第五章 祖国へ - 2/3

 

SIDE:Ike

 

帰郷

 

「散々だったな……」
「ああ……」
 アイクとライは砦の門扉の傍に座り込み、空を仰いでいた。
 東には先程突破したばかりのオルリベス大橋。渡ったときのことは、既に思い出したくない。
 落とし穴というセネリオの推察はやはり当たりで、アイクは名軍師を誇らしく思うのだが、策は読めても具体的な位置まで割り出せる訳ではない――それを行い得る人材は手放してしまった。天馬と飛竜の目、獣牙の鼻と耳。頼みに出来るのはそれだけだ。
 そんな中、ライが誤って落とし穴の縁に足をかけてしまった。化身をしようとした瞬間のことである。淡い光を放ちながら沈んでいく身体が、残されたように空をさす腕がやけにゆっくりに見えて、アイクは思わず手を伸ばしてしまった。
 しかし獣牙族は総じて重い。小柄なレテさえも支えきれないアイクが、いくら華奢なきらいがあるとはいえ、成人男性であるライを引き上げられるはずがなかった。もつれ合うように落下した二人は、それぞれ背中と胸を強打して、底に敷かれていた麻痺毒の粉末を肺一杯に吸い込んだ。
『お前まで、落ちてどうする、アホ……ッ』
『仕方、ないだろ……とっさに手が出てッ……』
 舌はかろうじて動くものの、腕を動かすことすら難しかった。これではとても、頭上からの攻撃に耐えられない。
『よーし出番かぁ!? マーシャちゃん、おれの勇姿しっかり目に焼き付けといてくれよなぁ!!』
 こと防衛線にかけては他の追随を許さない最強の『壁』、ガトリーがすかさずフォローに入ってくれたのが幸いだった。
 化身したレテもアイクたちの前に留まって――。
『レテって……たった今化身を解いて、下がったばかりじゃなかったか……?』
 アイクがそう呟くと、ライはさっと顔色を変えた。
『一度退けッ、レテ……! オレたちなら問題ないから……!!』
 切れ切れにかすれた声で言う。レテにその言葉は届いているのか、いないのか。
『後退しろ、レテッ!』
 アイクも痛む肺を震わせて叫んだ。それでもレテは動かない。どころか、いつか見た赤い宝石を――。
 アイクは雄叫びを上げながら立ち上がった。
 罠? 麻痺? 毒? 知ったことか。彼女を喪う恐怖と比べれば。もう何も、その動きを阻めはしない。
 ライも口汚い罵倒で自らに鞭打って、両の足で地に立った。
 レテの輪郭が弱々しく光る。化身が解けそうになっている。おぼつかない足取りで、こちらへ傾いてきたレテを支えようとライが腕を動かす。アイクは、いい加減学ぶべきだと落ち着いて考える間もなく――ライの手を押しのけるように手を伸ばした。
 しかし倒れかけたレテを救ったのは、どちらの青年の腕でもない。緑の虎は、少女の姿で気を失っているレテを、優しく自らの背に乗せた。
 そして立ち去る前に、アイクとライをじろりと見下ろしてから去っていった。
「……アレ、怒ってたよな」
「怒ってた。完全に怒ってた」
 二人は申し合わせたように、同じ長さのため息をついた。ムワリムの機嫌は、あれからまだ確かめていない。
「なぁ、アイク。あいつはレテと仲がいいのか?」
「そうだな。ムワリムたちは、半分レテの熱意で来てくれたようなもんだ。あいつは相手と距離を取りたがる性格なんだが、レテには随分気を許しているように見える」
「……そっか。立派にやってんだな、アイツも」
 あいつが差す人物が途中から入れ替わってしまっていたが、アイクは敢えて何も言わなかった。
「ああ、あれも驚いたよ。生焼け」
「俺も自分の正気を疑った……」
 実はこの砦は、アイクたちが自力で落としたものではない。その武勲は、敵だったはずの竜騎士――ジルではなく男の――が挙げたものだ。
