その国の翼

 緑の髪の少女が、眩しそうに天を見上げていた。ベグニオン王宮に留まっている彼女は、雇った傭兵団の留守中、神使に呼ばれていないときはああして中庭で空を見ている。まるで焦がれるような眼差しで。
 シグルーンは翠の髪を揺らし、少女に近づいた。
「どうかなさいまして? エリンシア姫」
「シグルーン様」
 少女はゆっくりと振り返り、面映そうに微笑んだ。
 その少女がベグニオンにやってきたのは、自らの祖国を失ったからだった。人として同情すべき理由ではあるけれど、シグルーンは国家の従僕として特別彼女に肩入れする義理がない。
 国境侵犯という行為そのものは全面的にデインが悪いが、国防に力を入れなかったクリミア側も危機感が足りていなかった。アシュナードは狂暴だが狡猾な王である。勝機のない戦いはしない。デインがその蛮行に踏み切ったのは、クリミアの軍事力は小鹿のように頼りないという事実を確認したからだ。
 クリミアに手を出すことは、後ろ盾たる宗主国をも軽んじる行為――すなわち頭越しにベグニオンへ喧嘩を売ったのと同じこと。クリミアさえしっかりしていたのなら、無用の戦いは起こらず、ベグニオンは侮辱を受けることも厄介ごとを引き受けることもなかったかもしれない。
 ただでもクリミアは、デインと結託してベグニオンに反旗を翻した歴史がある。あの王女自身に責はないとしても、今の状態が彼女の親類の不手際だというだけで、ベグニオンにとっては疎ましいことだった。
 だがシグルーンは、それを声に出して喚き立てるほど無分別な女性ではない。そんな純粋な娘の時代は過ぎ去った。
 主たる今上神使サナキが彼女を支援すると決めた、シグルーンにとってはそれが全て。
 敢えて私情を交えるならば、ひとつだけ。高らかに唱えた理想を、現実で補強することを怠った王が遺した、あまりにも普通すぎる小娘のことを――憐れだと、胸の内で密かに思う。
「いえ、その……ご承知のことかもしれませんが、私の曾祖母は、ベグニオン聖天馬騎士団の出だそうなので、勝手に聖天馬騎士団の方々に親近感を抱いておりました。こういう言い方は、不敬に当たりますでしょうか?」
 少女は風に揺れる髪を押さえて答える。
 愛想笑いを浮かべて、他人の顔色を窺いがちに話す少女だった。隠されて育ったというのだから、隠れるように育つは道理。その点に関してもシグルーンは同情をするのみである。こちらもゆったりと微笑み返す。
「いいえ、少しも。そうでしたわね、そのような事実もございました」
 少女の曽祖母ということは恐らく、先代神使ミサハの即位前の話であろう。そうまでなるともう、シグルーンにとってはただの『歴史的事実』である。親近感というほどの情も湧かない。
 あくまで穏やかな調子で続ける。
「姫は、天馬をご覧になったのは初めてですか?」
「あ、いえ。遺された天馬の世話だけは、ずっと、していました。クリミアのお守りのようなもので、それでも乗る者は曾祖母が亡くなって以来なく……あのようにのびのびと空を駆る天馬たちを見ると、あの厩舎はさぞ窮屈だったろうと、申し訳なく思います」
 少女は落ち着いた声で言いながら、少し離れた演練場で特訓中の、歳若い天馬騎士たちを見つめた。
 確かに彼女は人の顔色は窺うし、相手の気持ちも気にしすぎる。だがシグルーンは、この短い時間の中でも、少女が嘘や追従を言うところを見たことがない。臆病だが気の毒なぐらい誠実だった。
 サナキの――ベグニオンの管理下に置くには、ちょうどいい人材だ。この少女はきっと、サナキが恩を売っておけば、それを仇で返すことなどないのだろう。
「エリンシア姫」
 その天馬はクリミアに置いてきたのですよね、と問うほどシグルーンも無粋ではない。右手をそっと差し出し、笑みをつくってみせる。
「私の天馬でよろしければ、その子と同じ景色をご覧になりませんか? 今日は好いお日和ですもの。天空散歩も悪くはないと存じますわ」
「……はい!」
 少女は無邪気に、シグルーンの手を握り返した。
 
