弦のない弓

「ねぇエポニーヌ。やっぱりあなた、男の子たちを見てると恋の予感に気付くの?」
 星界の食堂で、共に食事の支度をしているときだった。母のオボロに問われて、エポニーヌは苦い顔をする。
 エポニーヌは、男と男(特に若くて見目がよいとなおよろしい)が仲良くしている様子を眺めるのが好きだ。そのまま耽美な世界に沈み込んでいく妄想をしているときなど、周囲を忘れるほど幸せだ。
 だが一般的な趣味ではないと解っていたし、ひた隠しにしてきたつもりである。だからこのように、母が当然のごとくそういう話題を持ってくるのは正直いたたまれない。
「やめてよ、母さん。頭の中くらいあたしの自由にさせて。迷惑かけてないんだからイイって前に言ってくれたじゃない」
「別に批難する気はないのよ。ただ、そうなら少し確かめてほしいことがあって」
 オボロは大根の皮を綺麗に剥きながら、顔を曇らせた。
 エポニーヌは家事の類があまり得意ではなかったが、母は戦士として優秀でありながら、女らしいことの大方――身だしなみや料理や裁縫といったことが、申し分ないほどに上手い。
「タクミ様がね、周囲がどんどんお相手を見つけているっていうのに、浮いたお噂の一つもないの」
「余計なお世話でしょそんなの」
 エポニーヌはにんじんを均等に切った、つもりが大きさがばらばらになってしまった。オボロはとんとんとリズミカルに、大根をいちょう切りにしていく。
「そうかもしれないけど。シノノメ様は雷神刀を継がれるお方、リョウマ様にこの先御子がお生まれになるかも分からないし、風神弓の後継者たる方がご不在のままじゃ心配だわ」
「だとしたって、母さんは戦いが終われば暗夜に嫁ぐんでしょ? 白夜王家の心配なんかしたって、向こうから見たらそんな義理ないわよ」
 エポニーヌはうんざりしながら答える。
 母が主君の話をするのは、自分の趣味の話をされることほどではないが、好かない。タクミ様は、タクミ様はと、何度も何度も。
 特定の人物に忠義を捧ぐという概念がないエポニーヌにとっては、子まで生した相手のいる身で、他所の男の名を出す神経が解らない。
 オボロはそんな娘の心中を知ってか知らずか、大きく嘆息した。
「だからこそ、今のうちに安心しておきたくって……傍にいて差し上げるのがヒナタだけなんて、ちっとも落ち着かないのよ」
「それとあたしと何の関係があるの?」
 エポニーヌはナイフと野菜を置いて、オボロを睨みつけた。そんな未練のような話を、母親から聞かされたくなんてない。
「ヒナタさんがいるんなら充分じゃない。ああ見えて結構筋肉もあってがっしりしてるし、タクミ様第一だし、顔だって意外とかわいいし……傷があるのが一層少年っぽくてあどけなくていいわよね、髪も長くて、寝所で下ろしたらきっとすごく化けるに違いないし……」
『タクミ様、俺、タクミ様の為なら何でもします!』
『本当かい? それなら、もっと傍に来て僕を暖めてよ……その綺麗な髪に触れたい』
『タクミ様……はい、お寒いのなら、その身体が火照って仕方なくなるまでお傍に』
「エポニーヌ、ちょっと、聞いてる?」
「はッ」
 途中からスイッチが入ってしまった。母の声で我に返り、エポニーヌは目を逸らした。
「き、聞いてるわよ。タクミ様の魂の伴侶の話でしょ?」
「そうよ。あなたのその空想力で確かめてきてほしいの」
 オボロもまた食材と刃物を置き、ぐっと拳を握り締める。
「タクミ様に想う方がいらっしゃるなら、私は最後のご奉公として全力で応援する。衆道家だというなら、御子のことも含めてそれはそれとしてきっちり受け止める覚悟よ!!」
「えぇ~……あたしは男性を観察した結果空想するのが好きなだけで、密偵とか占い師じゃないんだけど……」
 エポニーヌは渋ったが、ふと思い直す。