『あー、今日からジル隊長のところでお世話になりますハールと申します。で、これ手土産』
 全身火傷だらけの見知らぬ男が、ひょいと掲げ上げたのは、アイクたちが討つべき将の首だった。いつかグレイルに絡んできたプラハとかいう女だ。
 ライは腕を頭の後ろで組んで、改めて空を見上げる。
「四駿の首とは、また豪勢な土産もあったもんだよな」
「あのハールとかいう男、ジルの父親の右腕だったそうだからな。色々恨みも溜まってたんだろう」
 アイクは手に触れた石ころを拾い上げて、どこに当てるつもりでもなく前へ放り捨てた。
 ライは視線を下げ、その石が跳ねて失速していくのを見つめていた。
「そもそも、あの竜騎士の女の子は何だってこっち側にいるんだ? あの子もデイン人だろう」
「一言で説明するのは難しいんだが……簡単に言えばミストとレテの努力のおかげだろうな」
「なんだ、レテのやつ、この軍に来てから随分友達が増えたんだな」
 笑って立ち上がり、ライは腰巻に着いた石屑を払う。
「ちょっと顔見てこようぜ。あれっきりどうなったか、後方に任せっぱなしだったし。お前も行くだろ?」
「いや。もう少し頭が冷えてからにする。まだあいつに合わせる顔がない」
「そりゃ、オレたちの失策ではあるけどさ。そこまで気に病むほどのことか?」
 ライが怪訝そうな顔をするので、アイクはふいと目を逸らし、地面を睨んだ。
「あの赤い石」
「化身の石のことか?」
「前も使って倒れた。もう使わせないと約束したのに、守れなかった」
「……真面目だね」
 ライの声はどこか冷えた響きを持ってアイクの鼓膜に届いた。しかし思わず見上げた顔はいつも通りの温度で。
「じゃ、お先に謝ってくるわ。どうにかお前が減刑されるように交渉してくるよ」
 軽々一回転跳んで、化身状態で駆けていくのを、アイクはただ何も出来ず見送るしかなかった。
「今日のこと気にしてるんですか? 将軍」
 先触れなくアイクの傍にふわりと舞い降りたのは、一頭の天馬であった。無論天馬が喋る訳もなく、言葉を発したのは騎手であるマーシャだ。
「隣、失礼しますね」
 天馬から降りて、アイクの脇に腰を下ろす。立てた両膝の上で手を組み、桃色の髪を揺らして笑う。
「知ってましたか? 実はですね、レテさんを一番最初に助けようとしたの、ガトリーさんなんですよ」
「え」
 予測もしなかった名にアイクは目を見開く。マーシャは組んだ手を前に突き出して、伸びをした。
「やっぱり気付いてなかった。ガトリーさん、レテちゃん『やばい』から下げてやってくれって。そう、わたしに叫んでたんです。結局わたしよりムワリムさんの方が早かったから、レテさんのことは助けられなかったけど」
「……気付かなかった」
 アイクが呟くと、マーシャはずいと近づいて顔を覗き込み、露草色の瞳にからかうような色を乗せた。
「将軍がどれくらいレテさんのこと大切に思ってるか、わたしたちみんなもう知ってるんですよ。レテさんが、無茶してでも将軍のこと守ろうとするってことも。だけど、ねぇ、ずるいじゃないですか。わたしたちにとっても将軍は大事な人だし、レテさんのことだって大好きです。一対一で守り合わなくても、一緒に戦わせてくださいよ」
 ね? と首を傾げるマーシャにつられたように、アイクも深く頷いていた。
「すまん。……ちょっと、顔を見てくる」
 立ち上がる。マーシャは、よろしくお伝えくださいと微笑んでくれた。
 去る足は速く、いつの間にか歩くという行為をやめ、駆け出していた。早くレテに会いたい。
「ん」
「あ」
 廊下で互いを視認したのはほぼ同時だった。角を曲がろうとしたところで、レテが向こうから歩いてきたのだ。
