針はなくとも時計は動く

「知ってますか、百瀬さん。コーヒーを飲んでるとね、吐いても口がまずくならないんですよ」
 神成岳志はコーヒーカップを手に呟く。二十歳ちょっとの青年の口調は、野菜を長持ちさせる方法でも教えたように無造作だった。
「コーヒーを飲みすぎるから吐くんじゃないの?」
 険ある声で笑えば、覇気のない笑みが返る。
「ただの胃液より、香りのいい方が楽なんです。すぐに動けるんで」
 自分がどれだけねじの外れたことを言っているのか、全く理解していない顔だった。きっと今指摘したところで、坊やはきょとんとしたまま聞き流してしまうだろう。
 百瀬は青年から視線を外し、パソコンのモニタを冷たく見つめる。
 ――持つかしら、この子。
「ああ、でも」
 青年も百瀬を見てはいなかった。目を閉じて、嘔吐の香料と呼ばわった液体の匂いを嗅いでいる。
「ここで飲ませてもらったやつは、なんでかほとんど吐かないです」
「……あんた、それ全然褒めてないわよ」
 思わず目許が緩んでしまう。
 やはり青年は狂ったことを言っている自覚も、追従を言っているつもりもないのだ。
 彼が自分だけの基準を見失わずにいるうちは、お湯で薄めたコーヒーも黙って出してやろう。
 ばかになり始めた舌が元に戻ったって、あーたに出してやる飲み物なんてそれで充分、と突っぱねてやればいい。
「踏ん張りなさいよ」
 百瀬が何に対して告げた言葉かも知らずに、はいと青年は無垢に笑った。

「ああくそ、やっぱり出ないか……猫の世話代ぐらいは働けよな、まったく」
 神成岳志は固定電話の受話器を叩きつける。三十近くなった青年は、相も変わらず信用調査会社に入り浸っている。
「どうしていつもうちから澪ちゃんにかけるわけ? 自分の携帯があるでしょうに」
 言外に『警察に登録していない方の』と更なる法規違反をつつけば、だってと反省の色もない答えが返る。
「俺の携帯からだと絶対出ないんですよ、あいつ。こっちの方が打率高いんで」
 どうするかなー、と眉を下げて頭をかく割に、瞳はさほど困っているようには見えない。アテが外れたときの再計算が恐ろしく速いのだ。本人はその半分ほどしか自覚していない。
 既に式を書き換えたらしい青年は、もうデスクの電話機には視線もやらない。
「すみません。彼女が折り返してきたら、『俺の携帯にかけるかクロの餌代を振り込むか決めろ』って伝えてください」
「いいけど。コーヒーは?」
「あー、その。今日はいいです」
 百瀬の問いに、青年は眠そうな声で言った。
「ここんとこ、飲みすぎると口の中がまずくて。タバコやりすぎた後みたいになるんですよね。歳かな」
 思わず目許が引きつってしまう。
 こいつ。ずっと年上の女性の前で、歳を自虐するとはいい根性だ。しかも煽ったつもりがないから始末に負えない。
「また来ます! もうすぐ桜フェアが終わって初夏限定が出る頃だと思うんで、また目ぼしいのチェックしときますから!」
 厚かましいのだか細やかなのだか分からないことを言いながら、青年は脱いでいたジャケットを引っ掛けて飛び出していった。
 百瀬はため息をついて窓の外を見遣る。
「とんでもない子を遺していってくれたもんね、あんたも」
 もういない男がついぞ買ってこなかった、小洒落た和菓子の箱を撫でる。
 ――そろそろ、あの子も緑茶でいいのかもね。