第三章 命の貴賤 - 3/3

SIDE Rethe

 

 

異邦の獣牙

 

「私たちの負けだ……」
 笑いとも咳ともつかない息を吐き出しながら、虎の男は言った。
 レテからの距離は遠いが、見聞きできないほどでもない。
「これ以上、抵抗はしない。連行するなり、この場で処刑するなり……好きにするがいい。だから他の仲間は、見逃してもらえないだろうか。頼む……」
 随分と虫のいい話だな、とレテは黙って頭をかいた。
 先程、その手には乗らないと突っぱねたのは自分ではないか。アイクが、約束しようと言って自分の首を獲り、その果てに仲間が皆殺しにされる可能性は考えないのだろうか?
 レテの考えるところ、この男はベオクを心底憎み切れてはいない。だからこんな局面で、悲惨な楽観性が顔を出す。それはきっと、彼の近くにはベオクが――。
「そんなの、ダメだ!!」
 ――信頼に足るベオクが、いたからだ。
「ムワリムは渡さないっ!」
 叫んだのは先程、入り口で口上を述べていた人物だ。
 女かと思っていたが、少年だったのか。ベオクの女子供は匂いが似ていて分かりづらい。
「いけない、坊ちゃん! どうして出てきたりするんです……!」
「ムワリムを連れて行くなら、おいらを殺してからにしろ!!」
 なるほど、虎……ムワリムは、あの少年を庇っていたらしい。今度は少年がムワリムを庇おうとしている。
 二人の関係は分からないが、強い信頼関係で結ばれているのは間違いなさそうだ。
「この子は『人間』だ。まだ幼い頃に……私がさらってきたのだ。だから私たち“半獣”とは、無関係で……」
 少年にも、嘘をつくなと怒鳴られるほどお粗末な虚言だった。ラグズに、ベオクを誘拐するメリットなどありはしない。まして、そのまま育て続ける理由など、ないはずだ。
 ないはずの理由があったから、きっと今少年はここにいる。
「おいらは好きでここにいるんだ! ラグズ奴隷解放軍の首領はおいらなんだからな!! ムワリムの大バカ野郎! みんなをかばって死ぬなんて許さない、からな……!!」
「坊ちゃん……」
 ラグズ奴隷解放軍。ほう、とレテは感心してため息をついた。軍と呼ぶにはあまりに戦力が不足していたが、理念としては悪くない。
「どっちが首領でも、俺はいっこうに構わんが……」
 アイクもいつもの無愛想な声で、こう告げる。
「ベオクを庇って、自分のことを“半獣”呼ばわりするラグズと、『ラグズ奴隷解放軍』とかいう団体には――興味がある」
「興味? 興味って、どういうことだよ」
 しかし、相変わらず言葉の選び方が下手な奴だ。少年は完全に身構えている。
 レテはポーチから半化身の腕輪を出して、少年に投げてやった。
「私たちが捕らえに来たのは『盗賊団』であって、『ラグズ奴隷解放軍』ではないということだよ。“坊ちゃん”」
 よほど大事なものらしく、少年が少し警戒を解いた。アイクがゆっくりとした声で、問いかける。
「悪いようにはしないから、俺に詳しく話してみないか?」
 だからお前の言い回しはどうしてそう悪役っぽいんだ、とレテは内心で思った。
 

 

