第四章 侵攻 - 3/4

SIDE:Ike

 

父娘

 

 レテが出て行ってから自分はどれほどこうしていたのだろう。
 いつの間にか空は白んでいた。もう軍を動かさないといけない。
 目を閉じる。父が死んだ後、妹の言った言葉を思い起こす。
『お父さんとお母さんの分もちゃんと生きてかないと。親不孝、する訳にはいかないよね』
 頷いて、立ち上がる。
 そうだ。どのような経緯があり、そんなことになってしまったのかは分からない。メダリオンのことも、終生の気がかりになるだろう。
 それでも父は、母を選んで、それでも母は、父を選んだ。今のところ出せる結論は、そこまでだ。ならば、今はそれで生きていくしかない。
 アイクは天幕から外へ歩み出した。

 とはいえ、気力だけでどうにかなるほどセカイというものはアイクに甘くはなく。
「……など、やはりこちらの行動は敵軍に筒抜けとみて間違いないでしょう。軍の中に怪しい者がいないか、僕の方で調べさせていますが……アイク?」
 頭痛は増す一方で、考えは少しもまとまらない。
「アイク? 大丈夫ですか?」
 ようやく、さっきから聞こえていた声がセネリオで、自分を呼んでいるのだと気づいて、アイクは慌てて自らの思考を現在に引き戻した。
「ん? あ、あぁ……悪い、なんだ?」
「いつもの報告です。後にした方がいいですか?」
 報告、の意味を頭の奥から引っ張り出してから、アイクは首を振った。
「いや、すまんがもう一度、最初から頼む」
「……わかりました」
 セネリオは一瞬気遣わしげな視線を向け、嫌な顔ひとつせず繰り返してくれた。
 クリミア軍の中にデインと通じている者がいるらしい、ということ。一応当たりはつけて調査しているが、決定的な証拠が掴めない、ということ。
 どうしてこうも面倒ばかり積み上がる。アイクは嘆息して、側頭部を押さえた。
「それは大変なことだが、とりあえず、俺たちは勝っているだろ?」
「はい。それがおかしいのです。内通者の目的は、もしかしたらデインを勝たせることではなく――」
「お兄ちゃんっ!」
 そのとき、セネリオの声を遮ってミストが飛び込んできた。
「どうしよう、お兄ちゃん! メダリオンがなくなってる!!」
 なんだって、とアイクは蒼褪めた。一昨日までのアイクならば、大袈裟に騒ぎすぎだと一蹴していたかもしれない。しかし昨日知らされた真実の重さは、アイクを狼狽と恐怖へと引きずり込んだ。
 ミストは震えながらで、しきりに髪飾りを触っている。
「どうしよう、お母さんの形見なのに……」
 アイクははっとし、唾を飲み込んだ。
 そうだ、ミストは何も知らない。あれが何の意味を持つのか知っているのは、フォルカとアイク――それから、デイン軍の一部だけ。だとしたら、心当たりは限られてくる。
「落としたとか、どこかに置き忘れたとか、そんなことはないんだな?」
 出来るだけやわらかく問うた。ミストは必死の形相で叫ぶ。
「違う! わたし、いつも身に着けてて、なくしたりしないもん!」
「そうか。最後に見たのはいつだ?」
 アイクは妹をなだめるように、丁寧に尋ねる。少しは効果があったのか、ミストは髪飾りをいじることをやめ、記憶を探るように両のこめかみに手を当てた。小さな声で呟いている。
「夜、寝る前にはあったから……眠っている間に、なくなって……他には……何も」
 後は嗚咽だった。アイクは妹を抱きしめ、髪を撫ぜてやった。
「泣くな。おまえのせいじゃないから」
「だって……!」
「泣くなって。俺が捜してやるから、な?」
 うん、と力なくミストが頷いた。妹が落ち着くのを待ちながら、アイクは思う。
 軍内の誰かが間違えて触ったなら、暴走の報はすぐにアイクに届くだろう。しかしその気配はない。だとしたら、あれがどんなに危険なものか知っている者が、慎重に持ち出したのだとしか考えられない。
「大丈夫だ。きっと見つかる」
 多分見つからないだろう――そう心中で判断しながら、兄は妹に初めて嘘をついた。

 

