第六章 こんな空の下でさえ - 5/6

 

SIDE Rethe

 

 

私たちの希望

 

 清廉な水の流れに、また鮮やかな赤が散った。
 苛烈な戦いだった。クリミア兵にとっては、王都メリオルは取り戻すべき故郷である。しかしネヴァサを放棄したデイン兵にとっても、もう帰るべき場所などない。互いに譲れないベオクたちは、自らの血を敵の血で洗い流すがごとく傷つけ合った。
 彼らのせいでは、なかったはずだ。彼らはただ、自分の国で生きていた。自国の為に生きていた。
 それを、一人の身勝手で追われた。
 ――狂王アシュナード。あの男が、二国の民から祖国を奪い去ったのだ。
「なんか……嫌な、感じがする……」
 不意に、傍にいたミストが身を震わせる。時にラグズ並みの鋭さを発揮する娘だ、レテより先に何かに勘付いても不思議ではない。
 ミストの肩を支えてやると、ちょうど睨めつけていた蒼穹に不穏な黒点が浮かんできた。
 規格外に大きな飛竜。アイクの持つラグネルのような神格を感じさせぬ、ただただ禍々しい大剣。
 近づいてくるにつれ表情も読み取れる。理性を手放した狂気ではない。もっと性質の悪い、判断力を残した凶眼。共感の全てを放棄した、己だけを是とする歪んだ笑み。
 頭で考えなくとも分かる。何もかも、あの男のせいだ。
 クリミアの民が死んでいくのも。デインの民が死んでいくのも。エリンシアが血族を喪ったのも。アイクが父を殺されたのも。ジルの父が散ったのも。罪のないラグズが発狂したのも。
 なにもかも、あの、空を穢し、世界の理を蹂躙した、男のせいだ。
 アシュナードは、かなりの高さがある中央広場の噴水を意にも介さず飛び越え、クリミア軍の前にその身を晒した。本来飛竜は遠隔攻撃に弱い。あんな場所に姿を現せば、格好の餌食であるはずだ。
 ヨファが矢を番えようとしたのを、シノンが片手で制す。その間も彼は視線をアシュナードから外さない。ヨファも師の判断に異を唱えず、じっと飛竜を注視していた。
 誰もが凍りつく中、ふらりと進み出たのは意外な人物。
「アシュナード……」
 かすれた声で呟き、手綱を握りしめたのは。この国の王女、戦端の被害者――エリンシア・リデル・クリミア。
「久しぶりだな、クリミア王女よ」
 アシュナードはまるで知己に出逢ったように気安く声をかけた。
「その姿、見違えたぞ。あのとき……クリミア国王夫妻を我が手にかけたとき、我を見上げて震えていた小娘とは、とても思えぬな」
「おまえを……おまえを倒すために……戻りました」
 エリンシアは宝剣を強く握る。今まで杖を納めてきた手には、どれほど重いだろう。
 それでも一分もぶれることなく。
「もう、おまえから逃げはしない。これ以上、我がクリミアを好きにはさせません!」
「それは勇ましいことだ。だが、我の相手は……そなたではない」
 アシュナードは中身のない声で笑った。黒竜が大きく羽ばたく。
 エリンシアの芯がいかに強くなろうと、それで体躯までは育たない。細い身体は、風圧で呆気なく天馬から振り落とされてしまう。
「姫!!」
「エリンシア!!」
 多くの悲鳴が上がる中、マーシャが滑り込んでエリンシアを抱き留めた。
 刹那、別の機影が噴水の上部に現れる。ジルだ。ジル・フィザット――かつてデインの盲目なる兵士だった少女。
「うるさい羽虫め。 我が進路を妨げるではないわ」
 一年前のジルならば、その一言で道を空けていただろう。
 だが今の彼女は、自らの信念の為に、かつて仕えた王と対峙している。