 母のことがあって苦手意識はあったが、それを抜きにすればタクミのことは嫌いではない。口を利いたことこそないけれど、あの女のように整った顔、ほとんど肌の露出のないガードの固い服装、並外れて長い艶やかな灰銀の髪――機会があればじっくり眺めてみたいと思っていた。普段ならば、タクミ様で下品な空想をするなと怒られるであろうところを、母の許可を得て堂々と(?)覗いて夢を膨らませていいという。
 しかも先ほどエポニーヌ自身が口にしたように、一家は戦いが終われば暗夜に行くことになるだろう。いつまでも白夜暗夜の民が一緒に、星界に留まるわけではないのだ。こんな好機が二度来るとは考えられない。
 エポニーヌは生唾を飲み込んでから、努めて冷静を装いながら自身の三つ編みをいじる。
「ちょ、ちょっとなら協力してあげてもイイわ。その想い人を特定できるかは分からないけど」
「ありがと! 本当にあなたって孝行娘よね」
 オボロが抱きついてくるが、エポニーヌの意識はもう翼を広げて甘い世界へと旅立っていた。

 

「まずは大本命のヒナタさんからね……!」
「私にとっては大穴以外のなにものでもないけど」
 早速タクミの観察をすることになったエポニーヌ。しかし生憎母同伴だった。
 些か以上に不満ではあるが、王族であれこれ出来るという権利(あくまで彼女の中での権利だが)を考えれば、破格の条件ではある。
「大体ヒナタに気があるなら、もうとっくにどうにかしてそうなものじゃない?」
「禁じられた恋……だからこそ今の関係を壊したくなくて、想いを封印しているのかもしれないわ」
 何も知らないタクミは、木陰で本など読んでいる。
「タクミ様ー!!」
 そこへ、見計らったようにヒナタがやってきた。タクミは無言で顔を上げ、まだ遠いヒナタを見る。
 ヒナタは何やら包みを持って上機嫌で駆けてくる。弾けるような笑顔は無邪気そのままだ。
(さぁ……見せてもらうわよ、夢の世界!!)
 エポニーヌがその笑顔に希望を託した刹那、あっとオボロが小さな声を上げた。何? と問う間もなく、エポニーヌもその意味に気付く。ヒナタは蹴つまづいて、顔面から思い切り地面に突っ伏した。
 タクミはやはり無言でそれを見ていて、何事もなかったかのようにページに目を落とした。
(の、ノーリアクションよ?)
(そりゃヒナタがすっ転んだぐらいで動じてたら、時間がいくらあっても足りないわよ)
 オボロは苦り切った顔で言う。しかし転ぶ直前に気付いたのだから、今までそれに動じて世話を焼いていたのは母だったのだろう。
 ヒナタは、やべー、汚れてねぇかな、と包みだけを気にした様子で立ち上がった。とと、とタクミに寄っていく。
「タクミ様、食い物持って来ました!」
「そう? どうも。ちょうど小腹が空いたところだった」
 タクミはあぐらの上に本を広げたまま、やっとヒナタの顔を見た。エポニーヌには、褒めて褒めてとヒナタが尻尾を振っているように見える。
(恋というより犬と飼い主ね……あっ)
『タクミ様、俺、上手にデキましたか?』
『まだだよ。その程度で僕が満足するとでも思ってるの? ほら、もっとイイ声で啼いてみなよ』
『くぅん……!』
「嫁が握った飯なんですけど」
「いただくよ。細君にもお礼を言っておいて」
 エポニーヌの空想をよそに、ヒナタは包みを開いて握り飯を突き出し、タクミは小さく笑ってそれを受け取った。躊躇なくかぶりつく。エポニーヌの熱がすっと引いていった。
(どうしたの?)
 オボロが聞いてくるので、首を横に振る。
(ヒナタさんじゃないわ。タクミ様、顔色一つ変えず食べたもの)
(そりゃヒナタの奥さんを疑う理由はないでしょ)
(そうじゃなくて。母さんは、父さんが別の女からもらった手作りのお弁当、普通の顔で食べられるの?)