 とりあえずは元気そうな顔を見て安心もしたが、そこから先どうしたらいいのか分からない。一番の口実であった『鍛錬』も、今日は使えないのだ。
 アイクが立ち尽くしていると、レテはばつが悪そうに肩をすくめた。
「礼も説教も謝罪も全部もらった。何かあるならそれ以外で頼む」
 用意していた言葉を全部否定されて、アイクはいよいよ黙るしかない。
 けれど何かでそれらの気持ちを伝えたくて、一歩半の距離を詰める。ゼロ距離から出来たのは、抱擁。無事を確かめ、その温もりに自分の体温を委ねる。
 腕を回してから、ああ前触れもなしにこんなことをしたら、彼女は怒るに違いないと思った。だがレテはむしろ、アイクを受け入れてくれた。
「ムワリムといいライといい、お前といい。簡単に抱きしめてくれるものだ。まったく、私は枕か何かか?」
 そうやわらかい声で言って、幼子をあやすように背中を軽く叩いてくる。
 アイクはむっと口を引き結んで、腕に少し力を入れる。強く長く抱きしめていたら、先の二人の分まで塗り替えたりは出来ないものだろうか?
「痛い」
「すまん」
 彼女に言われて離した両手の、あまりの間抜けさに耐えかねてそのまま彼女の右手を取った。
「おい?」
 本気で走れば自分よりずっと速いレテの手を引きながら、アイクは廊下を走り階段を駆け上がる。
 唐突に広がった空の青さに目を細める。
「――クリミアの空だ」
 両腕を広げ、アイクは蒼穹を背に負った。
「前に来たときはちゃんと見せられなかった。これが本当のクリミアの空だ」
「そうか」
 レテは短く言って、小さく鼻をひくつかせた。
「雨が近いな」
「そうなのか?」
 田舎育ちのアイクは、匂いや湿気である程度天気を読むことが出来たが、それだとて獣牙の猫のそれには遠く及ばない。
 レテは見果てぬような青の中に浮かぶ、届かぬ先の雲を見つめているようだった。アイクにそれは察知できなかったが、彼女と並んで空を見やる。
「あんたと初めて逢った日にも、雨が降ってたな」
「ああ。あれはガリアだったがな」
 レテの素っ気なさにアイクは口をつぐむ。
 アイクにとっては、あの日は運命の日だった。あの雨の中で見上げた夜明け色の瞳が、幾度もアイクを導いてきた。その傍らで共に戦い、かいくぐってきた死線の数は密かにアイクの誇りだった。
 しかし、それがレテにとって大した意味を持たないのなら、きっといつになく饒舌に語れるであろう事実も感情も、秘めやって冷めて風化するまで待つしかないのだろう。そう思った上でなお、想いは捨てやれず胸を焦がし続ける。
「せめてクリミア遺臣団の到着と、セネリオたちの合流まで持てばいいんだが……」
「なに、この分では降るのは明け方だろう。心配なら迎えでもやればいい」
 天を仰ぐレテの首元から深緑のリボンが流れる。アイクはその一筋を指先で絡め取り、自分でも何をしているのだか分からぬままそっと口付けた。てっきりその後突き放されるものと考えていたのがまるでお咎めがなく、アイクはレテの顔を見る。
 逆光のせいなのかもしれない。しかしこのときのアイクにはどうも、彼女が微笑んでいるように思えてならなかった。
 何事かを呟くレテの声が、渓流と樹々のざわめきでかき消される。
「遺臣団が到着したようだ。顔を出してやれ」
 はっきり聞こえたのはこの事務的な一言だけだ。
 アイクが力を緩めると、リボンは呆気ない程するりと手の中から抜け落ちていった。
 先に歩み去ろうとする背中に何か言いたくて、その何かが見つからなくて、もどかしさに口唇を噛んで。意識して遅らせた瞬きひとつで、アイクは感情の優先順位を切り替えた。
 王都はまだ遠いのだ。