「私の父は、王のせいで……死んだ。 デインの民になろうと、懸命に努力したのに……王は、ただ一度も……それを評価して下さらなかった」
 レテも覚えている。ダルレカの民は、侵略してきたクリミア軍が憎いと言った。
 しかしただの一度も、この地に派遣されてきた竜騎士よそものが憎いとは、言わなかったと。
「恨み言か? 後にせよ」
「お願いです! 答えて下さい。 父は……シハラム将軍は……何故、死ななければならなかったんです!? 」
 レテは、答え次第でジルが寝返ると思っていた訳ではない。
 それだとしても。アシュナードの躊躇なく、嘘もない答えは。
「誰だ、それは?  我がデインの将か?」
 ――彼女の最後の忠誠を、どんなにか寄る辺なく打ち砕いたことだろう。
「くだらぬ……とっとと目の前から失せよ」
 倦んだような声に、ジルは口唇を噛み締めて槍を構える。柄を折りかねないほど強く。全身で咆哮する。零れる涙が蒸発するほど熱く。
「アシュナード!  アシュナード!!  アシュナードっ!!  私は……決してお前を許さないっ!  許さないからなっ!!」
「よせ、ジルッ!!」
 アイクが止めたが、地上からどうにかできるものでもない。ミストがレテの腕の中で身を硬くした。
 レテはせめてジルの貫いた正義を見届けたいと目を逸らさずにいた。彼女の槍がアシュナードに届くことはない。だがアシュナードの切っ先もジルの身体を傷つけてはいなかった。
「なんだ、貴様は……?」
 隻眼の竜騎士が、二人の間に身を置いていたから。
「あんたが名も覚えていないような……軍の末端にいた男だ」
 ハールは武器を構えていない。両手をだらりと下げ、背にジルをかばうように飛んでいる。
「クリミア軍に寝返った我が軍の雑兵か? 興味はない。散れ」
 アシュナードは怒りすらしなかった。
 ハールはこの場に似つかわしくない表情で返す。平素でさえ見たことがない――この場面で彼は、笑ったのだ。
「もちろん……早々に退散するさ」
 背後に右手を伸ばす。左手は手綱を握る。竜が啼く。一瞬で間合いを詰める。
「あんたの首、もらえたらなあっ!!」
 力の限り振り上げられた斧は、アシュナードにかすることすらかなわなかった。平たい剣の先端が、ハールの胸部を何気なく突く。ジルの悲鳴だけが響く。
 間に合わない。誰も届かない。ハールは一瞬で破損した鎧を、呆然と見下ろしたまま落下した。石畳に叩きつけられ硬い音が鳴る。ハールの身体は大きく痙攣したきり動かない。
 ジルは狂ったように彼の名を呼びながら、馳せ寄ろうとした。その背にアシュナードが、無造作に剣を打ちつける。自らの飛竜ともつれ合うように、ジルは地へと近づいていく。
 アシュナードは無感情に、その禍々しい剣を振り上げ――。
「やめろ!!」
 切っ先を、アイクに払われた。
 レテは大きく息をつき、ミストの背をとんと押し出す。
「ジルたちを任せた。奴は私とアイク喰い止める」
「う、うんっ」
 エリンシアもマーシャも、ジルのフォローに回っている。ミストも加わって、二人がかりで杖を振ればハールもジルも死にはしないだろう。
 その前にこちらが殺されなければ、だが。
「ガウェインの息子か」
 アシュナードは攻撃行動を妨げられたというのに、不機嫌な様子がどこにもなかった。否、そもそもあれは奴にとって『攻撃』という行為に達していたのか。
 アイクは神剣をぐっと握りしめる。アシュナードが瞳を細めるのが、遠くからでもレテの目にはよく見えた。
