壊れたオリジナルデータ

 和久井修一の姿が消えた後も、澪はしばらく宮代の暮らしていたトレーラーハウスの前に座り込んでいた。
 雨音が耳障りに鼓膜を震わすけれど、苛つく余力もない。冷えた四肢を持て余したまま、じっと天を仰いでいる。
 ここはあくまで『公園』で、『これ』はあくまで『被災者が住んでいた仮設住宅』 だから見逃されていただけ。そうでなくとも、宮下公園の『一斉整備』の動きは活発化しているというし、この家を模した車もじきに撤去されてしまうのだろう。
 少年がここにいた時分には一度も足を踏み入れたことのない、内部にちらと目を遣る。
 きっと自分のように自堕落な生活ぶりだったに違いないと想像して、少し笑った。
「久野里さん!」
 聞き飽いたような呼び声に顔を動かす。
 駆け寄ってきたのは神成岳志だった。あまり高くはなさそうなスーツをしとどに濡らして、いつも跳ねている髪も雨を含んでべったりと寝てしまっている。
「ッ、の、バカ!」
 その必死の形相と、身も蓋もない罵倒に、澪は小さく肩をすくめた。
 間違いない。今度は、『本物』だ。
「こっちは慌てて仕事切り上げて病院駆け込んだってのに、よりによって『俺と』出ていったってどういうことだ!」
「……説明するから怒鳴るな。頭が痛い」
 澪が大袈裟に首を振ってみせると、神成は喉仏を上下させて続く言葉を飲み込んでいた。微かに舌打ちをして、澪の右の二の腕を掴む。
「とにかく、病み上がりならなおさらこの雨はよくない。送ってやるから早く風呂に入って、身体をあたためろ」
「そうするかな」
 軽口を叩くのも面倒で、澪は引かれるまま『神成岳志の車』に押し込められた。内装は先刻乗ったものと比べて違いが分からないほどだが、この独特の『どこか神経質そうな匂い』までは再現が足りていなかったな、と改めて感じる。
「シートが濡れるが、いいのか」
「そんなのはいい。それより、これ。頭とか少し拭いておけ。これも、冷えないように」
 神成は、タオルや薄手の毛布を後部座席の下からぽんぽん出してくる。用意がよすぎて若干気持ち悪い。澪は深く息をついて、助手席の背もたれに身を沈めた。
「救急セットは?」
「怪我を? あんたの足元にプラスチックの箱があるだろう。応急処置はそれで出来るけど、また病院に戻った方がいいのか」
「そんな大事じゃない。いいから早く帰らせてくれ」
 神成は何か言いたげに視線を向けてきたが、結局黙って運転席に納まった。
 車中では、澪はぽつぽつと事の顛末を語るのみだった。しかし要点を摘んでしまえば大した話でもない。神成は短い相槌と極めて事務的な口調の質問を挟むだけで、特段感想らしきものは口にしなかった。
 アパートの前に着いたとき、神成は珍しく少し躊躇いがちに、車を降りようとする澪を呼び止めた。この頃は随分無遠慮に呼ぶようになったと思っていたのに。
 澪の顔を見ないようにしばし視線を彷徨わせると、神成は懐から小さな直方体を取り出す。USBフラッシュメモリだった。
「バックアップのないオリジナルデータだ。見ても見なくてもいいから今日中に破棄しろ」
 こちらの手に強引に押し付けると、お大事にとぶっきらぼうに残して、追い出しにかかってくる。澪も食い下がる理由がないので、どうもとよく分からない言葉を残して車を出た。
 風呂に入り、着替えてそのフラッシュメモリをPCに挿してみる。
 中身は一つだけ。色もそっけもないテキストファイル。
 抽象的だが明らかに宮代や澪のことだと分かる日記だった。日付は『最後の上映』の日から始まり、だんだんと日時に関する記述は消えていっている。
 青年の茫漠たる思考は、ただ乾いた文字列として綴られゆく。

 

『少年がある少女の幸せを願い、別の少女もまた少年の幸福を痛いほど願っている。たったそれだけのありふれた望みさえ、自分には叶えることが出来ない』

『勇気を出して告げてしまえと簡単に言えてしまう関係なら、自分もきっとまだ大人ぶっていられたのだろう。そうでない運命が、今はただ悔しい。「運命」という言葉で責任を回避することすら、本来嫌っていたはずなのに』

『もっと身勝手になってくれと、何度叫びそうになったことか。あの意地でさえ彼らの精一杯の身勝手だというのに、その先を強請るのは最早自分の身勝手に他ならない。大人になったと勇んで臨んだ自分に出来たのは、結局今度も見ていることだけだったのだ』

