結 森の賢者と新たなる風

 ラグズとベオクの混血が、限定的ながらも市民権を得るようになってから久しい。
 『印つき』『親無し』にかわる新たな呼称も考案された。
 しかしセネリオにはどうでもいいことだった。
 彼のいない世界でこれ以上暮らす意味もない。隠れ里の長にも誘われたけれど、気が進まなかった。
 やはり自分の行き着くところはここだけだろうと、最早廃村となったガリアの山奥に居を構えた。
 最初の頃こそ、ジルに荷物や手紙を頼んだり、ライがお節介にも食料を届けにきたものだが、彼らが家庭を持ってからはセネリオの方から交流を断った。
 楽しみなどない。生き永らえているのは、ただ、彼との約束を守るため。
 俺が死んでも自分を粗末にはするなと命じられたから。
 年月は過ぎて、彼が生きているという希望などもう持っていないけれど。
 死後の世界も生まれ変わりも信じていないけれど。
 記憶の中の彼に胸を張るために、セネリオは淡々と日々を営む。

 見目は十四・五の少年から、十七・八の青年程度には変化していた。
 それでもこの先どれほど生きることになるか。
 せめてもの慰めは、頭の中の膨大な知識と情報を書き記すことくらい。
 魔術・兵法・軍記――蒼炎の勇者の記録。随分書いたような気もするが、半分も終わっていないような気もする。
 暇つぶしの手段は、しばらくなくなりそうもない。
 長い脚を組んで、黒髪をかき上げながら、セネリオは今日も利き手にペンを握る。
 何も変わることのない退屈な毎日が、これからも続くはずだった。

 その日、小屋の扉が叩かれるまでは。

 セネリオは怪訝な顔で腰を上げた。
 今生きている中でこの場所を知っていて、かつ訪問出来る健脚はライぐらいだが、それにしては雑なノックだった。慌てているという風でもない。力の加減が下手なようにも思える。
 誰何するのも躊躇っていると、扉越しに高い声が聞こえた。 
「賢者セネリオというのはあんたか」
 少年とも少女ともとれる声だった。横柄な口調はどこか懐かしさを感じさせる。
 そのおかげで、セネリオも返事をしてみようかという気になった。
「何の用です」
「母さんから、強くなりたいのならあんたを頼れと言われて、来た」
 物怖じしない様子で言われる。セネリオは眉をひそめた。
 ライの身内がそんなことを頼みに来るはずがない。何しろライ自身が、ガリアにおいては王に次ぐ実力者なのだ。わざわざセネリオに師事する理由がない。
 他にセネリオの名を知っているとしたら、傭兵団員の縁者だろうか。ミストの訃報はまだ聞いていないはずだから、彼女を経由して誰かがやって来たのかもしれない。
 いずれにせよ、今更誰かと関わって生きていくのは億劫だった。扉の前に立ち、開けずに答える。
「弟子を取る気はありません。帰りなさい」
「言伝も預かってる」
「ではそれだけ言って帰りなさい」
「そう言われたら、顔を見せるまで言わないと返せと言われた」
 セネリオは久方ぶりに舌打ちというものをした。確実に傭兵団絡みだ。行動が読まれている。
「分かりました。あなたが扉から五歩離れたら開けましょう」
「わかった」
 土を踏む音が五度した。セネリオは念のため左手に風を集めながら、そっと扉を引く。
 少し離れたところに、フードを目深にかぶった若者が立っていた。声と同じく身体つきも中性的で、恐らく十四・五ほどだろう。団員の子供にしては幼すぎた。ことによっては孫かもしれない。
「思ったより若いんだな」
 無感情に言われ、セネリオは隠しもせずに苦い顔をした。
「言われたとおりにしましたよ。今度は君が私の要求に答える番です」
「ああ。本当に預かっただけだから、意味を聞かれても困るんだが――」
「待ちなさい」
 自分で促しておきながら、セネリオは若者の言葉を遮った。
 若者が、むっと口唇を尖らせるのが見える。セネリオは風を散らしてから、腕組みをした。
「人に大事な話をするときは、顔ぐらい見せろと教わりませんでしたか」
「それもそうか。あまり人前で顔をさらすなと言われてるんだが、あんたは目的地なんだから別にいいよな」
 若者は、躊躇いなくフードを後ろに落とした。
 セネリオは言葉を失う。
 右頬に刻まれた同属の印。澄んだ紫の瞳。そして、目の覚めるような青の髪――。
「親父から、あんたに伝言だ。賢者セネリオ殿」
『俺は、ベオクとラグズが愛し合うことも、その果てに子供が生まれることも、間違っているとは思わない』
「『お前の目の前にいるのが、その証明だ。俺は何一つ後悔していない。それともお前は、俺が間違っていたと思うか』」
『生まれたことが罪であるなんて、そんなことがあってたまるか。ベオクもラグズもそいつらを認めないなら、俺が認めてやる。生きていていいって、何度だって言ってやる。幸せになっていいんだって、いくらでも手を差し伸べてやる』
「『そいつの手を掴んでくれ。あたたかいって、絶対に分かるはずだから』――意味が解るか、賢者セネリオ殿?」
 セネリオは喉の奥で声を殺した。目の淵が何度も震えた。
 忘れたことはないけれど、ずっと会えずにいた顔が浮かんだ。
 何を馬鹿なことを。貴方が間違っていたことなんて、ありませんでしたよ。
 ひどく非効率的だって、貴方はいつも正解を選び取ってきたじゃないですか。
 彼女でいいんですか、なんて愚かな問いを。貴方はこうして、跳ね飛ばしたじゃないですか。
 泣き崩れたかったが、彼がセネリオに託してくれた以上、弱い姿を見せる訳にいかない。
 セネリオは密かに鼻をすすり、扉を大きく開け放つ。
「その証明となれるかは、今後の君の努力次第です。……入りなさい。今はあまり食糧を備蓄していないので、狩りの準備をしますよ」
「肉が食えるのか? ありがたい。ずっと干した果物ばかりで飽きていた」
 若者は軽い足取りで近寄ってきた。その腰元で何かがかららと鳴る。
「それは?」
「これか? 母さんからもらった。餞だと。両親の大切な人がくれたものだと言ってた」
 若者の下げ緒には、見覚えのある翡翠の玉が二つ結んである。
 セネリオは知らず微笑んでいた。
 もう死んでいたと思った感情は、眠っているだけだった。
 また動き出すことが出来る。今度はきっと、もっと長い間。この身体が本当に眠りにつくまで、生きていられる。
「まずは君の名前と、これまでのことを教えてください」
 森の賢者は新しい生を始めるために、優しくドアを閉めた。
 もう孤独に凍てつくことはない。
 あたたかい、ガリアの春。

 

 

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