 
「無事か?」
 石造りの廃墟の中。地下へと続く階段を守護するように、ムワリムは立っていた。
 レテの呼びかけには、濁った目を少し動かして、ああ、と答えた。
「お前のおかげで助かった。……礼を言う」
 本当に感謝しているのかどうか分からないような声音だった。レテはムワリムの横に並んで立つ。
「私は何もしていない。お前を助けたのはアイクだ」
「……だとしても、真っ先に私に駆け寄ってくれたのはお前だ。お前が彼を動かしたのだと、私は感じた。間違っていてもいい。私は礼を言いたい」
 淡々とした、とても自らが死に掛けたときの話をしているとは思えない口調だった。レテもなるべく感情を出さないように、問いかける。
「だが、お前を殺そうとしたのも『こちら』だ」
 レテはどうもあの参謀のことを、仲間とは呼べなかった。今回の件に限ったことではない。最初からそうなのだ。
 しかし、同じ側に属することだけは間違いない。
「私も『そちら』を殺そうとした。同じことだ」
 ムワリムの声はあくまで冷え切っていた。敵意からではなく、言うならばそう――自らを含めて――無関心のような。
「ところで、ムワリムといったな。私はレテ、ガリアの戦士だ」
 だが苦し紛れの自己紹介に、ムワリムは反応した。ガリアの……と微かに呟いてから、声を硬くする。
「誇り高きガリアの戦士が、何故人間に追従している」
「なんだと?」
 レテも声を尖らせる。階下から吹く冷風が、二人の間の空気を凍らせる。
「私は追従などしていない。我らが王のため、そして自分の意思で彼らを助けている」
 追従しているのは寧ろお前だ――と言いかけて、やめた。ムワリムに気を遣ったというだけではない。彼が、同じ獣牙族とは思えないほど酷薄な目で自分を見ていたから。
「結構なことだな」
 蔑まれたはずなのに、腹は立たなかった。
 ただ、どうしてそんな顔をするのだろう、と思った。どうしてそんな、痛々しい顔をするのだろうと。
 レテはひとつ挨拶をして、ムワリムの前を辞す。
 苦手、とも違う。不愉快、とも違う。レテはそう、この獣牙族の男を本能的に――嫌いになれないのだ。
 

 

 王都に戻って後、アイクには会っていない。神使に話があると言って、少年を連れていった。あれから一刻ほど時が過ぎているが、どうなったのだろう。
 グレイル傭兵団にあてがわれた応接間サロンに行けば、誰かしらいるかもしれない。そう思って部屋を出たとき、ラグズ解放軍の首領と名乗る少年に出くわした。
「あ、さっきの……ラグズだ」
 少年の目は赤く腫れていた。泣いていたのかもしれない。小さく鼻をすすりながら、レテを見ている。その視線には、ただの好奇心以上のものが含まれていた。
「ラグズだが、悪いか?」
 レテは不機嫌に返した。不躾な奴だと思った。少年は首を横に振り、悪くない、と答えた。
「さっきはありがとう。おいら、トパック。あんたは?」
 名乗られた以上は答えなければならない。レテはムワリムの反応を思い出しつつ、それでも正直に名乗った。
「私はレテ。ガリアの戦士だ」
「ガリア!」
 トパックの沈んでいた目が、急に輝きを取り戻した。詰め寄らんばかりの勢いで近づいてくる。
「ガリアのラグズだ! なぁ、ガリアの話聞かせてくれよ」
「何だいきなり。私はお前に故郷のことを語ってやる義理はないぞ」
 レテが距離を取ると、そうだよな、とトパックは肩を落とした。
「解放軍のみんなの、参考になればと思ったんだけど……」
 レテは小さく舌打ちした。その団体名を出されると弱い。後頭部をかきながら(いよいよアイクの癖がうつったらしい)、わかった、と呟いた。
「解放軍の話を聞かせろ。見返りにガリアのことを聞かせてやる」
 もしラグズなら、尻尾をめちゃくちゃに振っているだろうというほどにトパックは喜んだ。ミストの素直さとも、ヨファの率直さとも違う。全身で感情を表現する少年に、レテは獣牙の兄弟に接するような親近感を覚えた。
 解放軍の話、ガリアの話を、それぞれひとつふたつずつ話したところで、話題は何故かムワリムのことに移っていった。
「ムワリムは自分の幸せを考えようとしないんだ」
 石段に腰かけたトパックは、脚をぶらつかせながら言った。
「他のみんなや、おいらの幸せばっかり……。おいらにとっては、ムワリムもふくめて『みんな』なのに」
「ならば、そう言ってやればいいだろう」
「言ってる。でもムワリムは、困ってるみたいに笑って受け流すだけなんだ」
「それは、あいつの覚悟が足りないだけだ」
 レテは立ち上がり、振り向いた。
「なぁ、ムワリム?」
 ムワリムは目を伏せて立っているだけで、答えなかった。レテも何も言わなかった。トパックは困惑したように二人の顔を見ている。
「その、覚悟とやらの、詳細を――ご教示、願いたいものだな」
 ムワリムはかすれた声で、切れ切れに言った。なに難しいことじゃない、とレテは自分の頭を人差し指で二回叩く。
「その首の上のものが飾りでないのなら、やがて行き着く」
 すれ違い様にムワリムの瞳に語りかけながら、リボンを風に流して立ち去った。知らないラグズのにおいの奥に、懐かしい獣牙のにおいが漂っていた。 
 自らが自らを背負うという覚悟を決めたとき、彼はようやくその幸福を願うことが出来るだろう。それまではお前が守ってやるといい、トパック。
 ベグニオンの太陽は、ガリアと同じような経路で昇り沈んでいく。
 

