第五章 春風とともに - 3/3

SIDE Rethe

 

 

甘やかな禁忌

 

「あんたがレテか?」
 オルリべス橋陥落後。レテは砦を出際に声をかけられた。どれ退屈しのぎに敗残兵がいないか今一度確認してみよう、と思っていたところである。
 話しかけてきたのは、背が高く体格のよい男だ。デイン兵を連想させる黒い鎧を身に纏っている。
「貴様は……四駿を倒したというダルレカの竜騎士か?」
「ああ。ハールという。別段覚えるほどの名じゃあないが」
 ハールは眼帯のせいで左しか見えない目で、気だるげに長い瞬きをした。死角を補うように、宵色の竜を自分の右側に従えている。ジルの竜より年嵩らしい、大柄で雄々しい竜だ。
 落ち着き払った相棒と同じ余裕で、ハールは淡々と言葉を継ぐ。
「ジルが世話になったそうだな」
「別に。私はただ、問われたことに答えただけだ。あれは強さを自身で見つけた。世話で芽生えたものだと思われているなら、私も心外だ。我々に対する大層な侮辱だと思うがね」
 レテは腕組みをしながら答えた。ハールは右腕でゆっくりと右腕で竜の首を自分の側に寄せ、頭を預ける。
「確かにあんたみたいのが傍にいりゃ、世話はなくとも勝手に育つわな」
 そのまま重心をずらして、竜の身に着けている袋に手を伸ばした。ごそごそと何かを取り出し、レテに投げて寄越す。
「礼だ。口に合わなきゃ誰かに回してくれ。邪魔したな」
「な――」
 何だこれは、とレテが反射で受け取りつつ問おうとすると、ハールは今までのだらしない振る舞いが嘘のように素早く竜に跨り、飛び去っていった。
 すぐに、別の羽音がレテの耳に届く。
「ハールさん! ハールさんたら、やましいことがないんだったらどうして逃げるんですかっ、もう!!」
 ハールの騎竜より軽いそれは、ジルの騎竜のものだった。
 レテが下から手を振ると、ジルは先ほどまでハールが立っていた位置に下りてきた。随分機嫌が悪そうだ。
「どうした、ジル?」
「……ちょっと、色々」
 ジルは口唇を尖らせた。このところ硬かった顔が、歳相応の少女のものになっている。
 レテがそのことを口にしようかどうか迷っていると、ジルがレテの手元を見て尋ねた。
「お酒?」
「これは酒なのか?」
 逆にレテは聞き返した。手の中の瓶は、言われてみれば飲み物の容器のようだった。
 ガリアでは酒は樽に入っているものなので(もっともベオクも酒樽は使うが)、レテはこの意匠を凝らした瓶が酒であるとは思わなかったのだ。
「ハールという男に渡された。口に合わなければ他の者にやれと言ってな」
「戦場で女の子にお酒を贈るなんて、一体何を考えてるのあの人っ!」
 ジルはすごい剣幕でレテの手から酒瓶をひったくる。が、そのラベルを見ると、急に大人しくなってしまった。
「――このお酒、ハールさんは何て?」
「特には。お前の話をした後、礼だと言って置いていった」
 唐突に、ジルの頬を一粒の雫が伝っていった。ジルはじっと瓶を見下ろしている。
「これ、父上がお好きだったお酒だ。誰かが結婚するとか、子供が生まれたとか、そういう特別なお祝い事のときだけ飲んでいた。私の誕生日にも毎年、嬉しそうに……」
「そうか」
 レテは、ハールとジル、ジルの父とハールの関係について、詳しく知っている訳ではない。詮索する気もない。
 しかしハールがかつての上官にまつわる物を、その娘自身ではなく娘の恩人に手渡そうとしたことの意味は、何となく解った。
 アイクとミストの兄妹にやる方が筋は通る気がするのだが、いかんせんあの二人はまだ子供だ。それでレテを選んできたのかもしれない。
「なぁジル。撒こうか、それを」
「え?」
 ジルが顔を上げる。涙の名残に光る紅の瞳を見ながら、レテはジルに近寄り、瓶を持つ細い指に自分の手を重ねた。
「ダルレカまでは戻れないが……せめて川に撒こう。そうすれば、いつか風や雨になって、きっと父君の喉を潤すだろう」
 ジルは小さく、だがはっきりと頷いた。
 騎竜に乗せてもらって(レテは重いのではと心配したのだが、竜はさして気にしていない様子だった)、渓流の上で酒を撒いた。
 騎手が自由にさせているものだから、竜は旋回したり上下に揺れたり、気ままに遊んでいた。その度に、瓶からこぼれた酒は金色の粒になって宙に舞う。
「レテ、ありがとう」
「何が?」
「……ううん。何でもない」
 ジルの声が震えているのは、きっと竜の動きのせいだろう。そういうことにしておく。
 レテは眼下の川を覗き込んだ。
「高いな」
「うん。落ちたら死んじゃうから気をつけて」
「こんなに高いのが、いつもお前の見ている世界なのか。なるほどこれなら広く見えるな」
「うん。……でも広いのはいいことばかりじゃない」
 酒がなくなった。瓶はどうすると問うと、捨てていいとジルは答えた。
「見える? 下にあるものはみんな小さい。降りてみないと分からないことの方が多い」
「ああ、そうだな。たまには地面にいてくれないと、私はお前の顔も見られない。それではあんまり寂しいだろう」
「うん、そうだ。私もレテやミストの顔が見られないと、寂しい。だから飛んでもちゃんと帰ってくる」
「そうか。よかった」
 レテが放った空き瓶が放物線を描き、やがて重力に従って落ちていく。戻ろう、とジルが笑って振り向いたので、レテは首を縦に振る。
 ジルの世界がこんな風に高さを取り戻したのは、きっと地を駆ける自分のためではない。
 もっと高く飛ぶ者の背が、彼女を引き上げたのだ。そのうえで、帰ってくると彼女は言った。だからレテはその言葉を信じていればいい。
 雨の匂いを含んだ風が吹いていた。別働隊はまだ、帰らない。