 その手の小ささを。

 突き落とされたら死ぬ高さなのに、何の疑いもなく自分に預けられた体温を。

 なんて素敵と呟いた声の幼さを。

 華やいだ笑顔のあどけなさを。

 あの日の空の青さを。

 

 ――何故こんなときに思い出すのだろう。

 

 『導きの塔』の内部は不自然な明るさだった。この塔は一階層一階層が広い。高さもある。シグルーンたちが騎乗したまま突入しても何ら不都合のないほどだ。
 人の手ではまず再現が不可能な構造。まさしく神の御業。女神を讃える大帝国であったベグニオンさえ、いかに矮小で傲慢であったかを、厳粛に知らしめる建造物。
 操り手と皇帝サナキを乗せたシグルーンの天馬は、何か考え込みでもするように静かに控えている。
 真後ろには、光り輝く魔法障壁があった。その向こうでは、全軍を任されたアイクと、ベグニオンの猛将と謳われたはずのゼルギウスが戦っている。シグルーンたちの前方ではグレイル傭兵団と、ガドゥス公の兵であったはずのルベールたちが交戦している。
 見も知らぬ世界の中で、見知った顔たちが刃を交わしているのは奇妙な感覚だった。
 シグルーンには、アイクたちほど詳細な事情が解らない。ただ、もう互いに進むところまで進むより外に仕方ないのだと――それだけはあまりにも明確で、覚悟を決めたはずの胸を深く抉る。
「シグルーン、ゼルギウスは何故……それに、あの傭兵団と戦っている騎士にも見覚えがある。もはや誰を味方と呼び、信じていいのか……」
「……サナキ様」
 シグルーンは、前に乗せたサナキの肩にそっと手を置いた。わずかとは言えぬほどはっきり震えていた。
 歳若きサナキを皇帝たらしめていたのは、本人の努力と矜持とである。経験だけはどうしようもなかった。知識を集めても、なるべく多くのことを見聞きするよう心がけても、生きる年数だけは一足飛びに出来ない。
 サナキは充分に強く、たくましく、誇り高い。神使でないと分かって後も、皇帝として気丈に振る舞っている。それでも、『皇帝』として立派ながら『個人』としてまだ幼いサナキの心が、絶えず揺れ続けているのはシグルーンにも伝わっていた。
 サナキの信じてきた『世界』は今、あまりに脆く崩壊し、柱とも言うべき信頼も既に幾本か折れている。最後の一本となろうとも主を支え続ける心づもりのシグルーンであったが、その前にサナキこそが自重に耐えかねて落ちてしまうのではないかと――ともすれば不敬ですらある憂慮すら抱く。
 サナキを守る、その一念にかけては毫も迷いを感じない。しかし今この状況で、具体的に何を成すことが心ごと主を守るということになるのか、シグルーンも決めかねているのであった。
 害する者を排除する。だがそこにサナキが対話を望んでいたとしたら、先んじて殺してしまうことが果たして将来主の精神に影を落とさないと言えるのか。それでも安全だけを優先し、無常に屠り続けるべきなのか。
 つい先日まで『神使親衛隊長』として大陸一輝いていたはずの天馬騎士は、今や持つ槍の冴えを失っていた。
 突如、背後で何かが激しくぶつかった音がする。はっと振り向く。アイクが吹き飛ばされて結界にぶつかったのだった。しかし彼は前だけを見て、また目の前の男に立ち向かっていく。
「やはりあまり壁際におられるのはよろしくないですね。塔からお出になられませ」
 冷えた声で言ったのは、かつて同じ国を守る同志だった青年だった。あの、柔和で実直であったはずの青年が、まるで様変わりした面構えで立っている。
 サナキがシグルーンの眼前で身を固くする。シグルーンが武器を構え直すその一瞬の間に、誰かが青年と自分たちの間に素早く割り込んできた。
 視界には、純白の翼。鷺ではない。ラグズにしては大きすぎる。しかしタニスもマーシャも内部には入ってきていないはずだった。聖なる天馬を操れる乙女は、他にただ一人。