 そこまで言って、ようやくオボロにも合点がいったらしかった。
 タクミはヒナタのことを、忠実な臣下以上には思っていない。
(だったら、他に誰が……)
 オボロが言いかけたとき、ちょうど他の男が場に姿を現した。
「やぁ、ランチタイムかい? ちょうどよかった」
(レオン様だわ!)
 エポニーヌは内心の驚喜を押し殺すのに苦労した。
 レオンもまた、父の主君なので普段の妄想を禁じられている。だが陽をあまり知らぬ白い肌、涼やかな瞳、さらさらの金髪、高圧的な物言い、身内にだけは甘く響く声、グラビティ・マスターの異名を持つ魔道の天才……エポニーヌにとっての燃料が揃いすぎているのだ。
 それが自分から、観察対象のタクミに近づいてきた。鴨葱とはまさにこのことではないか。
「食べたことがないと言っていただろ? ひとついただいてきたよ」
 レオンははちきれそうに熟れた真っ赤な果実、要するに大きなトマトをすっと差し出した。
 ありがとう、と言いながら、タクミは少し身を引いているようである。
(タクミ様、近頃はレオン王子と仲がいいのよね。今読んでらっしゃる本もお借りしたものみたい)
(そうだったの……)
 オボロからの情報に、エポニーヌはうっとりと呟いた。モノの貸し借りをスる仲なの、と胸の中で噛み締める。
 一方レオンは、タクミが受け取ろうとしないので、やや強引に口元にトマトを近づける。
「洗ってあるし剥かなくても食べられるよ。絶対に美味しいから食べてみてくれ」
「わ、わかったよ! 自分で食べるから」
 タクミが眉をひそめて身をよじった。本を脇にどけるヒナタはもう、エポニーヌの意識からいなくなっていた。
『ほら、自分で食べられるんだろう? それとも大きすぎて口に入らない?』
『そ、んな、こと……』
「皮で歯が滑るんだけど」
「タクミ様びびりすぎなんですよ」
「そうだよ、普通に噛めばいいのに」
「じゃ、じゃあかじるから……んッ! うわっ!!」
「あっ汁が垂れてる!!」
「初めてだからって食べるの下手すぎやしないか!?」
「あーあータクミ様、袴が! 袴が真っ赤に!!」
『まったく、はしたないなぁ……こんなにこぼして。これも全部、自分で綺麗に出来るよね?』
『ん、ふぁ……っ、だってこんなの、知らなかったから……』
『どんな味がするんだい? そのかわいいお口で言ってごらん?』
「あ、でも、うまい」
(ヤバーーーーーーーーーーーい!!)
(やばいことだけはあなたの顔見てれば分かったわ)
 母親に冷たく指摘されて現実に戻るエポニーヌである。
 ヒナタが事前にどけておいたおかげで本は無事だったが、袴が汚れてしまったらしい。謝るレオンへのフォローもそこそこに、タクミはその場を後にする。エポニーヌたちも彼を追った。
「ちぇっ。やっぱり着替えるのには部屋に戻るのね」
「当たり前でしょ。何を考えてるの」
「別にあたしはタクミ様の裸が見たいとかじゃないのよ。タクミ様の裸を見かけた青年が頬を赤く染めるのを見たいだけ」
「どちらにせよロクな願望じゃないわね……」
「あっほら出てきた、追うわよ母さん!」
 母の視線をさらりとかわし、エポニーヌはタクミの行き先を確かめる。
 泉の前だった。しゃがみ込んで、先ほどまで穿いていた袴を水に浸し、びしゃびしゃと不器用に引っくり返したりしている。 母は出て行きたくてうずうずしているようだった。呉服屋の娘だったというぐらいだから、あんな扱いを受けている袴が気がかりで仕方ないのだろう。ただでも、母はタクミの世話を焼きたくて仕方ないのだから。
 エポニーヌは、深縹(こきはなだ)の自分の三つ編みを見た。母の深縹は高く結い上げられていて、これはタクミを意識して始めた髪形だと確かどこかで聞いた気がする。