「その構え……よく覚えておるぞ。父親の剣技を継いだか。実に良いぞ……」
「狂王アシュナード! この剣で、お前を倒し……戦いを終わらせる」
 アイクの雄々しい宣言ですら、茶番のように白々しく響く。彼がどれほど本気であるのか、レテは痛いほど知っているというのに。野性の本能がやかましく告げる。
 ――アレは、生き物として別格だ。最早、ヒトでは、ない。
 一歩、踏み出す。二歩、速まる。三歩、駆け出す。
 蒼き光に包まれながら、レテは両手を前脚に、両脚をばねに飛び出していく。
「お前が我を、力を以って制するというならば……望むところだ。それこそが我の理想とする、世界の在り方というものだからな」
「……なんだと?」
 前触れなく、アイクのいた地面が抉られる。アイクの身体は中空にある。寸前にレテが首根っこをくわえて跳んだのだ。
「レテ! すま……んっ!!」
 不必要な礼の言葉ごとアイクを放り投げる。着地ぐらい出来るはずだ。そんな不器用に鍛えた覚えはない。
「総員、退がりなさい!! 死にたくなければ近づくんじゃない!!」
 セネリオが怒鳴る。アシュナードの黒い騎竜と大振りの剣ならば、かなりの範囲が奴の攻撃圏内になる。そこに人がいることはアシュナードの戦意に何の影響も及ぼさないが、アイクの自由度はかなり制限される。アイクしか奴を傷つけられないのであれば。託すしかないのであれば。せめて邪魔にならぬよう、遠巻きに祈るしかない。
 その中で戦うことを許されたのは、かなりの幸運であると言うしかないだろう。レテはリィレのくれたリボンを揺らしながら、アシュナードと対峙した。
 正直を言えば、カイネギス王以上の圧迫感であった。畏怖ではない。自らが王と戴く者が最強であると、レテは固く信じている。
 そうではなく。アシュナードからは、『相手の意志を折ろう』とする意思を、相手を屈服させることだけに特化した威圧を、刺さるように感じる。
 別格の生き物、ヒトではないと先程レテは思ったが、それすらも正確ではなかった。
 最早、イキモノですらない。この存在は、純粋なほどの、害意――それだけで、出来ている。
「獣、牙、族、か」
 歪めた口唇の奥に鋭い歯が覗く。レテは紫の目を大きく見開く。
 瞬きさえも出来はしない。そんな隙など見せられない。
 狂王は、現時点をもって、興味の対象をレテに切り替えた。
「貴様の相手は俺だっ、そいつに手を出――!!」
 アイクの声は飛竜の風音でかき消される。レテは脇目も振らずに走り出した。噴水を迂回し、中央階段を駆け上がる。デイン兵が悲鳴を上げて道を空ける。
 それでいい。余計な血は流したくない。その為に、集団から距離を取っているのだから。
「どうした? それではまるでお前たちの狩る鼠ではないか。獣なら獣らしく噛み付いてみせよ!」
 レテの眼前で、ハールが落ちた衝撃にすら耐えた石畳が、菓子のように容易く砕けた。刃に圧されて足を止める。頭をもたげて見上げる狂王の姿は、最初の対峙よりもおおきく見えた。
 レテはぎりと奥歯を噛む。
 鎧は女神の加護があるという。だから普通に攻撃しては傷がつかない。
 だったらどうする。どうすればいい。
 そう、では、鎧のない箇所はどうだ。

 たとえば、
 その、
 腸が煮えくり返るほど
 憎たらしい笑みの貼り付いた
 邪悪で
 不愉快
 極まりない
 顔とか。

 レテは吼えた。助走なく高々と跳躍し、黒い竜に飛び乗る。後ろ脚で身体を跳ね上げ、とてもつまらなそうな色をした左目を深々と抉るように爪を。爪を……。
 ――とても、つまらなそうな?