『諦めろとも焦がれ続けろとも言えない。自分はあの二人に相反する願いを抱き続けている。この先恐らくは二度と重ならない道の向こうで、何かが起こらないかと未練がましく足掻いている。何が幸福なのか、どうなってほしいのかも明確に分からないままで』

『ただ苦しい。この苦しみでさえ彼らには他人事に過ぎないとしても、自分はただ断絶の向こう側で、途方に暮れるほどの痛みを抱えて立ち尽くしている。彼らは身を裂くほどの痛みにも顔を歪めず、真っ直ぐ前を見据えているというのに』

『ひとを想うことの尊さと理不尽を。この歳ですら納得しかねる不条理を、どうして彼らだけが、あんなかたちで思い知らされねばならなかったのか。街行く笑顔の若者を見るにつけ、何の落ち度もない彼女たちから、不意に目を逸らしたくなる』

『認めよう。恋でも愛でもないもので、自分は彼と彼女を好いている。肩入れしている。立場的に許されるものではないほどに、公平以上に扱っている。それは正しくはないのかもしれないが、間違っているとは誰にも言わせたくない』

『清濁を併せ抱いたこの嘔吐しそうな混沌の中で、俺はなお君たちが好きなのだ』

『伝わらなくても構わない。ただ想わせてくれ。守らせてくれ。この力の及ぶ限り、どこまでも。いつまででも』

 

 読み終えたとき、澪は天井を仰いで、肺中の空気を吐き切ることしか出来なかった。
 神成岳志は『再来』において、当人に言えば真っ赤になって否定するだろうが――実に優秀な狂言回しだった。和久井が今回の騒動で、その役を踏襲しようとしたのはある種必然である。
 だが、澪があの『妄想の箱庭』の中で、『この神成岳志は偽物だ』と断定したのは、そのせいではない。宮代に関する発言の齟齬だけなら、本人がそう思い込まされているという可能性を排除しきれなかったろう。
 しかし、『あの神成』は、『二人きりのとき澪を一度も叱らなかった』。
 倒れた澪に付き添ったときも、「良かった」と言うまではまだしも、「そんな体調で配信なんかするんじゃない」とは一度も言わず。「何もかもすまない」と言ったときも、笑って流した。「ああ本当だ、すまないと思ってるなら次から気を付けろよな」と嫌味のひとつも言わなかった。
 神成岳志は、和久井修一が表層をなぞるよりも、もっと狭量で子供っぽいのだ。だからこそ大人を取り繕うのだ。あの青年は。
 割り切ったような顔をして、他人の痛みを我がことのように請け負ってしまう癖が抜けないから、あの男は間抜けにも『警官』なんぞを続けていられるのだ。己の為だけでなく、他人の為に怒る余力を残しているから。
「お前が神成さんを『妄想シンクロ』に入れなかったのは、結果的に失敗だったんだよ。和久井」
 神成岳志に不自然を感じなければ、澪ももう少し長くあの世界に騙されていたかもしれないのに。
 否。あの男は、きっと内側からでも『その不自然』を指摘する。悪ぶっても潔癖の抜けない青二才。『好都合』も嫌いではないだろうが、最後には笑いながら『正しさ』を選ぶだろう。
「詰みだったんだ。……私が宮代をどう思おうが、想うまいが。あいつを軽く見積もった時点で、お前は詰んでいた」
 澪も、宮代も、神成も。和久井の思惑に乗るような半端な覚悟で、ここにはいない。
「あいつはお前が思うほど真人間じゃない。壊れてるんだ、もっと、ずっと」
 神成はこれを澪に見せるつもりで持ち歩いていたのではないはずだ。むしろ誰にも見せたくないから肌身離さず持っていた。
 それを渡して、破棄しろと言うのなら。ここに綴られた感傷すら、己の内に織り込んだのだと。
「……馬鹿なやつ」
 澪はフラッシュメモリを滅茶苦茶にした。読み取り部も記憶チップも何もかも。どうあっても復元が出来ないように。今の神成岳志に上書きが出来ないように。
 本人が不要と判断したこのデータを壊した。
「馬鹿なのは、私もだ」
 喚き散らしたいほど苦しいのに。これでよかったんだと、確信して安堵している。
「宮代も、馬鹿だ」
 あのぬるま湯にもう少し浸かっていたいと。そう名残を惜しんでいたのは、彼などでは決してなかったのだから。
「馬鹿なんだよ……」
 『絵に描いたような幸福』の中でさえ、勘定に入れてもらえなかった少女は、自らの成した行為の正しさも充足も味わうことなく、ただ暗い部屋で膝を抱えていた。
 雨の冷やした総身が熱を取り戻すのはいつになるのだろうか。