 それが恋でなかったとしても、そんなにタクミのことが好きだったくせに。どんな気持ちで、母は父を愛したのだろう。
「手伝いましょうか?」
 洗濯の下手くそなタクミに申し出たのは、ゼロ――エポニーヌの父だった。
 タクミが何か言う前に、隣に膝をつき袴に手を伸ばす。耳許で囁くように口にする言葉は、何故かはっきりとエポニーヌの耳にも届く。
「そんなに力任せにヤったってイけませんよ。ベッドで女に触れるみたいに……あァ、タクミ王子は女の肌をご存知ありませんでしたね。これは失礼」
 ゼロの嘲弄は、娘であるエポニーヌから見てもひどく醜かった。タクミはかっと顔を赤くして立ち上がる。
 だが何も言わない。ゼロも袴を掴んだまま、無表情でタクミを見上げるだけだ。
「もう見てらんない!」
 オボロが鬼の形相で飛び出していくと、ゼロは目を見開いて無様に尻餅をついた。鳴り止まぬ説教を、雨に濡れた捨て犬のように惨めに小さくなって聞いている。父は意外なほどに母に弱いのだった。
「分かったら今すぐその汚い手をタクミ様のお召し物から離しなさい、それで石鹸を持ってくること!!」
「……悪かった」
 肩を落として去っていく父と、タクミの袴を愛おしそうに洗い出す母。
 タクミは両手をだらりと下げて、呆然と二人を見ていた。
(違うわ)
 エポニーヌは、すぐに自分の思い違いを訂正する。
 タクミは、母が飛び出した瞬間から、父に愚弄されたことなどどうでもよくなっていたのだ。
 その視線はただ、一人に。エポニーヌの母に、オボロという、じきに自分の許から離れていく女性に、向けられていた。
 エポニーヌの空想も設定も必要ない。
 彼は、開け放たれた籠の中の鳥を、ただ見つめていたのだ。いつか飛び立つ日が来ることを知っていて、なお錠を下ろすこともなく。扉を開けた盗賊を罵倒することもなく、鳥の意思を尊ぶばかり何も言えずに。
「あら、申し訳ありませんタクミ様。お見苦しいところを。この袴はとてもいい生地ですからね、傷めないように染み抜きをして、乾いたら後でお渡しいたします」
 母はにこにことタクミを振り返る。タクミは、ああ、と優しい声で言った。
「ありがとう。頼むよ、オボロ」
 あのひとは、とエポニーヌは自分の母譲りの髪を胸元で握り締めた。
 ああやってずっと、弦のない弓を引き続けているのだ。鳥に当たることなど一生ない。放たれてさえいない矢は、彼の足元に積もり続けるだけ。
 タクミがエポニーヌの方に歩いてくる。隠れる暇もなく見つかってしまう。目が合うと、タクミは眉を下げて微笑んだ。
 その弧のかたちの口唇に一本だけ置かれた、右の人差し指。エポニーヌは頷いた。タクミは小さく頭を下げて、脇をすり抜けていく。
 言うものか、とエポニーヌは思った。
 あんなに幸福な母に。こんな贅沢なこと、一生言ってやるものか、と思った。

 

 少し風に当たろうと城の屋上に行くと、先客がいた。父だ。考えることが同じかと思うとげんなりする。
「母さんに石鹸は渡したの?」
 近づきながらエポニーヌが問うと、ゼロは苦虫を噛み潰したような顔で振り返った。
「見ていたのか」
「ええ。大人気ない父さんの一部始終を愉しく見せてもらったわ」
 ふんと鼻を鳴らす。そうか、とゼロは静かに呟いた。前に向き直り、遠くを見遣る。
 暗がりで生きてきたという父は、わずかな光にも敏感で、あんな風に空を見ていることは珍しかった。とはいえ、そう断言できるほどエポニーヌは父を知らないのだが。
「随分無様だったろう」
「そうね。惨めだった」
 エポニーヌは沈んだ声で言いながら、父に並んだ。
 見た目で似ている箇所はどこにもない。本当は可哀想な拾い子だと告げられても、エポニーヌはきっとそのつまらない嘘を信じるだろう。