「騎士殿。これ以上徒らにサナキ様のお心をかき乱すこと、このクリミア女王エリンシアが決して認めません」
 いつかの少女。帝国の威光に縋る為に、這う這うの態でベグニオンに転がり込んだ少女。
 宝剣を霞の構えで、一寸のぶれもなく握り締めて、サナキたちを背に負うようにルベールの行く手を遮っている。
「ご立派な口上を賜り恐縮です、ご婦人。しかしこの期に及んで、国の名前も女王などという肩書きも――意味がない。価値もない。そう在りたいと、散っていくのは自由ですが」
「いいえ、あります。私はクリミアの女王です。石と化した我が民を救う義務と、友となるべき全ての人々を助ける責任があります。今このときクリミアという国が機能していないからこそ、私は女王で在り続けねばならないのです」
 凛とした声で言い放つ。ルベールは昏い笑みを浮かべて、槍を低く構える。
「ならば今、クリミアという国を終わらせて差し上げましょう」
「私を殺すおつもりでしょうが、そう簡単に事が運ぶでしょうか。『漆黒の騎士の騎士』殿」
 感情のない声で告げられた、痛烈な皮肉。ルベールの顔が歪んだのが翼越しに見えた。
「……私はあの方の配下として、塔の内部に入り込んだ異物を排除する。あれほど強く望まれた勝負を邪魔させはしない」
「それには私も同感です。ですから一兵たりとて失わせはしません」
 天馬がふっと前脚を上げる。騎手が手綱を軽く引いたのだ。長い戦装束の裾が白くはためいて。
「あの方にとって勝利とは、単に敵を打ち倒すことではないのです。『誰も死なせない』、それこそがあの方にとって理想の勝利なのです。その妨げとなるものを、私は仲間として――友人として、全力で退けてみせます」
 エリンシア・リデル・クリミア、参ります。
 厳かな宣言と共に、天馬が羽ばたいた。飛び立つ前の隙を狙った槍の穂先を宝剣が跳ね上げ、その勢いのままルベールの頭を越えてエリンシアは宙返りする。得物を梃子のように押されてルベールも身体を反転させられる。サナキたちに背を向ける。
 エリンシアは距離を取り、挑発するようにゆっくりと宝剣の切っ先を上げた。ルベールが体勢を立て直し、猛々しい歩幅でエリンシアに迫っていく。サナキたちから離れていく。
 ルベールは若年で爵位も低いとはいえ、それなりに武勲を挙げた将のはずであった。エリンシアは王女として生まれ、そのうえ王族としての教育も受けていないはずであった。
 だが今、激しい槍さばきの前に彼女は一歩も引いていない。凶刃がその身を斬る前に全てを防いでいる。周囲の仲間が別の使徒たちとの戦いで手一杯の中、誰の助けも請わずに戦っている。
 頼るばかりだった小さな手は、自ら剣を握り締め。天か地に逃げるばかりだった目は、燃えるように相手を見据え。私は何も出来ないからと曖昧に笑った口許を、信念の為に引き結び。
 その苛烈さは、いつかシグルーンの天馬で借り物の空を駆けた少女のものではなかった。
 シグルーンはぶるりと身を震わせる。決して嫌な類の震えではない。
 あの少女は。あの王女は、もういない。主人の意を汲み機敏に動く、あの天馬は最早ベグニオンのものではない。祖の国を、生まれ育った国を忘れ、クリミアの――其の国を守る、翼となった。あの気高き女王を、天高く舞わせる為の。
「シグルーン」
 サナキがぽつりと呟いた。シグルーンと裏腹にサナキの震えは止まっていた。
「あの者は、クリミアの女王じゃな」
「はい」
 サナキは真っ直ぐにエリンシアを見つめていた。シグルーンの大好きな、未来を見定めようとしている目。
「戦っておるのは、元々ベグニオンの民であった者じゃな」
「はい」
 サナキはシグルーンの天馬から降りていった。他の味方の傍まで小走りで行く。心配せずとも、皇帝はもう転ばない。振り返るサナキは厳粛な面持ちだった。