「……ぁ、ぐ……!!」
 くぐもった悲鳴を上げたのは、人としての声帯だった。
 脇腹を払われたときに化身が解けたのだ。地面に叩きつけられる。すぐに上体を起こす。傷口が熱い。見ると、繋がっているのが不思議なぐらい血が出ていた。
「それが全力ではあるまい、獣牙族? その体内に宿る、強大な力を眠らせたまま、死んでゆくことは許さぬぞ。もっと怒れ! もっと憎め! もっと猛り狂ってみせるのだ!!」
「ハ……ッ」
 アシュナードが興奮しているので、レテも状況を忘れて笑ってしまった。
 バケモノめ。伊達や酔狂でラグズを挑発しているのではないのだから、笑うしかない。一体どうしてくれたものか。
 ふと、下半身に感じていた鉛のような重さがなくなった。誰かが遠隔の杖を振ってくれたらしい。安堵に顔を上げると、アシュナードの左眉からも血が流れているのに気が付いた。
 傷。あのバケモノに、傷をつけたのか。だが驚愕も束の間、見間違いのようにアシュナードの血の跡は消えてしまう。レテと同じように、遠隔回復を受けたのだ。
 これで振り出しかと、レテはうんざりしながら腰を上げる。
 しかしアシュナードは襲ってこない。レテから顔を背け、急に飛竜を反転させた。
 何故と感じる間も、好機と襲いかかる間もなく、断末魔が響く。悲鳴の主は、アシュナードを回復させた神官だった。
「つまらぬ水を差すな下郎。ようやく興の乗る相手を見つけたかもしれぬというのに……それとも貴様、この我があの程度の傷を憂えて負けるとでも?」
 嘆願の言葉は、苦痛に潰れて聞き取れない。
 歪な剣は命を奪う為でなく、尊厳を蹂躙する為に肉を裂く。作業の様に振るわれる。
「やめろと――言ってるだろォッ!!」
 激しい声。ラグネルの描く美しい軌跡が、太陽を背負い降りてきた。
 アシュナードは血塗れの刃を横薙ぎに振るうが、アイクは空中で身を捻る。
 神剣の先が、確かに。からからと、黒い鎧に痕を刻む。
「ほぅ」
 アシュナードが感嘆の息を漏らす。アイクは集中していて、最早レテを気にしてはいなかった。
「神官を殺したこと、後悔させてやる。これから先、俺のつける傷を癒す者はもう誰も、いないぞ」
 彼の背中から闘志が立ち昇るのが見える。だがアイクは、アシュナードの術中にはまってはいない。
 我を忘れることなく、底冷えするように静かに、正しく、怒っている。
「天は貴様のものじゃない。すぐにそこから……引きずり下ろす」
「よくぞ吼えた、小僧!」
 アシュナードは大笑し、左手に手綱を、右手に剣を、握り直した。
 戦意、ではない。こんなにも殺意に――それでいて喜悦に満ちた異常な笑みを見たのは、レテも初めてだった。
「ならばお前を倒すまで目移りは控えてやろう。せいぜい我を楽しませよ、神剣使い」
「ほざけ、狂王!!」
 音を超えるがごとき速さの突進を、アイクは逆手に構えたラグネルで受けた。わずかに後退しただけで防げている。
 だがあの体格差では、いくらアイクでも止め切ることは出来ない。脇に流す。アシュナードもそのまま身体を開くほど未熟なはずもなく、凶刃はアイクの頚動脈を寸分違わず狙う。アイクはもう元の場所にいない。片足を軸に半回転し、遠心力でそっくり首を目指すが騎竜の爪にすらかすらない。再びの降下に合わせて突き上げる剣はアシュナードの髪を数本ばらしたに留まり、アイクは自身を襲う刀身こそ避けたものの広がった刃先で頬を切った。
「こんな……ものじゃ……」
 指で具合を確かめることすらせず、アイクの両手は柄を強く握り込んでいる。両目の炎を一層蒼く燃え盛らせている。
「お前が無造作に踏みつけていった人たちの痛みを、俺は忘れない……。全ての痛みを、穢れたその身に叩き込むまで、俺は絶対に引かない!!」
「ふん。何を言い出すかと思えば。ここにあるのは我とお前、二つの強者がぶつかり合うという真実だけ。路傍の塵のことなど持ち出すに値せん」