 

「すっごかったな!」
「そうだな」
 興奮するトパックに、レテは辛抱強く答える。大神殿は今日も退屈な美しさだ。
 ベグニオン帝国内西方の大森林地帯。かつて、そこには鳥翼族サギの民が暮らす国セリノス王国があった。セリノスの大虐殺――神使暗殺の冤罪、そして暴動――その直後より色を失った森は、まるで女神の嘆きそのものに思われた。信心深いベグニオンの民は、ベオクにとっては長いものであろう二十年の歳月、自分たちの犯した罪に怯え震えていた。
「森がばーっと金色になってさ」
「ああ」
「その後ぶわあーっと緑になってさ」
「ああ」
 ベグニオン皇帝たる神使サナキは民の心情を代弁するべく、セリノスの僅かな生き残り、サギの民の王子・王女を前に、その膝を折る。国対国ではなく、同じ大陸に暮らす仲間への心からの謝罪。
 あの大虐殺を許す事はできない。しかし、憎しみの心は憎しみを生む。どこかで断ち切らねば、悲しみの連鎖は永遠に終わらない。
 そう考えたサギの民は、神使の謝罪を受け入れ、そしてセリノスの森はかつての姿を取り戻した。
「すっごかったな!」
「そうだな。――ところでトパック、お前はこの話題を何周する気だ?」
 既に三周を終えたレテは怒鳴る気力もなく、頭を押さえてため息をついた。どうやら懐かれてしまったらしい。といっても、トパックは誰に対してもこんな感じなのだが。
 レテは視線を、苦笑しているムワリムの顔まで上げた。
「ところでムワリム。調子はどうだ? こんな風に軍隊で戦うのは初めてだろう」
「ああ、そうだな。分からぬことが多くて戸惑うこともある」
 ムワリムの表情が平板なものに変わる。レテやモゥディと接するとき、ムワリムはこの色のない顔をする。そんな顔を見るのがしのびなくて、レテは似合わぬ空元気など出してみる。少し胸を張って、自慢げに(実際彼女の誇りではあったのだが)言った。
「何でも聞くがいい。私はガリアで部隊を率いていたからな。戦の知識なら豊富に持っている」
「……女の身でか」
 ムワリムはレテの空元気より空虚に、義務のように呟いた。
「レテは優秀なのだな」
 それが皮肉なのか賛辞なのかレテには判じかねたが、この偏見はベグニオンで生まれ育ったせいだというのは理解できた。虚勢をやめて、普通のトーンに戻る。
「ガリアでは男も女も関係ない。より優秀な戦士であればいいのだ。身体の造りの問題で、男より女の方がどうしても劣る部分はあるが……しかし、努力で補えばどうとでもなる」
「素晴らしいな」
 ムワリムは空返事だった。おまえな、とレテは眉をひそめる。
「そんな他人事のように聞き流すなよ。ベグニオンでは奴隷だったというが、ベオクなど、お前が本気になれば……」
「わからない話だろうな」
 急にムワリムの語気が強まった。呆気に取られるレテから顔を逸らし、床に吐き出すように言う。
「産まれたときから偉大なるガリア王に守られ、ラグズであることの誇りを胸に生きてきた。そんなお前には理解できんことだ」
「ムワリム! そんな言い方ないだろ」
 トパックが大声を出した。ムワリムは黙礼だけ残して、トパックを連れて歩み去ってしまう。レテは立ち尽くし彼らを見送っていた。
 自分が悲惨な生き方をしてきたとは思わない。恵まれているのだと思ったこともなかった。ベオクがラグズを見下すのは知っていた。ラグズがベオクを見下すことも。けれど、ラグズがラグズを見下すなどと、考えたこともなかった。
(ジルやアイクのことを言えないな……私は)
 同胞の痛みを知れと声高に叫んでおきながら、自分はそれを知らなかった――。
 天井を仰ぐ。ベグニオンの建物は頭上まで豪奢で、頭痛がする。髪飾りを片方外して、光にかざした。
「ライ」
 お前なら、どうするんだろう? また理論で武装して、彼らの悪意を受け入れるのだろうか。
「レテ」
 聞き慣れた声に、視線を移す。アイクだった。ちょうど光の射す位置で足を止めていて、青い髪が眩しかった。レテは目を細める。
 ああ。認めたくはないが。今私は一番、お前に会いたかった。
「鍛錬をしないか」
 どちらからともなく言い出して、二人は中庭に陣取った。
 具体的な言葉は交わさない。そんなものは無意味で、無価値だ。少なくとも今は。使いすぎて焼き切れそうな理性達を解き放って、ただただ血の命ずるままに、刃を牙をぶつけ合う。アイクが疲れ果てレテが化身を保っていられなくなるまで、幾度となく衝突する。
「は――あ」
 アイクは芝生に、大の字になって倒れ込んだ。初めて相手をしたときのように、吹っ切れた表情だった。レテは近くに片膝を立てて座る。
「気は済んだか?」
 見れば分かるのだが、一応確認しておきたかった。ことこの少年に関しては、見た目ほど当てにならないものはない。
 ああ、とアイクは、返事なのかため息なのか分からない声を漏らした。その後で、切れ切れに呟く。
「まったく――ラグズとベオクというやつは――複雑で、面倒だ」
「そうだな」
 レテも同意見だった。ジルに向かって、歴史の真実とやらの長広舌をふるっておきながら、ムワリムのこともあって、自分も迷い答えを探しあぐねている。もっとシンプルだったらいいのに。そう思うこともある。
 アイクは急に寝返りを打ってうつ伏せになると、手探りでレテの左手を取った。表情は見えなかったが、拗ねた子供のような声をしていた。
「こんなにあたたかいのに。どうしてそれだけじゃ、解り合えないんだろうな」
 なるほど、シンプルだ。
 レテはアイクから見えないように微笑んで、その手を握り返した。
「そうだな」
 宵の風に晒された身体に、ひとの温もりは一際心地よかった。
 いつか誰しもがこうして手を繋げれば、と夢のようなことを祈った。
 

