 ――好きですって、伝えさせて。それで、興味ないって、切り捨てて。それだけでいい。あなたの真綿で首を締めるみたいな優しさが、いつまでも私の気持ちを殺してくれないから。
 くるしいよ。
「……こなちゃん。泣いてんの?」
 いつの間にか、八汐海翔が目の前に膝をついていた。『AKIHO』との対戦はとっくに終わったようだった。
「こ、これは汗です!」
 こながつんと横を向くと、この極寒の部屋で汗なんか普通かかないよ、と八汐は指の背でこなの涙を拭った。こんなときでも、勝負に影響の出そうな箇所は使わないのが全力でUMISHOだと思った。
「で、どうすんの? 俺は、相手が号泣してる年下の女の子でも、挑まれた以上全力でボコボコにするよ?」
「お、鬼ー! 悪魔ー!!」
 こなが胸板を殴ると、痛い痛いと八汐は笑った。本当に許せないほど、腹の立つほど『八汐海翔』だった。
「やだ! ど、どうせ最初から、勝つ気なんかなかったし! タジリンのポケコンならそこにあるから、す、好きに持っていけばいい!! わ、私は、八汐先輩みたいな、ゲーオタのことなんか……ことなんか……」
 ダメ。それは勢いでも言っちゃダメ。だからこなは叫ぶ。
「金づるとしか思ってないんだからね!!」
「落とし切りで課金してなくても金づるでいられんの。安いね俺も。君だってそんなに自分を低く見なくてもいいのに」
 八汐海翔は肩をすくめ、ちょっと休憩と部屋を出て行った。ぐしゃぐしゃの顔のこなだけが残って。本当にバカみたいだ。
「いいもん……対外的なフラウちゃんは美人だって、そういう幻想に浸ってみるテスト……」
 ふらふらと立ち上がり、東京から持ってきた一張羅――ではなく、母が余所行きの服の中で一番気に入っていた、もう二度と出してくるつもりのなかったワンピースを身に着けてみる。服よりブラジャーを探す方が実は大変だった。
「ハハッ、純白の衣装に身を包みし処女とかワロス」
 鼻で笑いながら、苦労しつつ髪も整えて。いつものツインテールは嫌だったけれどポニーテールはもっと嫌だったから、サイドテールに括って。すぐに、くてんとしてきたのを、適当なスカーフで結ってごまかす。自殺するつもりはないけれど、死に化粧のつもりでなけなしの美容水とリップクリームをつけて。裸足に、母の手作りの小さなアンクレット。
 陰鬱な色の窓ガラスに映った自分は、お世辞にも綺麗とは言えなくて。
「17歳、永遠のエロス……すたれたホテルで退廃の美、ならず」
 自分で自分の笑い方が本気で気持ち悪かった。ゲンキのミュートを解除すれば、身だしなみは相手とのぶつかり合いだぜ! とか意味の分からないことを言われるし。またミュートしてやろうかと思ったとき、ロゼッタが来客を告げた。また八汐海翔だった。
『荷物をたくさん持っておられるようです。スキャンしますか?』
「しない。通して」
 何を持ってきたのかは知らないけれど。別にもう、どうだっていい気分だった。彼はこんな似合わない、まだ腐っていなかった頃の、くまも虚弱体質もなかった頃の、ただただ母に憧れていた頃の純真なレースの布地をどう思うのだろう。
 八汐海翔は上がってくるなり、こなの姿を見てこう言った。馬鹿にするでもなく本当の本気で不思議そうなトーンで。
「こなちゃん、何で全身にカーテン巻いてんの? 新しい防寒?」
「田舎者の美的感覚テラヒドス」
 怒る気すらしなかった。この甘やかな衣装さえ、彼にとってはホームセンターのレースカーテンと同じらしい。そんなことより、とさりげなく八汐は聞き捨てならない台詞の上塗りをする。
「長丁場になるかもと思ってたからさー、実はジュンちゃんにご飯のおすそわけ頼んどいたんだよね」
「な、なんという厚かましさ……! さすがのフラウちゃんもしびれるか憧れるかと言われたら微妙なレベル!!」
「いや、あそこの三兄弟『キルバラ』大好きでね。先生、今日神様にご挨拶に行くんだけどって言ったら喜んで手伝ってくれたよ。ジュンちゃんは元々、神代さんにあんまり何もしてあげられなかったって気にしてたから、嬉しそうに準備してくれたし」