「その塵とやらの想い、軽く見るな!」
 アシュナードの一撃は確かに重かったろう。体躯、飛竜の勢い、得物の大きさ、何もかもを一閃に込める。いくら育ったとはいえアイクの腕でそうそう受け切れるものではない。
 哄笑と共に落ちてくる刃を避け切れず、肩に、腕に、腹に、喰らうこともあった。けれど見る間に、切れた肉は張り詰めた肌に戻っていく。アイクは一人ではない。癒す光がある。傍らになくとも支える手がある。癒し手を殺し、独りを選んだアシュナードとは違う。
 防戦一方に見えた剣戟も、やがて互角へと変わる。アシュナードが弱くなったのではない。むしろ速度は増している。それを上回る勢いで、アイクが進化しているのだ。
 戦いながら。血を流しながら。いつの間にかこの広い庭に響き渡る、自らを望む声に応えて。
 ラグネルが絡まりアシュナードの身体が泳ぐ。アイクがすかさず剣を引き、横に払う。女神に祝福されているはずのアシュナードの鎧に、今度こそはっきりと傷がついた。
 開いたままの胴体。そのまま、アイクが一際深く踏み込む。
「ア、シュ、ナードォォオオオオッ!!」
 破砕された金属は、自らの持ち主を見限るように神剣の切っ先を受け入れ、ぼとりと地面に落ちる。確かに生命を失うほどの血液が飛竜の背を塗らした。
 あれほど大きかった声が今はない。
 赤に染まる石畳。沈黙したアシュナード。刺さったままのラグネル。
「終わっ、た……?」
 少し呆気ない気もするが、きっと終わるときなどこんなものだろう。空気が弛緩したのを感じる。
 クリミアも、デインも、これで戦の運命から解放されたのだ。
「アイク――」
 レテたちが、アイクの元に駆け寄ろうとしたとき、だった。
 神剣を引き抜こうとしたアイクを、他の誰でもない――アシュナードが、押し留めた。
「まだだ。まだ……お前の力、見尽くしておらぬ」
 握り締められた黄金の刀身から血が滴る。贄のように。
 アイクは柄を掴んだまま動けない。
「……何をする気だ?」
「今こそ、これを使う時ぞ……」
 レテの位置からは見えない。だが、何を取り出したのかは分かった。
 大地が鳴動する。閃光が奔り、アシュナードを見失う。とっさに見上げた空は鮮血よりも紅い。
 狂王の手にあるのは、炎の紋章メダリオン――。
 ――大陸中を戦火に晒し、負の気で育ちきった邪悪な蒼炎。
「逃げろっ! 逃げるんだ、みん――!!」
 アイクの声が聞こえたが、途切れた。
 無事に神剣を引き抜けたのだろうか? 随分と勢いよく飛び退いて――。
「え……?」
 違う。レテは身体を強張らせ、アイクを目で追う。
 彼は、後退などしていない。ただ神剣ごと弾き飛ばされた。そして獣牙族でも一息では届かない距離を行き、優美を極めた噴水に背中からぶち当たる。
 支柱が崩れる。肢体が力を失う。瓦礫と共に落ちる。飛沫を上げて水に沈む。
 溢れる透明な液体の中で。衣服と髪を流れに揺らしながら。真っ白な肌で目を閉じて。
 指先一つも、動かない。
「アイクッ!!」
 悲鳴を上げられた者の方が少なかっただろう。恐怖を自覚すら出来ずに立ち尽くす兵たちの前で、アイクは全身を不吉に濡らしたまま横たわっている。
 一番近くにいたレテが駆け寄った。それでも速くは走れなかった。化身もせずに、つまずきながら、まるで倍以上の距離を走ったように無様に転がり出た。
 水の中に両膝を沈めて、アイクの筋張った首に触れる。生きている。弱々しいがまだ息がある。しかし酷く冷たい。早く引き上げなければ……。
 レテはアイクの脇の下に腕を通し、意識のない彼を立たせようとした。
「捨て置け。先程の続きをしようではないか、猛り狂えよ……獣牙族」
 地を這うような愉悦の声。レテがアイクを抱えて振り向くと、死蝋を思わせるモノが二人を見下ろしている。
