Nameless

「ねぇルカ。私は誰だと思う?」
 問いかけると、ルカはベースの手入れを中断して私を見た。
「いきなりどうしたの、ミク」
「どうもしないけど」
 私の両耳からはイヤホンのコードが垂れている。聴いているのは、一歌が置いていった――いや、一歌がセカイにも置いておきたいほど大好きなCD。
 【初音ミク】のCD。
「一歌が私のこと、『ミク』って呼ぶのがなんだかおかしいなと思って」
「そう? なにが?」
 ルカは細い眉を微かに寄せて首を傾げた。私は緑のチョークを手に取り、黒板に【初音ミク】と書く。一歌のCDの枚数だけ正の字を書いていく。
「ほんと、【初音ミク】ってばかみたいにたくさんいるんだよね」
 一歌はこんなにたくさんの【ミク】を知っているのに、『私』と同じ姿と性格の【ミク】はどこにもいない。あの子たちは何をもって私を『ミク』だと認識しているんだろう。
 名前? 顔? 声? ツインテールってだけ?
『ミクはすごいね』
『どんな風にでも、なれて――』
 あの子が呼ぶ【ミク】は私じゃない。私は私だ。一歌が瞳を輝かせて語る【ミク】を、私は知らない。
 恋をしているミク。死にたいミク。お姫様のミク。村娘のミク。桜色のミク。雪の色のミク。満ち足りたミク。乾ききったミク。
 誰でもない、(ミク)
 私はイヤホンのコードを右手で握り、ぐっと下に引いた。のびやかな歌声が両耳から遠ざかっていく。痛みと違和感だけを残して。
「おかしいかな。一歌がまっすぐな目で『ミク』って呼んでくれるのを、私はずっと待ってたような気がする」
 一歌が呼んでくれるまで、私はずっと怖かった気がする。きっとあのとき、私はやっと『ミク』でいていいのだと認めてもらえた。
 ルカは丁寧に拭き上げたベースを壁に立てかける。
「私たちが息をしているのは、あの子たちの想いのセカイだものね」
 諦めたような念を押すような口調だった。ルカの白い手が、隣に置いてあるギターを撫でる。何度か一歌にも弾かせてあげた、私のギター。
「拗ねてるのかしら。あなたにとって『一歌』はたった一人の存在なのに、一歌にとっては自分がたくさんの【ミク】の一部でしかないんじゃないかって」
「別に、拗ねてるとかそういう子供みたいな気持ちじゃなくて」
 とっさに反論しかけて、途中で何も言えなくなった。
 肩を落として、両手を握る。握った両手を目許に押し付ける。
「一歌たちと歌うと楽しいの」
「そうね」
「でも私は、Leo/needにはなれない」
「ええ」
 私が一歌たちと並んで演奏できるのはこのセカイだけ。『本当』が君を取り囲む世界では、私はちっぽけなホログラムにすぎない。君が『本当』の想いとともに生きていく世界では、私は『本当』じゃない。
 《行かないで》と手を伸ばすことも、《ヘタクソに強がる》こともできずに、《許されない》《願い》をただ抱いている。《一〇年後》には消え落ちている《魔法》の中で、《エンドロール》まで《手を》繋いでいたいと叫んでいる。《不甲斐ない》《未完成》な私。
 ――『私』だけの切実な想いも、喉を通れば【ミク】のことばに変わってしまう。歌えば歌うほど、訴えれば訴えるほど、『私』の言葉は一歌の憧れた【ミク】に奪われてしまう。
 一歌と一緒に歌ったのは私なのに。
 繊細で力強い、涼やかで情熱的な歌声を、隣で支えたのは私なのに。
 視線を交わして、音でじゃれあって、同じ星空を見たのは。
「私、こんなセカイ、本当は――」
 その先は勢いでも口にできなくて、みっともなく喉を詰まらせた。
 ねえ一歌。君たちの願いが全て叶ったとき、本当の想いを見つけ終えたとき、このセカイはどこへいくのかな。
 そのとき私は、君の呼んでくれた『ミク』のままでいられると思う? あの【電子の歌姫】の一部なんかじゃなくて。
「ルカ。……今の話、一歌たちには」
「言わないわ。あの子たちにいつも笑っていてほしいのは、私も一緒だもの」
 ルカの声が乾いていたから、私は顔を上げることができた。
 薄明るい教室をぼうっと見回す。
 ここでは授業が行われない。どこにも出ていかない私たちが、誰かに教わることは何もないから。
 私は肺の中身を全部吐ききると、めいっぱいの笑顔をルカに向けた。
「そろそろメイコを呼んできてくれない? 私はリンを探してくるから」
 ルカは何か言いたげに頷いて、けれど黙って教室を出ていった。
 私は一歌が大事にしているCDを抱え、廊下に出る。指先で窓を開けて、両手いっぱいのCDを外に全部落とした。たくさんの円盤たちが、ばらばらと光の中に吸い込まれていく。地面に叩きつけられる音はしない。振り返らなくたって、どうなったかは知っている。
 廊下に座り込んで、壁に額を押しつけた。常に適温のこのセカイで、少しでも冷たさを感じるために。
 教室の机には、何事もなかったようにまた【初音ミク】のCDが積み上がっている。