 ゼロは娘を見ないまま、独り言のように呟く。
「オボロは俺を選び、俺に身を委ねてくれた。だってのに、未だにタクミ王子を見ると心が乱れちまう……白夜の王子としてレオン様とも懇ろになられた今、こんな子供じみた接し方はやめるべきだと解ってはいるんだがな」
「……父さんの不安は、もっともだと思う」
 エポニーヌは風に揺れる髪を押さえた。ゼロが不思議そうにこちらを向くのを、今度はこちらが見ないふりをした。
「もう嫁ぎ先も決まってるのに、タクミ様のことばっかり口にしてる母さんは、正直どうかしてると思うわ」
「エポニーヌ。やめろ」
 そこまで強い言い方をするつもりはなかったのに、滑り出たのは酷い言葉。それでも父を気の毒に思って言ったことだったから、咎められて一層抑えが利かなくなった。
 自分の外套を手で払いながら父を睨み上げる。
「父さんだって知ってるんでしょ!? だからタクミ様に嫉妬してるんでしょ!? タクミ様タクミ様ってまとわりついて、相手がその気になったときには、もう他の男と寝てるなんて……そんなの、不誠実で不潔だわ!!」
「エポニーヌ!!」
 ――ショックだったのは、父に手を上げられたことではなく。後ろで、何かを落とす音がしたこと。
 やだ、と聞き慣れた声が乾いた笑いを起こす。
「タクミ様のお召し物、落っことしちゃった……。また、洗ってこなくちゃいけないじゃない……」
 母の声が震えている。エポニーヌの手も震えている。振り返ることが出来ない。
 この一番陽当たりも風通しもいい場所に、母はタクミの袴を干しにきたのだ。そこで、実の娘が口汚く自分を罵っているなど思いもせずに。憧れの人の為に出来る残り少ない仕事を、誇りながら。
「オボロ!!」
 母が駆け去る音と共に、父がエポニーヌの脇をすり抜けていった。エポニーヌはついに母の顔を見ることが出来なかった。
「あ、ぁ……」
 座り込む。頬を雫が伝った。それが誰の為のものであるのか、自身にさえ解らぬまま、張り裂けそうな胸を押さえてエポニーヌは天を仰いでいた。

 

 どれだけそうしていたのだろう。視界が赤みがかってきた。日暮れが近いのだ。
 寒い、とエポニーヌは自分の肩を抱く。まだ、どんな顔をして戻ればいいのかも分からないのに。
 誰かが上がってくる気配がして、父だろうかと思った。エポニーヌを引きずっていって、母に頭を下げさせるつもりなのだろう。俯いてじっと口唇を噛んでいると、彼はエポニーヌの傍らにやって来て、こう尋ねた。
「何をやってるんだ?」
 この若く甘い声は父のものではない。視線を上げると、タクミが怪訝そうな顔で立っていた。
「な、なんでもないです」
 エポニーヌは目元を乱暴に拭い、そそくさと立ち上がった。
 両親ほどではないが今は会いたくない人物だった。ただでもエポニーヌは、現実に異性と会話をするのは苦手だというのに。
「待ちなよ」
 だが去ろうとしたエポニーヌの右手を、タクミが掴んだ。父が叱るときに握る強さとは全く違う、しかし確かに男の力。
 驚いて振り向くエポニーヌを大真面目に見つめて、タクミは言う。
「弓を見てやるから。構えて」
「は?」
「ほら」
 エポニーヌは訳が分からないが、タクミは強引に弓を押し付けてくる。しかも白夜の国宝・風神弓である。
 触るのも畏れ多いのに、無理やり握らされた。思った以上に重い弓だった。
「あ、の、弦が……」
 しどろもどろでエポニーヌは訴えた。
 風神弓は、タクミが構えると目映く光る淡青の弦が現れるが、エポニーヌが持っても何も出てこず、武器にはならない。
 そんなことは承知だというように、タクミは頷く。
「ああ、だから振りでいい」
 ない弦を引けというのもなかなか難しい話だった。エポニーヌは困惑しながら、普段の挙動を再現しようと試みる。