「わたしにも魔道の心得はある故、心配には及ばぬ。さぁ行くのじゃ、シグルーン。……ベグニオンの罪の為に、クリミア女王の手を汚させることなどあってはならぬ」
 だからこそシグルーンは、笑うのだ。これまで幾度もそうであったように、これからも何度でも。敬愛する主の望む笑顔で。
「御意のままに。皇帝陛下」
 もう迷いはない。この身は、この天馬はベグニオン一の翼。誰に阻むことも、手折ることも出来ない。
 低く、限界まで低く滑空していく。
「ルベール殿」
 シグルーンが静かに突き出した槍先で、叫ぶような打ち合いが急に止まった。
 何を傷つけたでもない。シグルーンの槍は、ルベールの槍の一点を押さえただけ。それだけで動かせなくなるような本当にわずかな点を。
「サナキ様とクリミア女王の御前です。武器を下ろしなさい」
 シグルーンはルベールを見下ろした。こんな勧告を聞き入れはしないと知ったうえで。
 彼が口唇を吊り上げて首を横に振った瞬間に、シグルーンは槍を持った利き手を一気に引いた。ルベールもこんなことでバランスを崩すほど間抜けではない。空いた左半身目掛けて即座に突きが来る。シグルーンはその一撃を避け際彼の左をかすめるように自分の槍を投げる。これには流石のルベールも虚を衝かれたと見えて、意識が一瞬後ろに逸れる。一瞬でよかった。シグルーンは彼の槍を掴んだ。ルベールが目を見開いてこちらを見る。シグルーンは悠然と微笑む。
 女の片腕で、男から武器など奪えるはずがない。けれどこちらにはそう、無敵の翼がある。
 天馬が旋回する勢いでルベールを吹き飛ばす。床に叩きつけられた身体に肉薄する。手の中に残った彼の槍を持ち主の胸に突き立てる。鎧が砕ける。確かに心の臓を貫いた感触があった。ルベールの身体が大きく跳ねた。
「お返ししますわ。出自の分からない武器は使わない主義ですので」
 礼の代わりに口から赤い血を吐き出して、同じ国の民であったはずの青年は息絶えた。
 いつの間にか結界も消え失せて、アイクの傍にも同じように仲間と信じていた男が横たわっている。
 もう一頭の天馬がふわりと、シグルーンの近くに降りた。
「……行ってさしあげないのですか?」
 シグルーンが振り返らずに問うと、そうですね、とついさっきまで果敢に戦っていたとは思えないほど弱い声で彼女は答えた。
「その役目は私のものではないと、思いますので」
「相変わらず慎み深い方ですのね」
 シグルーンは苦笑しながら、投げ捨てた自分の槍を拾いに行った。彼女はとぼとぼと後をついてくる。
「私、慎み深くなんてありません。シグルーン様に天馬に乗せていただいて……またあの景色を見たいなんて強欲に思わなければ、この子にも怖くて乗れなかったかもしれない。情けない臆病者です」
 シグルーンは微笑んだまま何も言わなかった。彼女の思い込みを正す役目は、それこそ『私のものではない』。
「エリンシア女王。不躾ながら一つお願いが」
「は、はい。何でしょう?」
 顔を見ると、彼女は両手を組んで緊張した様子でいた。まだあの少女の面影が残っている。怖がりでも逃げなかった、誠実で勇敢な少女。管理下に置きやすいなんて、とんだ不敬だった。
 だから本当の願いなんて、畏れ多すぎて口に出来やしないけれど。
「この戦いが終わったら、その子の拵えをすっかり変えてあげてくださいませね」
 聡明な貴女にならば、こう言えばきっと伝わるのでしょう。
 彼女はぱっと輝いた笑顔で、ありがとうございます、と言った。
「シグルーン!」
 サナキが駆け寄ってくる。シグルーンは主を迎えに行く。塔を出れば、かつてタニスが鍛えた可愛らしい天馬騎士も、今の主の下へ降り立つだろう。
 飛び立った白も、いずれベグニオンと比翼となるに違いない。サナキが新しく、友人として彼女と並ぶ日に、自分も必ず控えていよう。
 心に決め、シグルーンはその手で立てた同胞の墓標に背を向けた。