 

 ほどなくエリンシアたち別働隊が戻った。クリミア軍は歓喜のままに進軍を再開する。勢いに乗って、立ちはだかるデイン兵を撃破し、デルブレーの領主ジョフレ将軍や、フェール伯ユリシーズとの合流を果たした。
 エリンシアは泣いて喜んでいたし、レテとしては別段問題があるとは思われなかった。
 この先のマレハウト山岳を越えれば、ガリアの勇士たちがそこに待っていると言う。いよいよ戦いは終焉に向かい、レテにとっての祖国も近づいてきた。
 別れという言葉も現実味を帯びて響く。何も永久の離別ではないだろうに、と自身に呆れつつも、レテは望んでいるはずの帰郷が少しだけ疎ましかった。
 当てもなくデルブレー城を歩く。ベオクたちは、ささやかながらも祝宴の真っ最中だ。
 他のラグズはどこへ行ったのか分からないが、何食わぬ顔で輪に加わっているか、レテのようにするりと抜け出しているのだろう。
 どっと笑う声が遠くから聞こえた。松明の火が揺れている。何もかもが幻のような浮遊感。このままでは戻れなくなりそうだ。馬鹿げた錯覚から逃れようと、部屋に戻る為レテは振り向いた。
 ふと、音がする。石に何かがぶつかる音。かかとで鳴らす足音。
 長年共に在ったわけでもないのに、もう懐かしさすら感じる匂い。
 アイクだった。疑いようもないほど彼だった。レテの目の前で、行く手を阻むように立っている。
「レテ」
 アイクはそう一言彼女の名を呼んだきり、眉を寄せて黙っていた。
 レテが訝しく思って彼の方に一歩踏み出すと、急に手首を掴んで引き寄せられる。
「ちょっ……」
「――鍛錬を」
 狼狽するレテの耳元で、アイクが切迫した声で呟く。
「鍛錬を、しないか」
「はぁ!?」
 レテは思わず声を荒げてしまった。手を振り払おうとしたものの存外に力が強くて抜け出せない。
 余計むきになってレテは怒鳴る。アイクが勢いよくそれに返す。
「どこで!」
「ここで!」
「どうやって!」
「篭城戦の訓練!」
「二人で!?」
「そう!」
「馬鹿か!!」
「だろうな!!」
 二人共、何もしていないのに息が上がってしまった。
 すまん、と言いながらアイクはレテの手首を放した。何となく気まずい空気の中、レテは赤い手首をしきりに擦る。
「『アイク将軍』は、今夜の主賓も同然だろう? よく解放されたな」
「勝手に抜けてきた。宴の雰囲気は嫌いじゃないが今はそんな気分じゃない」
 アイクは陰鬱な声で答えた。頭でも痛むのか、手の平を額に強く押し付けている。
「あんたの声が無性に聞きたくて……でも何も話題が浮かばなかったから、引き留めたくて馬鹿なことを言った」
 口にしたときは馬鹿言ってるつもりはなかったんだが、と最後に付け加え、アイクの口唇は少し尖った――ように見えた。
「本当に馬鹿だな。それなら『話したい』と一言でも告げてくれれば、私だって一緒に話題を探すことぐらい出来たろうに」
 レテはそっとアイクの手を取る。アイクは眉を寄せて、レテの手を握り返した。
 いつもあたたかい彼の手が、今晩はひどく冷たい。やや熱を帯びた自分の頬まで持ってくる。肌に触れると、ひやりとして気持ちよかった。雪の頃より血の気のない手に、少しでもぬくもりが伝わっていればいいのだが。
 口唇の擦過音がする。アイクが何か言おうとして口を開いたようだ。短い呼吸の後、アイクの喉が震えた。
「なぁ、レテ。俺は――」
「あ、いたいた! 全く急にいなくなるなよ将軍、みんな困ってたぜ?」
 しかし言い終る前に、ライの声がそれを遮る。随分呑んだらしく顔が上気している。
 アイクは、寄ってきたライが腕を回そうとするのを煩わしそうに払った。
「今レテと話をしてるんだ。後にしてくれ」
「だったらレテも一緒に来ればいいじゃーん。なぁレテ?」
「私は……遠慮しておく」
「そう? 残念」
