螺旋階段

 リョウマが、妹ヒノカの臣・アサマに呼び出されたのは、本当に出し抜けであった。
 軍議の後、少し休もうと思っていたところを掴まって、天幕ではなく木賃宿に連れ込まれ、リョウマが女で腕も立たぬとなったら完全に手篭めにされているところである。
 事情は分からないながら、どうにか一畳きりある畳の上、差し向かいに正座をする。
「こちらもサイゾウとカゲロウを置いてきたのだ。長くはあいつらの気が持たぬだろうし手短に頼む」
「それは好都合。私も、この距離で好きでもない人間と長時間向かい合うのは勘弁していただきたいものです」
「そちらから呼び出しておいてよく言う」
 リョウマは嘆息して腕組みをした。
 このアサマという僧、瞳も見せぬし口元もいつも同じで、腹の内が読めない。嫌いというほどよく知っているのでもなかったが、リョウマにとってあまり得意な性質ではなかった。
「では用件を」
「ええそうでした。ヒノカ姫をいただきとうございます。いえいただくことになりました、義兄殿」
「は?」
 さらりと告げられた言葉に、王族らしからぬ行儀の悪い声が出た。アサマはリョウマの発した低音に動じず、飄々と続ける。
「ヒノカ様は私の妻となってくれるそうです。長らくお勤めご苦労様でございました、リョウマ王子」
「待てヒノカがそう言ったのか」
「ええそうです、疑うならば御自ら言質を取ったらよろしい」
「いや、お前は食えない奴だが嘘をつきはしない。そう言うのならそうなのだろう」
「信用していただけて何よりです。日頃の行いでしょうか」
 否定はしないながらも首を傾げ、リョウマは足を崩した。胡坐――というより座禅に近い気持ちで、しかし、と眉をひそめる。
「あれはお前の何が気に入ってその、嫁ぐと言ったのだ?」
「元々草の根分けて私を捜し出した情熱は、ヒノカ様から向けられたものですが」
 言いながらアサマも正座をやめた。いやお前は崩すなよとタクミなら責めていたことだろう。
「縄は一本では成り立たぬものです。糾える片側があの方であり、それに合う色がよっぽど私ぐらいしかおりませんので慈善と思って一緒になります」
「おい、俺の妹を貰い手のいない色物のように言うな」
 実際、縁談の話は掃いて捨てるほどあるのだ。リョウマが本人の耳に入る前に掃いて捨てているだけで。それほど、ヒノカの婿になる人物はしっかりと見定めてやると、もういない父の代わりにリョウマは固く誓っていた。
「どの道あなたはお役御免です。最後までその、泰然としたお顔を崩せなかったのは残念ですが」
 それをこんな、(本人は否定しているが)リンカの言葉を借りれば『破戒僧』に横からかっさらわれるとは……リョウマは普段から刻まれがちな眉間のしわを深くする。
「馬鹿を言え、充分煮え湯を飲まされている。貴様のような男に妹を嫁がせたい兄などいるものか」
「ではお返しいたしましょうか? まだ清いままにございますよ」
「下世話なことを言うな聖職者。俺の方で嫌だと言っても、あれがその気なら仕方あるまい」
 ヒノカが決めた男なのだから、きっとリョウマにはまだ解らないがそれなりに徳のようなものもあるのだろう。リョウマにはまだまるっきり解らないが。
 てっきりまたふてぶてしく、ええ仕方ありませんねとでも返される気でいたリョウマだが、ふと見るとアサマはいつも上がっている口角を下げて、静かに姿勢を正していた。淡々と、感情の読めない声で言う。
「見す見す妹御を不幸にするのですね、リョウマ様は」
「不幸にする心づもりなのか?」
 リョウマは詰問する。アサマがヒノカを手荒に扱うと疑ったわけではない。弱気な発言が癇に障っただけだ。
 アサマはリョウマが動じたことで、かえって平素の調子を取り戻したらしい。いえ、と薄く笑ってみせる。
「出来ればそうでない方が。ただ人の幸不幸は、意志だけで決められるほど尻軽ではないので。ああいえ、間違えました。尻軽だから決められないのですね」
「ふざけた奴だ」
「ふざけていることも多うございますが、今回に関しては私は至極真面目ですよ」
 いけしゃあしゃあと言われた。
 リョウマが業腹なのは、何も彼が本当に『ふざけている』ことではない。『あれがアサマという男の本音である』という事実が『ふざけている』と言っている。
 リョウマは咳払いをし、せめて自分だけでもまともで在ろうと努める。
「とにかく。ヒノカの方で貴様を選んだ理由は直接聞いてみるしかなかろうが、貴様の方でヒノカを選んだ理由ぐらいは申し開けるだろう」
「おや、先ほど申し上げたように思いますがもうお忘れに」
「ヒノカに決めた理由ではない、選んだ理由だ。あまり言葉遊びをするつもりはない。汲め」
「強引ですねぇ……さすがあの方の兄君ですよ」
 アサマはぼさぼさ頭をかいて、それからすっと目を閉じた。元々寝ているのだが起きているのだか分からぬ目であるが、リョウマは気配でそう感じたのだ。