 案の定、メダリオンが発見されたという話が、アイクの耳に届くことはなかった。
 さりとて軍を長く駐留させておく訳にはいかない。
 予定通り、クリミア軍は侵攻を開始した。そして予想に反した状況下で足を止めた。
「やられましたね」
 セネリオが忌々しげに舌打ちした。
 向かう先の地面はひどくぬかるんでいる。それだけならばまだしも、激流があらゆるものを押し運び、まともに行軍など出来そうも似合い。デインの空からは雪こそ降っていたが、アイクたちが雨を経験した事実はないのに。
「近くに河があるのですが……どこかの水門を開け放ったのでしょう。我々の進撃に合わせて、水を氾濫させたようです」
「分かった、斥候に水門を探らせよう。それにしても」
 吹き荒ぶ風に髪を揺らしながら、アイクは前方を睨んだ。
「こんなの、俺にだって悪策だと分かる。ここの領主は一体何を考えているんだ? 領民を巻き込んで……自軍の機動力だって下がるだろうに」
「――いいえ。このまま進めば、ここは彼らの独壇場です」
 答えたのはセネリオではなかった。振り向くと、ジルが騎竜に乗りながら、高度をアイクの頭上近くまで落としている。
 降り積もる雪のように蒼白な顔つきで、それでも気丈に言葉を継ぐ。
「この場所は竜騎の里ダルレカ。ぬかるみに足を取られたままでは、この軍は竜騎士の格好の餌食です。デインは、領民を道連れにしてもクリミア軍を壊滅させるつもりでいるのでしょう」
「待て。あんた、まさか」
 アイクの驚愕に、ジルは頷きひとつで答えた。
「ここは私の故郷。将のシハラムは……私の父です」
「あんた、親と戦う気なのか?」
 親を喪うということがどういうことなのか、アイクには解る。それは解るが、自分の親を敵に回すということについて、アイクは想像してみたことすらもなかった。
 ジルは紅い瞳を潤ませながら、それでも決して涙を流さない。
「私は私の信念をもって、この軍にいると決めた。だから、まっすぐ顔を上げて、父と向かい合おうと思います」
「そうか……」
 アイクはジルの決心に、言うべき言葉を見つけられなかった。何をとっても、きっとそれは場違いだろうから。
「無理して前線に出なくていいからな」
 アイクの口から出た苦し紛れの台詞に、ジルは儚く微笑んで、飛翔した。
 セネリオが叫ぶ。
「アイク! やはりデインの竜騎士が襲撃を――!!」
「大丈夫です。……この先を通ることまかりならん! クリミア解放軍が一番槍、ジル・フィザット、参る!!」
 曇天の下、竜騎士同士がぶつかり合う。怒号と共に、一合。二合。三合。
 裏切り者、と聞こえた気がした。それでもジルの槍の冴えは些かも鈍らず。
「フィザット殿に続け!」
 天馬騎士団が、アイクの命を待たず突撃する。
 行くしかないのか。アイクは奥歯をぎりと噛み締めた後、号令を発した。
「騎馬隊、歩兵隊、出るぞ! とにかく敵将を捜せ!!」
 水流渦巻く集落を満身創痍で突き進んだ。殺した。今までと同じように。ジルと一緒に生き、一緒に笑っていたのかもしれない人間たちを殺しながら、這うように傾斜を登っていった。
 やがて、宙を舞う二騎の竜がアイクの目に飛び込んでくる。あの赤毛、間違いあるまい。ジルの身内だ。
「とにかく水門を閉めろ!」
 指示しながらも、アイクはその空中戦から目が離せなかった。
 ジルの方が明らかに実力は劣っている。だが押されてはいなかった。繰り出される槍の突き。防いだ流れのまま襲い掛かる斧。ジルの槍を信念とすれば、男の斧は迷いだ。
 想いが力を進化させる。そういう戦いがあることを、アイクは知っている。
 更に坂道を駆け上がる。崖の上で戦う二人に近づく為に。
 まだ出来ることがある。ジルにはさせてはいけないことだ。止めなくてはいけない。
 ジルの一条が男の斧に弾かれる。男は騎竜を旋回させ落下しようとしていた槍を掴む。両手に武器を持ち、手綱を握らずジルに肉薄する。ジルはすんでのところで身をかわす。
 アイクは傍にあった建物の屋根によじ登る。
「ジル! 水を止めたいのではなかったか? 早く父を倒してダルレカを救え!!」
 男が高らかに叫んだ。両手を開き、鎧に包まれた胸を反らす。ジルは騎竜にくくりつけていたサブウェポンを取り出し、高度を上げる。
「ああああああああああああああああああああああああッッッ!!」
 それは誰の声だったか。アイクは跳躍した。ジルは振りかぶった。
 ――交錯。
 ジルの刃は深く肉を抉っていた。アイクの剣は腹を貫通していた。背に傷を負ったアイクと、腹を貫かれた男が同時に落下する。
「父上ッ!」
「アイクさん!」
 ジルとマーシャが同時に二人を抱き留める。
「父上……何故こんな……こんな終わりを」
「そうか……私は、『彼に敗れた』……これで私の娘は、親殺しと呼ばれずに済む……」
 男は腹の剣を引き抜き、笑った。傷から、口から、血がこぼれた。
「自軍の将が仇では、生き辛かろう。そうだな……最初からこうしておけば、よかった」
「父上……?」
 男は無造作に自らの首に刃を当て、高らかに宣言した。
「行け、ジル・フィザット! 己の信ずるがまま、進むがよい!」
 迸る鮮血。ジルは呆然と、魂を喪っていく自分の父親を見ていた。
 アイクは男の肢体が完全に動かなくなるのとほとんど同時に、意識を手放した。
 また雪が赤いと、ぼんやり思いながら。

 