 土気色の肌。生命の光を宿さない瞳。筋の浮き出た枯れた手で、刃こぼれした剣を握っているのは。
 間違いなく、先程アイクに殺されたはずの男。腹に風穴が開いたままの、アシュナードだった。
「邪神の負の気に……呑まれていない?」
 思わず呟く。アシュナードは、口唇の端を吊り上げてメダリオンを掲げた。
「我にとっては小さきことよ。この程度で正気を失うとは、ガウェインも底が知れるというもの」
 レテは奥歯を噛み締める。
 ライと違って、アイクの父と直接面識がある訳ではない。けれど彼を育ててきたもの、彼の信じてきたものを蔑まれることは、彼自身を侮られるのと同じくらい許しがたいことだった。
 化身の石を後ろ手に取り出す。何故こいつが動いているのか考えるのは後だ。
 死なないのなら死ぬまで殺すだけのこと。今は確実に、この男を止める。
「先約がある。私の本気は、貴様ごときに見せてやるほど安くはない。アイクをくれてやるまでもない……私の手で死ね、アシュナード」
「ふん、存分に驕れ。その増長ごと摘み取ってやる」
 アシュナードが手綱を引く。メダリオンの光で色を変えた飛竜が羽ばたく。レテを貫く為の距離を取る。
 見上げた空は赤黒い。レテは化身の燐光に包まれながら、きっと世界が終わるときには、こんな色を見るのだろうと思った。
「待ちなさい!!」
 ――そんな景色の中でさえ、目の前に広がった翼の白いことよ。
「まだいたか。我の相手は、お前などではないと言ったはずだが」
 エリンシアが。このクリミアの気高き王女が。震えながら。泣きながら。
 それでも誰より前に立って、全ての民を背負っている。
「私は、父を、母を、叔父を……そして我がクリミアの民の命を、おまえに奪われた……。これ以上何も奪わせはしません。我々の希望に――アイク様に、指一本触れさせるものですか」
 最初にクリミア遺臣が動いた。グレイル傭兵団が続いた。アイクについてきた無所属の者たちも。
 ライにつられるようにガリア兵が寄ってきた。鳥翼族が飛んできた。鷹も鷺も、鴉さえいる。竜鱗族も。
 ベグニオンの友軍の姿もある。少ないが、デインの残党でさえ。
 一人ずつ、ゆっくりと集まって、やがて皆が半円状に並んで。
 エリンシアと、アイクをかばう盾となる。全ての民が、二人を守護することを選ぶ。
「我の創る世界では、力を持たぬ者は生きる資格がない。早々に滅するがいい。弱き者よ」
 アシュナードは、彼らごとエリンシアを弾き飛ばすつもりらしかった。
 レテは、前脚になりゆく腕でアイクを抱きしめる。橙の毛に覆われゆく顔をすり寄せる。
 エリンシアは、弧の頂点できっぱりと宣言した。
「弱き者など、ここにはいません。いるのは、力に溺れた愚か者の、おまえ一人です」
 王女は戦う。最早剣すら持たず。両手を広げ、全霊を懸けて希望を護る。
「覚悟なさい、アシュナード! 我々は二度と負けない!!」
 レテはその声を聞きながら、アイクの頬をそっと舐めた。冷たい肌に温もりを取り戻すように。
 目を覚ませ。皆がお前を待っている。お前が皆を護るのだろう。誰も死なせはしないのだろう。
 長い睫毛の先の水滴を吸う。
 信じている。こんな空の下でさえ。お前という蒼を塗り替えることなんて、どんな色にも出来やしないのだから。
 帰っておいで。私たちのところへ。
 もう終わりにして、もう一度笑って。必ずまた手を繋ごう。
 今はこんな前脚で、指を絡めることすら出来ないけれど。
 やわらかな口付けを交わすことさえ、通じる言葉をかけることさえ出来ないけれど。
 それでも私は、世界に懸けて伝えよう。

『あいしているよ アイク』

「――ぁ――」
 白い喉が、かすかに、動いた。
 エリンシアたちをものともせず、突進してくるアシュナード。 
 レテはアイクの身体を離し四本の脚で地面を踏みしめる。
 我が身は最後の盾。彼が立ち上がるまで、総身をもって守り抜く。噛み砕く気で牙を剥く。顎を斬り落とされても止めてやる。