 タクミは腕組みをしてそれを見ていた。そして、やっぱり、と小さく呟く。
「戦場でちらっと見たときから気になってた。構えるとき、左手に変な癖がついてる。そのままじゃ、じきに手首を痛めるぞ」
「えっ」
 エポニーヌが腕を下ろそうとすると、そのまま! と鋭く制止された。タクミは至近距離まで来て、エポニーヌの左手首の角度をいじっている。
「この弓は父親に?」
「い、いえ。我流で……見様見真似で」
 エポニーヌは消え入りそうな声で答えた。冷え切った手に、タクミの温度が手袋越しにじわりと伝わる。
 誰に教わったのでもなかった。
 父はエポニーヌが武器を持つことを快く思ってはいなかったし、母はそもそも弓を扱えない。外の世界で見かけて、一番自分の気性に合っていそうだと感じたのが弓だった。それでも、父よりも上手く使える自信――対抗心が、全くなかったと言えば嘘だ。
 エポニーヌはついに背筋まで直されながら、ぽつりぽつりと言葉を継ぐ。
「白夜の弓は、『正しく』『美しい』ものだって聞いたこと、あります。暗夜の弓は、『奪い』『殺す』ものだって」
「ふぅん。本質的にはあまり変わらないと思うけど」
 タクミはつまらなそうにそう返した。てっきり、比較するのも無礼だと言われると思ったのに。
「こんなものかな。あとは自分の相棒で試してみなよ。多分今までより少ない力で、距離も威力も出ると思う」
「あ、ありがとうございます」
 風神弓がようやく主人の元へ帰った。
 エポニーヌも立ち去ればよかったのだが、何だかタイミングを逃してしまった。
 タクミは風神弓を片手に持ちながら、もう一方の手をエポニーヌに向けて伸ばし、頬に触れた。恐らく赤くなっているであろう、父に叩かれた方の頬に。灰銀の髪を風に流しながら、タクミは静かな声で問う。
「痛くないのか」
「痛いです」
 エポニーヌは笑ったつもりだったが、上手くいっただろうか。
 とりあえずタクミも、泣きそうに笑い返してくれた。頬より胸が痛かった。
 愛でもない。恋でもない。思慕でも尊敬でも忠義でもない。この感情をどう呼ぶのか、エポニーヌはちゃんと知っている。
 同情と。そう定義するべき、憐憫だと。
「母さんはあなたを選ぶべきだった」
 エポニーヌがこぼした言葉は紛れもない本音。彼にこんな顔をさせているのは、きっと母の罪だから。
 タクミはすっと笑みを消し、一歩下がった。自然、エポニーヌに触れていた手も離れる。
 エポニーヌは正面から彼を見つめたままだった。
 タクミはゆっくりと目を閉じて、それから暮れゆく陽を向いた。長い影がエポニーヌの方に伸びてきていた。
「エポニーヌ。お前は祖父母の……オボロの両親の話を、聞いたことがあるか?」
「え? いえ……」
 唐突な話題についていけず、エポニーヌは口ごもる。
 両親の話でさえ断片的だ。思えば、そのまた更に親の話まで耳にしたことはない。
 タクミは背中を見せたまま、淡々と続ける。
「オボロの実家の呉服屋は、暗夜の人間によって潰された。両親は、あいつの目の前で殺されたんだそうだ」
「そ、んな」
 今度はエポニーヌが後ずさる番だった。
 エポニーヌの知っている母は、裁縫が得意で衣料品に目がなくて、綺麗好きで、お節介で、怒りっぽくて、でも明るくて大らかな、ごくごく普通の女性のはずだ。汚い場所で生きてきたと語る父は、そんな母だから癒しを求めて惹かれたのだと思っていたのに。
 エポニーヌの動揺をよそに、タクミの話は続いていく。
「オボロはそりゃあひどく暗夜を恨んでた。ただの平凡な町娘が、憎しみで取った刃物を振り回し、槍聖と評されるまでに成り果てた。暗夜に縁のあるものは、人でも物でも蛇蝎のごとく嫌っていた」