 レテが一歩下がるのをさして気にした様子もなく、ご機嫌のライは今度こそアイクの首を捕まえる。
「さぁさぁ行こうぜ、エリンシア姫が心配してる。じゃあなレテ、ゆっくり休めよ」
「待てライ、行くとは言ってない!」
 本気を出されたら、アイクの抵抗も虚しいものだろう。
 引きずられていくアイクの背中に、また後で、と声をかけたつもりだが、あの調子では聞こえていたかどうか。
 強いて引き留めることは出来なかった。クリミアの光を守護する英雄アイク将軍が、祖国再興を信じて戦ってきた勇士たちにとって、どれだけ大きな存在であるかはレテも十二分に解っていたからだ。
 後ろ髪引かれる思いで部屋に戻る。やることもないので少し眠った。
 廊下がにわかに騒がしくなってきて、目を覚ます。戦場の宴もお開きとなったらしい。起きて手ぐしで髪の乱れを直す。
 すぐにはアイクにも会えないだろう。あの性格だから、気疲れのあまり寝てしまっているかもしれない。
 しかし後でと言ったものは実行しないと、彼にも自分にも不誠実である。起こさなければいいがと思いながら、レテはしばらくしてからアイクの部屋のドアを叩いた。
 ややあって少年が扉をわずかに開ける。レテだということを確認してから中に招き入れてくれた。
 バンダナを外した素足の彼は、いつもより数段幼く頼りなく見えた。
 部屋は元々貴人用に作られたものらしく、次の間があり――このせいでレテが気付いてもらうのに時間がかかった訳だが――内装も豪奢というほど下品ではなく優美で、賓客をもてなそうとする領主の心が伝わってくるようだ。
 アイクは何も言わず、天蓋つきの寝台に腰を下ろした。レテは少し迷って、彼の正面にある椅子を引いて座る。
「……さっき、話が途中だっただろう。何か私に言おうとしていなかったか?」
 アイクは黙って、力なく首を横に振る。いつか、食欲がないと言っていた夜と同じような様子だった。
 平時の彼は相変わらず堂々として図太いほどで、不安など微塵も表さない。疲れ果てた姿を見せてくれるということは、レテを信用してくれていると捉えることも出来なくはないが、事が事だけに喜ぶ気にはなれなかった。
「虫のことか?」
 アイクはまた、大儀そうに首を振った。そのまま沈黙が訪れる。
 レテが痺れを切らして腰を浮かしかけたとき、アイクはようやく口火を切った。
「寝つきが――」
 かすれた声で言いながら、床をじっと見つめている。俯いた顔は、鏡のように磨かれた石に映り込んでいた。しかしレテの位置からでは、表情までは読めない。
「寝つきが悪いんだ。せっかく寝ついても眠りが浅くて、すぐ目が覚める。朝がひどく遠くて、このまま夜は明けないんじゃないかと毎日怯えて……」
 レテは小さく喉を鳴らした。自分の顔から血の気が引いていっているのは気付いている。
 何者をも恐れぬ眼光で全てを睥睨するアイクが、よりによって『怯え』という言葉を口にのぼらせた。それは少年の心にどんなに暗い影を落としているのだろう。傷つくことも不確かな未来も恐れない、獅子のように勇壮な少年の心に。
 アイクはそれを追い払うかのように、強くかぶりを振った。
「いや違う、俺はそんなことを相談したいんじゃない」
「別のことならそれはそれで聞く。しかし、満足に休めないことは『そんなこと』で片付けていい問題ではないだろう」
 悠長にしていてはアイクはまた話題を逸らすと思い、レテは畳み掛けるように尋ねる。
「傭兵団の皆は知っているのか? ミストやティアマトや――」
「セネリオは知ってる。原因までは誰にも言ってないが、俺が不眠気味なのはバレていた」
「『言っていない』ということは、お前自身は原因を『自覚している』んだな?」
 答えないということは図星なのだろう。だがそれを指摘出来ない。
