これは呪いだと知っていた

 二〇一八年の二月十四日は、神成岳志にとって平日以外の意味を持たなかった。彼らの『ゲーム』の開始日も、当事者でない神成にとっては感傷の契機たりえない。
 ただ例年のごとく、同じ建物に足を運ぶ。
「こんばんは、百瀬さん。今年は義理チョコ禁止令が出たんで、特に何もなくてすみません」
 一人でデスクにいた百瀬克子は顔を上げ、呼び鈴なしで入り込んできた無礼を咎めもせずに肩をすくめた。
「本命を横流しするのはもうやめたわけね?」
「俺が一度だって、そんな薄情な真似をしたことがありますかね?」
「よく言うわ。毎年、気付かないふりしていくつか置いていったでしょ」
 知ってて食べた百瀬さんだって、と言いかけてやめた。墓穴を掘るだけだと思ったし、卑怯な逃げに責任があるのはどう考えても自分一人だ。
「まぁ、最近は逆チョコってやつもあるらしいので」
 神成はデスクに歩み寄り、百瀬の眼前に小さな黒い紙袋を置いた。光沢のある表面は、蛍光灯の色を照り返して白いまだらにも見える。
「俺からです。和菓子屋の作ったチョコで、緑茶によく合うそうですよ」
 百瀬は感情のない目で神成を見上げてから、差し入れとして受け取っておくわね、とただ口の端を持ち上げただけの笑みを浮かべた。
「百瀬さん、ここ何年も、コーヒーばかり飲んでますね。コーヒー党の久野里さんが来る前からずっとだ。いなくなってからも」
 神成は立ったまま、事務机に載ったソーサーの縁を、剥き出しの指でなぞった。ひやりとした陶器の感触。
「俺、茶を淹れるのが上手いって褒められたことあるんですよ。適温だって。ちょっと冷めるように、一度自分のカップを経由して湯呑に入れてましたからね。洗うのも面倒だから、マグカップで出涸らしの緑茶ばっかり飲んでた」
 百瀬の視線は指先を追ってはいなかった。神成の顔を注視していると、目を伏せながらでも感じていた。
「もう緑茶は飲まないんですか?」
 ――答えがないのは、困惑ではなく批難なのだろう。
 神成は百瀬の表情を確かめられず、短く笑った。
「あれ、やっぱり俺じゃ若すぎますかね。もうすぐ追いつくはずなんですけど」
「そういうことは、警部補になってからおっしゃい。神成巡査部長」
「……手厳しいな」
 ゆっくりと手を引き、一歩後ろに下がった。
 本気ではない本音は白々しく冬の室内を乾かす。
「フラれちまいましたし、今日は帰ります。百瀬さんもあまり遅くならないうちに」
「ええ。ありがとう」
 ふくよかな頬に愛想笑いが沈む。
 いつ来ても彼女はここにいる。帰る家などあるのだろうかとぼんやり思いながら、神成は入り口のドアから出て行った。
 いつも女社長の怒号が聞こえていた猥雑なたまり場は、ある頃を境に子供でも立ち寄れるような清潔感のある事務所へと変わっていった。
 毎度応対してくれた事務員の女性もいなくなり、社員はみな留守がちになった。
 ずっとそこにいるひとの手にする器は、湯呑からコーヒーカップに変わった。
 神成は冬空の下を行く。俯きがちに。
 警察官は殉職した身内を決して忘れない。
 だが『先輩』が逝った直後にはあまりに人が死にすぎて、事件とも認識していない同職も多い。そもそも『先輩』のことを知らない後輩も増えた。
 ギガロマニアックスは、妄想を他人と共有することで『現実』にするという。
 ならば誰とも共有されなくなった現実はいずれ、
「殺人罪の時効は撤廃された。逮捕だけじゃない……必ず起訴に持ち込む。有罪にする」
 無人の夜道でこぼす宣言は、承知する相手もなく霧散する。
 自分の声を、自分で聞いた。それだけだ。
 『先輩』の名を呼んでみた。一人で。独りで。そしてひとりでに。
 彼女からは、好意も同情も要らなかったのだ。
 ただ一言、あなたがいる限り忘れられないわと、どんな調子でも答えてほしかった。
 共に覚えていることを確かめさせてほしかった。
 それは呪いだと、本当はちゃんと知っていたのに。