 

「先日はすまなかった」
 ムワリムがやって来たのは、もうすぐこの神殿の部屋も引き払おうかという頃だった。レテは首を横に振る。
「私が無神経だった。お前の気に病むことではない」
「……痛み入る」
 ムワリムは沈んだ声で言った。その後で、不出来な台本を読むように、ぎこちなく告げる。
「坊ちゃんと私も、クリミア解放軍の手伝いをさせてもらうことになった。至らぬところは多いだろうが、よろしく頼む」
 なるほど、初めてトパックが現れたときのあの口上もこいつが考えたのか、と思ってからレテは、もっと根本的な問題に気付いた。思わず頭に片手を当てる。
「そうか、私は――最初からお前たちもついて来るものと思って、早合点してしまっていたのだな。これはすまない。お前が怒るのも道理だ」
「いいや。そのことは、坊ちゃんと私とで最初から決めていたことだ。アイク殿に納得していただくのに時間がかかった。それに私は、怒ってはいない」
 ムワリムは儚げに微笑んだ。表面上は完璧な微笑だ。しかしその深淵は、アイクが時々見せる、笑顔の出来損ないに酷似していた。
「ただの羨望だ。お前の輝きに、濁った私の目が耐えられなかった。それだけのことだ」
 坊ちゃんが待っておられるから、と丁寧な礼をしてレテの前を辞すムワリム。
 追えなかった。訊けなかった。どうしたらいいのか分からなかった。ムワリムを知るには、まだこの距離は遠すぎると思った。 

 

To SIDE Ike

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