「一級フラグ建築士ですねわかります。爆発しろ」
 それはそれとして、開けられたタッパーから漂う香りは、ろくなものを食べていないこなの胃を刺激して。死にたい気分だったのも忘れて、はううと恍惚の声が出てしまう。八汐はにやにやと笑いながら、大徳に分けてもらったのだろう、紙皿を準備していく。
「ここは鹿児島だけど、ジュンちゃんは沖縄の料理も得意みたいでね。本当に上手なんだ」
「な、なんという裏山……!!」
「――だからさ」
 八汐は割り箸で、行儀悪くこなを差して。眼光は鋭く、笑みは獲物を見つけた猛禽のように。
「腹が減っては何とやら、でしょ。その弱気どうにかしてもらわないと、俺、君と戦うモチベが上がんないの。ここまで俺を見てきたんだから分かるでしょ? 神代フラウ」
 そのくせ、声だけが仔猫を撫でるみたいに優しくて。だから、こなも箸を豪快に割り、こんなの厨二病以下の小学生だと自覚しながら、双剣のように構えて笑う。
「これで勝つる……! 空手先輩は俺の嫁!!」
「そうそう。それでいいって」
 八汐は苦笑を返して、味付け濃いのが多いから白くて綺麗な服はやめなよと、まるで紳士のようなことを言った。カーテンとか抜かした口で。
「さ、さすが八汐先輩――いやUMISHO。全俺を泣かすことにかけては右に出るものはいない。デュフフ」
 褒めてさえくれなかったのに。気だけ遣って。結局は、何にもならない優しさのような淡さ。まるでこの生地に透ける光のよう。
「ポエム乙」
 自分で自分を笑って。上から適当な服を被って、ワンピースが汚れないようにして。二人で胡坐をかいて、料理をかっ込む。
 ねぇパパは、この服を着たママをどう愛したの? ママはこの服でどうやってパパを愛したの? どんな気持ちで、私を幸せそうに抱き上げてくれたの?
 まだ分からないから。貸しておいてくれる?
「わ、私、高校出たら本格的に……『ガンヴァレル』の二期、作る」
「へぇ、また何で急に? 一応終わったんじゃないの、あれって」
「あれは、ママが望んだ『ガンヴァレル』じゃないし……『キルバラ』はどこまで行っても二次創作、だから。正統続編、澤田きゅんにかけあって、作らせてもらう、予定。スタッフももう、集めてて」
「今度こそ大丈夫な連中なんだろうね?」
「う、裏切られコンビが始めたプロジェクトだからそう言われますがな! でも今度こそ絶対、やるといったらやります、『こご~りこな』は!!」
「あは。君は名前が多くて大変だね」
 八汐は箸を止めて、ゆっくりと一度瞬きをした。
「――喜ぶよ。アキちゃんも、ミサ姉も」
 こなは歯噛みして、正座した太腿をがりがりとかく。
 ママ。着慣れないフリルもレースも、私の肌にはまだ痒いの。けど貸していて。解るまで。これを着て微笑んでいたいって思える日が来るまで。そうしたら私これを脱いで、自分のためのワンピースをきっと買う。
「別に、瀬乃宮姉妹のためじゃねえですし。世界中の『ガンヴァレル』ファンに、まだゲンキくんとロゼッタたんは戦ってるって、示してやりたいだけですし」
「そう。じゃ、俺たちもそろそろ戦う?」
 八汐はポケコンを取り出した。まだ料理は食べ終わっていないのに。
「ほら、まだ食べ足りないけど。勝利の祝宴の分も残しておかなきゃじゃない?」
「おべんとつけてカッコつけとか大草原不可避」
 笑う八汐の頬から、炒めた豆腐のかけらを取ってやって。さりげなく見えるように自分の口の中に押し込んで、指先の感覚を口唇で確かめて。
 ――さぁ。古郡こなは一度お休み。神代フラウを起こそう。
 ウェットティッシュで指を拭い、乾いたティッシュで二度拭きすると、彼女は彼を威圧的に見上げる。
「か、神に挑む覚悟はあるかね。少年よ」
「誰に口を利いてんの、神様。――俺は世界の頂点を極めた男だよ」
 彼も邪悪にして純粋な笑みを返して、それでいい。
 脱ぎ捨てた古いジャージ。翻る白いワンピース。無造作ないつもの彼のシャツ。
 鳴り響く電子音。その開始のシグナルは、何度聞いても飽きることなく。