「報告します! 水門を塞ぎました!」
 ベグニオン兵の声に、アイクはうつ伏せの状態のまま目を覚ます。
 アイクの寝起きはいい。ばらばらになった情報をまとめ直すのに、一分とかからない。ここがダルレカだということも、救護用に無事な建物の一室を借りているらしいということも、すぐ理解した。
「……付近の被害状況はどうなってる?」
 起き上がらずに問う。近くに座っていたセネリオは、一瞬驚いた顔をしたが、すぐに冷静な声音で答えた。
「ひどい有様です。畑だけではなく、家屋にまで被害が及んでいます」
「そうか……」
 他に何と言っていいのか分からない。ティアマトも沈痛な面持ちで窓の外を見ている。
「相手の将軍も、望んでやったことではなさそうだった。どうして、こんなことに……?」
「この寒空の下……家を失くした人々は、どうなるのでしょう? 私たちに、出来ることはないのでしょうか?」
 エリンシアも、泣きそうな顔で外套を握り締めている。ベグニオンが、デインは冷えるからと用意してくれたもの。その温もりでさえ今は彼女の心を冷たく刺すのだろう。
 セネリオは複の裾を払いながら立ち上がる。
「敵国の民を哀れむ? この軍に、そんな余裕はありませんよ」
 セネリオの言うことはいつも事実ばかりだ。ただ事実だからといって、全て正しい訳ではない。人を蔑んでいい理由にはならない。
「セネリオ。兵糧の一部を、村人たちに配るぞ」
 アイクは起き上がった。背中に痛みはない。上手く治療してくれたのだろう。傍に引っ掛けてあったシャツで、包帯だらけの身を覆う。
「アイク、本気ですか!?」
「セネリオ。俺たちの戦ってる相手は、デイン軍だ。民間人じゃない」
 『将軍』用の衣装に袖を通し、前を留める。お仕着せの服はあまり好かない。
「綺麗事なのは百も承知だ。だが、何もしないで素通りできるほど、冷酷にはなれん」
「そうね。思いついたなら……やらない後悔より、やってからの後悔の方がずっといいわ」
「私も……お手伝いします。怪我をした人の治療なら、出来ますから」
 ティアマトとエリンシアが天幕を出て行き、アイクは下賜された中でも唯一気に入っている青い外套を羽織る。最後にブーツの紐をぐっと締め、立ち上がる。
「悪いな。性分らしい」
 だが、自分が直接領民と対すれば、彼らの感情を逆撫でするだけだということぐらいは理解出来る。セネリオに適切な人選で事を運んでくれるように頼むと、甚だ不服そうに頷いてくれた。
 アイクは外に出て、決戦の場だった崖の上に歩いていった。急ごしらえの墓の前で座り込んでいるのは、紛れもなく故人の娘だ。
「ジル」
 呼びかけたが、反応はなかった。アイクはもう一歩ジルに近づく。
「どんな理由があったにしても、あんたから親父さんを奪ったのは、俺だ。戦だからとか……そんな言い訳をするつもりはない」
 ジルは答えない。アイクは進む。
「俺を親の仇として、憎めばいい。その権利が……あんたにはある」
 親の仇がどれだけ憎いか、知っているから。親の仇でも憎めない相手のことも、知っているから。
 アイクはジルにそれしか言えない。
「あんたの気持ちに整理がついたらでいいが……これからどうしたいか、教えてくれ。俺は、あんたがこのまま、仲間でいてくれればいいと思うが……好きにしてくれ」
 アイクはジルの真後ろに立ち、一方的な言い分の終わりを告げる。
「それだけだ」
 凍えそうな肩に外套を落とす。青天のような布がふわりと、ジルの肩を包む。
 アイクはきびすを返して、自分の背負った他の罪と向き合う為に、元の道を戻っていく。
 風の音に混じって、ジルの押し殺した嗚咽が聞こえた気がした。

 

 しかし、いつまでもダルレカに留まってはいられない。どうにか態勢を整えたクリミア軍は、既にこの地を後にしようとしている。
 アイクは改めて周囲を眺める。惨状としか言えない景色だった。あんなことがなければ、のどかな農村のひとつで済んだろうに――アイクがそう想いを馳せているところに、全滅したはずの竜騎兵が舞い降りた。
「……ジル」
「お借りしていたもの、返しにきました」
 ジルは恭しく外套を差し出した。あの青色の、敵国の将軍を示すものを。
「アイク将軍。私も共に行かせてください。お邪魔にはなりませんから……」
「だが、ダルレカはあんたの」
 ジルは皆まで言わせなかった。深紅の目で、真っ直ぐにアイクを見上げる。
「だからこそ、です。もうダルレカのような犠牲は出したくない……いえ、出してはいけないんです。だからどうか……」
「わかった」
 正直な話、ジル一騎いたところで、具体的にデインの作戦がどうこうなるとは思えない。
 だが、デイン王国ダルレカ地方出身のジル・フィザットが、自分の足で立ち上がった。そのことにこそ意味がある。
「またよろしくな、ジル」
 アイクが右手を差し出すと、ジルは少しだけ肩をすくめて、握り返してくれた。