 アサマは、清流が岩に合わせ往く道を変えるように滑らかに、俗な男から神職へと纏う気を変えた。衆生に説法をするような声で、リョウマ一人にごく個人的なはずの話をする。
「――人生のたとえのひとつに、『螺旋階段』というものがあります」
「螺旋階段?」
「そうです。どこまであるのか分からない、ひたすら上がり続けるだけの階段です。そのまま悟りの境地まで至る方もおられますし、何も考えずに踏み出した先がなかった、という方もおられます。現在の階層も定かではなく、上へ上へと懸命に目指したつもりが、気付かぬうちにいつの間にやら下っていく方も珍しくはないのでしょう」
 それとヒノカと何の関係が、とリョウマは言わなかった。この手の話で結論を急くほどの愚はない。
 アサマもリョウマが黙っているのを耳で確認してから、続きに入る。
「私もあなたも、その階段を独り黙々と上っています。誰に崩されるかもしれない脆く儚い人生を、足を引きずってでも先に進まねばならない、それが我々人間というものです。本来ならね」
 アサマはふっと上を見た。リョウマもつられて首を曲げる。そこには安宿の汚い天井しかない。
 だがぼんやりと、薄暗い階段の途中に立たされているような心持になった。
 先の見えない、くるくると、ただくるくると続くだけの寂しい階段。
「――あの方には、その階段がないのです。その概念が違うのです。他人の階段の真ん中を、天馬で真っ直ぐに突き抜ける。さりとて、出し抜こうとか短距離で解脱に至ろうとかいう欲もない。時によその階段にぶつかり、そこに在る人にもっと先に進むよう鼓舞し、そういった私には理解不能の行動を繰り返すのは、ただただ『他人』をどうにかしたいからなのです」
 リョウマは軽く目を閉じる。林立する階段をめまぐるしく飛び回りながら、誰かに尽くし続ける赤い髪が容易に浮かんだ。
「それはひどく傲慢で危うい行為です。私も幾度となく――というほど熱心でもございませんでしたが、幾度かはご忠告申し上げました。あの方はその愚かさを自覚したうえで、笑ってしまうことに、特定の相手ですらない『誰か』を一人でも多く救うことを諦めたくないようなのです。それは人のしていい生き方ではない。神仏の領分です。人間一人が為すには、あまりにも破滅的な生き方でしょう。それに御自らの光が消えたとき、どれほどの者が嘆き悲しむか、あの方は解っておられない。それがあまりにも憐れだから、横にいて少しは指図して差し上げようと思ったまでです」
 既に自らの意思では止まれない天馬の手綱を、ひょいと掴む男。それがアサマだというのなら。きっとこんな厄介なたとえをせずとも、彼はリョウマにこう言えばよかっただけだ。
 ――彼女が心配だから、支え共に生きていきたいのです、と。
「お前も人だな」
 ぽつりと呟いた言葉に、何です今まで私を何だと思っていたのですとアサマは笑った。
 リョウマはゆっくりと立ち上がる。耳に届き始めたこの羽音は、件の天馬のものに相違ない。
「リョウマ兄様!?」
 呼ばわる声に、リョウマは木製の格子窓から外を覗いた。必死の形相のヒノカと目が合う。
「アサマが兄様を連れて行ったと聞いて慌てて駆けつけたのだが、一体何が……!!」
「ヒノカ」
 リョウマは真顔でヒノカに返した。ヒノカを見下ろしながら、冷たい口調で、言い放つ。
「アサマは預かった。返してほしくば、腕ずくで俺を倒していけ」
 アサマが後ろで吹き出している。ヒノカは兄の渾身の冗談を真に受け、さっと顔色を変えて乗り込んできた。
 リョウマはにやついているアサマの襟首を掴み、震える手で槍を構えたヒノカの前に放り出す。
「ほら、俺の負けだ。どこへなりとも連れて行くがいい」
 何も勝負した覚えのないヒノカは、目を白黒させてアサマとリョウマを交互に見ていた。アサマは悪乗りをして、土間で平伏してみせる。
「恐縮です、リョウマ様。ご尊顔がいつにも増して輝いて見えます」
 リョウマは微笑んで、心からの本音をアサマに贈った。
「ああ、そうか。――俺は当分貴様の顔は見たくない」
 永遠にとは言わないでやる。だがせめて、お前たちの生き様を俺が芯から理解するまで。
 酒ぐらいは、一人で呑ませろ。
「祝言までに、せいぜいしまった面構えに鍛え直してやれ。ヒノカ」
「ちょっと……荷が重い」
 呻き、首を傾げながら、ヒノカはアサマを引きずっていった。
 薪一本使ったわけでもないが、リョウマは一応代金を置いて宿を出る。
「……満月か」
 呑むにはいい夜か。いやしかし、明日も早い。
 そうだ、当分は許してやらなくともいいのだから。
 無理に今晩酔ってやることもない。
「なぁヒノカ。たまには、俺の階段にもまた顔を見せてくれるか」
 相手のいない問いに当然返事はなかった。
 ヒノカに尋ねたとしても、どうせ不思議そうな表情をするだけだろう。
 だからいい。答えはいい。それはリョウマ自身が出すものだから。
 つまらない問答の後に、抜け落ちた白い羽ひとつ。
 懐にそっとしまって、リョウマは夜空の下を戻っていった。