 出会って間もない頃のレテならば、無理にでも全てを聞き出そうとしただろう。今は違う。言いたくないのならそれでいいし、それでもレテに何かしてほしいと言うのなら、出来る限りのことで支えてやりたかった。
 レテがじっとアイクの発言を待っていると、唐突に風斬り音のようなものが聞こえた。
 思わず立ち上がる。この耳障りな高い音は、アイクの喉笛から鳴っている。引きつるようにアイクの肩が震える。レテは駆け寄ってアイクの身体を抱いた。アイクは右手で胸元をきつく握り締めて、ひどい汗をかいている。
 ――レテはこの症状を見たことがあった。リィレが出て行った直後、母親がよくこういう状態になっていた。医者には息の吸いすぎだと言われた。心にあまりにも大きな負荷がかかると、このように呼吸が乱れるのだと。
 アイクが同じ状態になっているということは、彼の心も同様かきっとそれ以上の重荷で潰れそうになっているはずだ。しかしそれを取り除くのは後でいい。今は一刻も早く、アイクを落ち着かせなければ。
 レテは部屋を見回した。対処法は自分の呼気を吸わせてやることだったはずだが、そんなに都合よく袋のようなものが転がっているはずもない。何か代わりにならないかと焦っていると、右肩に鋭い痛みを感じた。アイクが左手の爪を立てていた。
「くる、し……」
 蚊の鳴くようにか細い声。震える身体。
 今、少年のすがりつけるものは自分しかいないのだ、とレテは自覚し、息を呑んで心を決めた。
 不規則に上下する顎を右手で掴み、苦しげに開閉される口に自らの口唇を押し付ける。暴れそうになるアイクを左腕一本で何とか押さえ、波が去るのをひたすら待った。
 鍛え上げた体躯の中で、この口唇の何とやわらかく、弱々しいことか。
 レテの呼気を吸って痙攣した喉は、やがて安定を取り戻し、レテの肌に食い込んだ爪もふっと外れていった。
 深い蒼色の瞳を閉じて、アイクは意識を手放したようだった。
 心配になって口許に耳を寄せる。小さいながらも、落ち着いた規則的な寝息が聞こえてくる。レテもようやく息をついて、アイクの身体を正しく横たえてやった。
 華奢だ華奢だと思っていたが、この一年で随分体格がよくなったようだ。これならいずれ、レテには抱えられないばかりか、レテのことを抱き上げてしまうぐらいに成長するかもしれない。
「ジルといい、アイクといい……ベオクというのは心も身体も、早足に大人になるものだな」
 指の背でアイクの顔に触れる。女のように滑らかだった顎に、ちりちりと肌を刺すものが生え始めている。
「どうしてそんなに生き急ぐんだ、お前たちは」
 アイクは健やかな寝息を立てるばかりで答えない。
 それでいい。レテとて、やっと寝付けた彼を起こす気などない。ただひどく胸が痛かった。
 いつかアイクはレテを置き去りに、老いて逝ってしまうのだろう。それはレテに不慮の事故が起こらない限りは覆せない、自明のことだ。なのに何故こんなにつらいのか。息が止まりそうに苦しいのか。
 理屈は分からない。けれどこの甘やかな疼きを、彼女の心は知っている。長い間なかったことにしてきた、この感情の名を。
 レテは寝台に腰かけ、力なく置かれている彼の左手を取った。薄紅の頬に彼の手の甲を押し付ける。
「アイク。私はお前を失いたくない。立場以上に……ひととして。私として」
 呟いたそばから熱い雫が彼の手を伝って手首を濡らし、肘まで滑り落ちていく。
 どう転んでも喪失しかない恋。女神の掟を破る禁忌。だから聞こえる場所では言えないけれど。
「お前が、好きだよ……」
 デルブレーの夜は静かに更ける。泣き濡れる少女のことなど、素知らぬ態で。

 

To SIDE Ike

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