 母はよく、あら暗夜にはこんなものがあるの、ねぇエポニーヌどう使うの、と訊いてくる。それは単に母が白夜人で、そのうえ少しもの知らずだからなのだと呆れていた。もしその知識のなさが、今まで暗夜文化を徹底的に避け続けてきたからなのだとしたら。
「じゃあ何で、父さんと……」
 エポニーヌは自分の口唇に触れた。震えていた。寒さでないのは明白だった。
 タクミが振り向く。先程のまでの儚さのない、凛とした白夜王子の顔だった。
「白夜と暗夜が協力することになったからだ。オボロは私怨よりも、国益や僕らの気持ちを優先してくれた。ゼロと接するようになったのはその過程でだよ」
 タクミは、真っ直ぐにエポニーヌを見据えて語り続ける。彼には面白くないはずの、聞きたくもないはずの話を、エポニーヌに聞かせる為に。
「ゼロはあの通りだから、最初から僕らを……オボロを受け入れたわけじゃない。オボロも、暗夜人と話をしていて、あれだけとらわれ続けた復讐の相手を知らされたときは、穏やかじゃなかったようだけど」
 頭がくらくらする。復讐の相手? 母の両親の、エポニーヌの祖父母の仇? それを知ってなお、母は暗夜人の血でその手を汚さなかったのだろうか?
 エポニーヌが視線で縋ると、タクミはしっかりと頷いた。
「それでも彼女は平和を選んでくれた。正当に怒りながら、不当に罵ることはせず、真っ直ぐに暗夜の民そのものに向き合おうとした。それがゼロの心を動かしたのかもしれない」
「だからって、いきなり結婚するとかしないとかって……」
 言ってしまってから、しまったとエポニーヌは両手で口を押さえた。
 タクミは快活に笑っている。夕陽に照らされた顔の色は、とてもとても健全に見えた。
「そりゃ僕だって聞きはしたさ。暗夜人を気に入るのは結構だけど、何でよりによってあの下品な男なんだって。そしたらオボロは何て答えたと思う?」
「え、と」
 エポニーヌは必死に頭をひねった。エポニーヌ自身はゼロが好きだが、それは彼が父だからであって、一人の男性として人生の伴侶にしたいかと問われれば、正直遠慮したい部類である。まして暗夜を憎み、心身共に清潔であることを好むオボロが、よりによってゼロを選ぶとは考えられない。
 悩んだ末に、エポニーヌは父にとっては甚だ不憫な推論を立てた。
「……『かわいそう』、だから?」
「似てるけど全然違うよ」
 タクミは声を上げて笑った後、はあと息を浅く吐いた。そして改めて、苦笑し直した。
「信じられないだろうけど。オボロはゼロをね、『かわいい』って言ったんだ」
「はぁ!?」
 エポニーヌは素っ頓狂な声を出した。だからさっきから母の理屈が全く読めないというのだ。
 むーと眉を寄せるエポニーヌを見て、タクミは大袈裟に肩をすくめた。
「どこがって顔してるね。僕も未だにそう思ってる。でもオボロはとても自然な笑顔で、確かにそう言ったんだ」
 陽が落ちてきたね、とタクミは遠くを見遣った。エポニーヌもつられて空を見る。
 もう重い色の部分が増えてきた。夜がやってくる。白くも暗くもない、フラットな夜が。
 タクミはあの紺色をどんな気持ちで見つめているのだろう。
「人間が真っ黒に染まるのは簡単だけど、あの男はそれに抗ったんだと。暗闇の中でぼろ切れを手当たり次第に集めて、何とか芯の部分を覆って、内の綺麗さを守ってきたらしい。オボロの言ではね。でもいざそれを捨てようと思ったら、脱ぎ方が分からなくて四苦八苦してる。それがとても可愛いと思うって惚気られて、僕は黙るしかなかった」
 タクミの声音はとても穏やかだった。口許にはかすかな笑みがにじんでいた。
 エポニーヌの頬を、父に殴られたときとは違う涙が伝う。
 オボロがタクミを選ばなかったのではない。タクミが選ばれなかっただけ。タクミが選ばせることが出来なかっただけ。それは似ているけれど決定的に違う結果。