 頭上に迫る凶刃を瞬きもせず見上げた。
 鈍い白銀に――黄金の閃光――。
「……待たせたな」
 聞き慣れた声に、見慣れた背中。輝く神剣が、レテを襲うはずだった刃の行く手を阻んでいる。
 アイクの生きた証である鮮血と、クリミアの清澄な水が混ざり合い、薄紅となって足下を濡らす。聖なる光に少しずつ蒸発していく。
「この期に及んで、何の為とかはどうでもいい。その切っ先を二度と誰にも向けられぬよう、俺が貴様を必ず倒す」
 レテは息を止めて、揺れる薄青色の外套を見つめていた。
 空は誰にも区切れない。海は誰にも飲み干せない。
 あの青い髪は、蒼い瞳は……誰にも、支配出来ないのだ。
 彼はそういう運命に生まれ。その運命すら超えて、息をしているのだから。
「これで終わりだ、アシュナード!!」
「面白い、今度こそ幕を引いてやるぞ、聖剣使い!!」
 アシュナードは高度を取る。黒点にしか見えぬほど高く高く。
 アイクは地上で待ち構える。足を引き、姿勢を低くする。アシュナードの滑空に合わせて、飛び出していく。
 何合目かも分からない剣戟の音。
 力任せに見えて狡猾な太刀筋に、力比べに見えて精密な太刀筋。
 激しく、無骨に、昂る金属の叫び。試すような、踊るような体裁き。
 風と火花。闇と光。邪と正。歪ながら強靭な意志と、折れも曲がりもしなかった信念。
 長い時を費やした暗い野望に、生まれて間もない眩むほどの希望。
「存外に楽しめた。そろそろ引導を渡してやろう」
 アシュナードが手綱を引いたとき。
「させるかッ!!」
 アイクが、アシュナードの騎竜に飛びついた。騎竜が嫌がり身を振るう。アイクは必死でしがみつく。
「無様な方を選ぶなら止めはせん!」
 アシュナードが右手の剣を振り上げた。アイクは両脚が浮き、両手もふさがっている。
 甲高い悲鳴がいくつも上がった。レテは咆哮しながら駆けた。天馬が並走してきた。
 間に合う。絶対に間に合う。
 何故なら、アシュナードはたった独りで。アイクは、決して独りではないから。
「アイク様ッ!!」
『アシュナードォオオオオッ!!』
 ――かつて、こんなに高く跳躍したことはなかっただろう。
 こんなに硬いものを噛んだことだってない。牙の折れる音も初めて聞いた。
 デイン国王の籠手はとても不味かったけれど。
 その動きを一瞬でも止めたことは、一生の誇りに出来る。
「こ、の、獣ッ!!」
 振り落とされたレテの身体は、弧を描いて地面に近づいていく。
 それでも、見た。
 エリンシアの天馬を足がかりにして、アイクがアシュナードに肉迫するのを。
 雄叫びと共に振り下ろされた神剣が、狂王の首を落とすのを。
 赤黒い空が切れ――隙間から、真っ白な、光が――注ぐのを。
(ああ――)
 レテは目を閉じた。背中に衝撃。身体が一瞬浮き、もう一度硬い石に叩きつけられる。
 穏やかな気持ちで身を横たえたままでいる。
 今は痛みさえ愛しい。
 世界は。自分が信じていたより、ずっと、もっと。
 美しかった。
「レテ……!!」
 ゆっくりと、瞼を上げる。
 あの日と同じ濡れた青い髪。きっと初めて見たときから惹かれていた青が、視界いっぱいにある。
 アイクは跪いて、レテの瞳を覗き込んでいる。とても戦いに勝利した男の顔には見えない。仕様のない奴だと思いながらレテは、痺れた右手をどうにか持ち上げる。
「おかえり」
 それで限界だった。力をなくし落ちようとする手を、アイクが両手で握り締める。震える肌越しの体温が心地いい。
「ああ。ただいま」
 射し込む光が王都を照らし出す。
 凍っていた空気が熱を帯びる。
 息を潜めていた命が芽吹き出す。
 歓びが、溢れる。

 この日、クリミアは大陸史に残る勝利を挙げた。
 後に語り継がれる、『蒼炎の勇者』の伝説の、鮮やかな一頁となった。