今はまだ君だけのスター

「咲希、起きたか。具合はどうだ?」
 あたたかくて少し乾いた指が、咲希の額にかかった髪を払っていく。
 ――なんでお兄ちゃんがアタシの部屋にいるんだろ。
 ぼんやりと瞬きをして、咲希は自分の握り締めたスマートフォンに視線をやる。
『今家を出たぞ』
『電車に乗ったところだ』
『ひとつめの停車駅で買ったジュースがうまい』
 メッセージアプリにほぼ一定間隔で続いている短文。
『病院に着いたぞ』
『エレベーターの中だ』
『部屋の前だ』
『ドアを開けるからな』
『今お前の隣で本を読んでいる』
 と、都市伝説じみた終わり方をして、そのとおりに兄はベッドの脇に座っていた。
 ――そうだ。アタシ今、入院してるんだっけ。
 起き上がろうとすると、ゆっくりでいいと兄は慌てて咲希の背に手を添えた。大胆不敵なようでいて、咲希に接するときは時折ひどく遠慮がちになる。まるで強く力を入れたら割れてしまうガラスみたいに扱うから、咲希は兄の指先の方こそ痛々しく感じるのだ。
 咲希は首を振って眠気を飛ばし、めいっぱいの笑顔を兄に向けた。
「さっきまで眠って充電してたから、元気だよ! 来てくれてありがとう」
 兄はぎこちなく笑って、今日は来られない母からの言伝を二・三告げた。咲希はもう一度礼を述べ、兄の手元を覗き込む。
「何読んでたの?」
「これか? 昔からある戯曲だ」
 オレンジ色の文庫本には、咲希もよく知っている劇のタイトルが書いてあった。兄にはあまり似合わしくなくて、布団を引き上げて口許を隠す。
「お兄ちゃんも意外とロマンチックなの読むんだね。『ロミオとジュリエット』なんて」
「ロマンチックなものか! このロミオって男はろくでもないぞ」
 兄の調子が戻ってきた。咲希は微笑んで、ふむふむと頷き身を乗り出す。
 兄が再現混じりに教えてくれたところによると、ロミオは元々ジュリエットとは別の女性を想っていたらしい。しかし彼女はロミオを相手にしない。ロミオは報われない恋の気晴らしに舞踏会へ忍び込み、ジュリエットと出逢って惹かれ合う。
「えー⁉ じゃあ最初の女の人のことはどうなるの?」
「どうにもならん。『ロミオとジュリエット』だからな。ジュリエットももっとマシな男を選んでいればこんなことには……む? それなら、別のロミオたちが真のロミオの座を懸け全力で決闘! 勝ち残ったロミオの中のロミオ、ロミオ・オブ・ザ・ロミオこそがジュリエットに相応しい! というシナリオも……」
 会話の途中で、兄はショーの構想モードに入ってしまった。咲希はベッドの上で膝を抱えて兄の顔を見つめる。
 今はショーが恋人の兄も、やがて恋する人と出逢い他の場所に旅立つのだろうか。想像は上手くかたちにならない。けれど妹の世話に時間を費やす日々よりは兄のためになりそうだ、早くそんな日が来ればいい、と咲希は視線を彷徨わせた。
「お兄ちゃん。もしカノジョさんを選ぶときには、きっと――いっちゃんみたいにやさしくて、ほなちゃんみたいにあったかくて、しほちゃんみたいにかっこいい人にしてね」
 わがままな妹でごめんね。でもみんなぐらい素敵な人なら、アタシも心から『おめでとう』って言える気がするんだ。
 咲希は痛む胸を両手で抑えつける。
「何の話だ、いきなり?」
 兄が思いきり怪訝な顔をした。笑い話にしたいのに喉が上手く開かない。咲希は俯いて、なんでもないよとそれだけ絞り出した。
 兄は短いため息をつき、後頭部を包み込めそうな手で咲希の髪をそっと撫でた。
「まあ、スターたるオレの恋人候補なら、それに加えて咲希と同じぐらい前向きで、オレと同じぐらいショーが好きな人間でなければならんな」
 咲希の口唇から震えが消え、代わりに笑みがこぼれた。
 そうだった。兄は『未来のスター』だから、いつか誰かの手を取るときも、キラキラと輝いている人を選ぶはずだ。『ファン』を決して悲しませない、優しくてあたたかくてかっこよくて、たくさんの夢を見ている努力家のパートナーを。
 白い布団の上に、くたびれた文庫本がぽんと置かれる。兄が突然咳払いを始める。
「んっ、んっ! あーあー! うむ、なんだか猛烈に読み合わせをしたい気分だ。咲希、体調がよければ黄色の付箋のところから、ジュリエットの台詞を読み上げてくれ。落ち着いて小さい声でいいぞ」
「はぁい」
 白い個室の中に、兄のよく通る声が響く。どんな部屋も兄にかかればまばゆいステージだ。
 兄は愉快なアドリブと大袈裟な動きを織り交ぜて、ロミオとその他の台詞を諳んじる。咲希はジュリエットを演じる合間に笑って手を叩く。
 こんな風な喜劇であってほしいと切に願った。
 これから先、兄が自分だけのジュリエットと同じ道を歩むときも。