「今でも僕は、ゼロのことが好きじゃない。でも一つだけ、感謝してることがある」
 いつの間にか、またタクミが目の前にいた。
 エポニーヌの、いつも変な癖で弓を持つ左手を、そっと握ってくれる。慈しむような声をくれる。
「オボロの娘と――お前とこうして向かい合って、話が出来ていることさ。エポニーヌ」
 エポニーヌは返事が出来なかった。ただ、しゃくり上げながら何度も頷いた。
「今はまだ、お前の母さんを目で追ってしまうけど。きっとじきにそれも治る。それまで、この悪い癖を許していてくれるかい」
 タクミが遠慮がちに問う。エポニーヌは、厚い布に覆われたタクミの手を、一生懸命握り返す。
「タクミ様がそうしたいなら、あたしは黙ってます。ずっと」
「ありがとう」
 やわらかく言って、タクミは再びエポニーヌに風神弓を手渡した。
「引いてごらん。どうやらお前に言いたいことがありそうだ」
「引けって、言っても……」
 また構えるふりをすればいいのだろうか。エポニーヌは、直された左手を気にしながら風神弓を持つ。するとタクミが後ろから腕を回してきて、一緒に支えてくれた。
 主に触れられた風神弓の筈が輝き、燐光を放ちながら青い弦が現れる。今までに見たどんなものや景色より、尊く美しい耀の線。
「さぁ、行くよ!」
 タクミの指先に導かれて右手を引く。閃光の矢は迷いなく地平線を目指し、ぱっと弾けて消えていった。きらめく粒子は、まだエポニーヌの瞳の中で踊っている。
 弦のない弓を引き続けて憐れだなんて、とんだ思い違いだった。この弓はこんなにもあたたかくて、眩しい。
「ありがとうございました!!」
 エポニーヌが飛びのいて頭を下げると、こちらこそ、とタクミは言った。駆け去るエポニーヌを、最後まで見送ってくれる。自分だって本当は一人になりたくてここに来たはずなのに、邪魔されたことを責めもせずに。
 もしも、とエポニーヌは思った。もしもこのままタクミ様だけと人生を共にしてくれる人――それが男であれ女であれ――が現れなかったら、あたしがお傍にいよう、と。
 それが恋でなくても。愛でなくとも。情という言葉だけで、母の代わりに彼を想おうと。
「エポニーヌ!」
 捜していたのはお互いだったようで、両親はエポニーヌの姿を認めるとこちらに走ってきた。
 オボロはそのままエポニーヌに抱きつく。直前に見えた目は、泣き腫らして真っ赤だった。
「ごめんね、私、なんて無神経なことあなたに頼んでたのかしら。いくら気がかりだからって、今一番優先しなきゃいけないのは、あなたとゼロのことなのに」
「いいの、あたしこそ、ごめんなさい。母さんも……父さんも」
 エポニーヌは母の身体を抱き返す。
 この小柄な女性は、今までずっと抱えてきた重荷を、娘に引き継がせようとはしなかった。自分の代できっぱりと、終わらせると決めてくれた。
 そしてそう決めさせたのが、そこで棒立ちになっている男なら。いくら惨めでみっともなくとも、許してやれる。
「あたし、父さんのことも母さんのことも大好きよ。でも、母さんがタクミ様のこと大切な気持ちも、ちゃんと解ったから。だから泣かないでよ」
 父にウインクを送ると、父は片方しか残っていない目をやわらかく細めて、肩をすくめた。後で初めて父にも、弓を教えてもらおうと思った。
 暮れたばかりの空には、もう星々が瞬いている。闇の中でも月は輝いている。
 エポニーヌは、ぐっと口唇を引き結んだ。
 生き抜こう。何があっても、全員で。必ず幸せに生きていこう。
 その為に、あたしはこれからも弓を引き続ける。
 父さんに憧れて持った弓を。弦がなくても引き続ける。
 母さんが敬い、母さんを想った人が触れてくれた、この両手で。