遠すぎる背中

 シグルドの、一年間のアグスティ駐留が決まってより数ヶ月。
 彼と共に王都に留まることにしたラケシスは、ただ座しているのも時間の無駄と言い放ち、それぞれの分野の師を見つけて、マスターナイトとなるための鍛錬をしていた。
 炎魔法はファラの血を引くヴェルトマーの公子アゼル。彼女の師の中でも、一等丁寧で分かりやすい指導をする者だった。
「ラケシス姫は、筋がいいですね。すぐに僕なんか追い越してしまいそうだ」
 よく晴れた日、城の前の草原での鍛錬中。
 アゼルが微笑むので、ラケシスは肩をすくめて苦笑した。
「ご謙遜が過ぎますわ。それに私、あまり褒められすぎると張り合いがありませんの。アゼル公子は、もっと至らぬところを叱ってくださってもいいのに」
「そう、ですか」
 曖昧な表情でアゼルは答える。彼の周囲の精霊が落ち着きをなくしたのが分かる程度には、ラケシスも感知の技能を上げている。アゼルは目を伏せて、力なく笑った。
「それは多分、僕が――僕自身が、褒められたかったから。そういう邪心を持って魔道に取り組んできたから、そういう指導になってしまうのだと思います。ご期待に沿えず申し訳ありません」
「いいえ。私の気性の話をしただけですから、お気になさらないで」
 ラケシスは微笑み返して、つと一歩、シルベールの方角へ踏み出した。アゼルの乱した精霊を、拙いながらまとめようとする。
「兄君がお嫌い?」
「いえ、嫌いというのとは……兄は僕には優しかったですし。尊敬もしています。ただ、少し」
 遠すぎて。風に消えそうな声で、アゼルは呟く。そうですわね、とラケシスも遠い砦に視線を遣る。
「偉大な兄というのは、時に枷のように重いものですね」
「それでも、ラケシス様はこうして、兄君に追いつこうと努力なさっている。目を逸らして逃げただけの僕には、真似の出来ないことです」
 自嘲する響きが寂しすぎて。ラケシスは振り返ると、アゼルの眼前で小さな炎をぱんと炸裂させた。今はこれが精一杯。でも、こうしてアゼルを驚かせて、俯いた顔を上げさせることぐらいは出来る。
「私、追いつこうなんて不遜なこと、考えたこともありません。兄は聖戦士の直系。私は半分しか血の繋がらぬ妹。むしろ劣っていない方がおかしいぐらいですから」
「では、どうして、毎日鍛錬を怠らず?」
 やはり兄と半分しか血の繋がらぬ弟が、恐る恐るといった風に訊いてくる。決まっています、とラケシスは即答した。
「向かい合うためです。興味を惹くのではなく、その誤りを真正面から糺すために」
「……お強いのですね、ラケシス様は」
 アゼルが似合わない皮肉を――本人には皮肉であるという自覚すらないのかもしれない――吐くので、ラケシスはやわらかな金髪をゆるゆると振り、それからしっかりとアゼルを見据えた。
「強くなんてありませんわ。ただ私、自分が『弱く在るのが許せない』だけです」
 不敵に笑ってみせる。目を丸くするアゼルに手を伸ばし、胸に軽く触れる。
「兄の背は今も遠いままです。けれど必ず、距離を詰めてみせます。私の声に耳を傾けてくれるところまで。兄が絶対に正しいなんて盲目に、いつまでも溺れていられるほど乙女ではありませんもの」
 全身に血潮を送る心の臓に、熱をともすように精霊を集める。
「私の魔法の師は、アルヴィス卿には務まりません。同じ痛みを抱く貴方ですから、はねっ返りの私でも、教えを乞おうと素直に思えるのです。ですから、どうかその力を私にも授けてくださいな、先生。貴方が胸を張れる弟子に、私もなってみせますから」
「それは、光栄だな」
 アゼルは苦笑して、ラケシスの指先を握った。送り返されてくる更なる熱。
「そうしたら、僕にも初めて自慢の種が出来そうだ」
「よかった。じゃあ授業を再開しましょう?」
 ダンスのように優雅に離れて、二人は師と弟子に戻る。
 遠すぎた背中のことなど、今はいい。進みさえすれば、自ずと視界に入る。それだけのことだ。今は眼前の、踊る炎のことだけ考えよう。