第二章 光が風に舞い遊び - 1/7

SIDE Rethe

 

 

深い蒼色

 

 十数年ぶりに入ったゲバル城は、ひどく陰鬱な匂いがした。レテの嫌いな匂いだ。低い鼻が曲がりそうになる。
 レテたちは、大広間に二人残されていた。濡れ鼠だったベオクは別室で着替えている。
 たったそれだけのことで何故こんなにも時間がかかるのかレテは解せないが、モゥディはこの仕打ちに不満を持っている訳ではなさそうだった。歩き回る巨体の後ろ、尻尾が左右に揺れている。それがなんだか無性に癇に障った。
「おい、モゥディ! 少しは大人しくしていろ。みっともない」
「ムぅ、スまん……」
 モゥディはしゅんとしてレテの傍に立つ。
 傭兵団の面々が姿を現したのは、それからもうしばらく経ってからだった。早速だが、と切り出されてもレテには全く早速ではない。
「あんたたちが、ガリア王宮からの使いか?」
 ベオクの少年が言った。青い髪に同じ色の瞳――ライの口にしていた、団長殿の息とやらか。
 レテに代わってというわけでもないのだろうが、モゥディが問う。
「ソうだ。ガリアの戦士モゥディだ。オまえはアイク、ソうだろう?」
「確かに俺が、アイクだ。一応団長をやらせてもらってる。さっきは助かった、礼を言う」
 無愛想な奴だ、とレテは思った。この少年は笑顔どころか表情一つ変えない。
 モゥディが話を進めてくれているので、ひとまず任せることにする。
「ライは言った。アイクは悪くナいヨそ者だと。モゥディたちは、キっと仲良くナれるだろう」
「そうか。なら――」
「どうだか」
 少年の言葉を遮り、レテは前髪をかき上げた。橙の髪はまだ雨を含んで少し重い。
「こいつら『ベオク』は、二つの顔を使い分けるらしいからな。裏では何を考えていることやら」
「レテ」
 モゥディがたしなめるように名を呼んできたが、無視した。少年は嫌味の意味すら分かっていないようだった。目を丸くして、さも不思議そうに問うてくる。
「『ベオク』? 何のことだ」
「そんなことも知らないのか」
 レテは、とんとんと自分の側頭部を人差し指で叩いた。笑わない少年の代わりに、口の片端を少し歪めて。
「我々力ある者を『ラグズ』、お前たち能無しを『ベオク』と呼ぶ。足りない脳味噌によく叩き込んでおくんだな、『能無し(ベオク)』」
「何だと?」
 少年はようやく眉をひそめる。今頃お怒りとは、血の巡りの悪い奴だ。
 レテは嘲笑をやめ、少年を遠慮なく睨めつけた。
「自分たちの呼ばれ方には敏感とはな。我らをあの侮辱的な名で呼び、蔑んだ目で見るのは誰だ? 笑わせてくれる。それが友好を築こうという態度か!!」
「レテ!!」
 モゥディに腕を掴まれる。滅多に怒らないあの温厚な同胞が声を荒げていた。
「オまえがヨくない。王は禁じてイる、ベオクとの争いを!!」
 レテはぎりと奥歯を噛み締める。
 そんなことは言われなくても分かっていた。だからこそ、それに胡坐をかくこいつらが許せないのだ。
 レテは黙ってモゥディの手を振り払った。少年を見る。きっと得意げな顔でもしているだろうと思ったのに、彼は『まるで落ち込みでもしたように』項垂れていた。
「確かに、俺たちはごく普通にその呼び名を使っていた。よくない言葉だと、少し考えれば分かりそうなものなのに……。他に呼び方を知らなかったんだ。すまん」
「知らなかった、だと?」
 そうか、それなら仕方ないな。次から気をつけろよ。
 ライならそう言ったかもしれない。だがレテはそんなに甘いことを言ってやるつもりはなかった。少年の胸倉を掴んで、無理やり目を合わせる。
「馬鹿にされたものだな。我らに隷属を強いたお前たちは、そうやって過去を安易に忘れる。だが、我らは忘れない。お前たちにどんな仕打ちを受けてきたのかを」
 決して、床を向かせなかった。弱さも逃げも許しはしなかった。
「私はお前たちを信用しない。ライが何と言おうとも……王が何とおっしゃろうとも」
 だがそんな必要はなかったのかもしれない、と心の隅で思う。
 少年はレテの烈しい視線を、瞬きもせずに受け止めていた。否、その言い方は少し不適切かもしれない。彼はレテの言葉全てを受け容れているように、少なくとも表面上は、見えた。
 調子が狂う。レテは舌打ちして少年から手を離した。
「……で?」
 そう、不機嫌に問うたのは青い髪の少年ではない。
 進み出てきた、長い黒髪を持った少年だった。
「劣った者が優れた者に服従するのは当然のことでしょう。そういう恨み言を聞かせる為に来たんですか?」
「その理屈で言えば服従するのは貴様らの方ではないのか?」
 レテは団長を名乗る少年よりも小柄な彼を、瞳孔を細めて見つめた。
 彼は怯えなかった。深い紅の瞳に浮かぶ色は、侮蔑。
「笑止。下等な“半獣”の考え方ですね」
 嘲笑の形に歪められた口唇が発したのは。レテたちがこれまで直接口にすることを避けてきた、呼び名。
「貴様ァッ!!」
 レテは燃えるように毛を逆立たせた。全身の細胞が、力を解放しようと疼いている。
「その呼び名を使う者は、我々ガリアの敵だ!!」
「ハ、ハ、半獣……コいつ、敵……」
 モゥディも震えていた。黒い少年も余裕の表情を消していた。その分だけ剥き出しの悪意を持って、言い切る。
「そのナリで自尊心だけは人間並み。そうでしょう? 毛だらけの、醜い半獣共!!」
 咆哮。化身したモゥディが牙をさらけ出して首を旋回させた。
 レテは腕を振って少年を指差す。そのことに最早、何の迷いも感じなかった。
「モゥディ! 構わん、やってしまえ!!」
 あの細い首だ。虎の顎なら一瞬で砕ける。黒髪の少年目がけて、水色の虎が跳ぶ。
 鮮血。少年は悲痛な声で、叫んだ。
「アイクッ!!」
 “少年”が血を流していた。――あの、青い髪の“少年”の方が。
 レテは唖然として立ち尽くしていた。モゥディも化身を解き、座り込んだ。いつもの、争いを好まない優しすぎる虎に戻っていた。
「アイク、スまない……。オまえに怪我をさせて……モゥディは……」
「大した怪我じゃない。大丈夫だ」
 少年……アイクは肩を押さえた。ちょうど肩当の所だったらしく、骨まではいっていないようだった。だが決して浅い怪我でもなさそうだ。
 アイクは片膝をついてモゥディの肩に手を置いた。
「そっちこそ、平気か? 爪、欠けてないか?」
 モゥディは大きな頭で何度も頷いていた。
「こいつ、獣の分際で……!!」
 黒髪の少年が吐き捨て、腕を上げる。
 レテは、先程とは別の感覚に総毛だつのを感じた。風がざわめいている。これは――。
(――魔術の構成!)
「やめろ、セネリオ!!」
 アイクは、セネリオと呼んだ少年に背を向けたまま、怒鳴った。セネリオが叫び返す。
「どうして止めるんですか!? こいつは貴方を傷つけた! 許す訳にはいかな……」
 アイクはゆっくりと立ち上がり、セネリオの上がっていた方の腕を掴んだ。
「お前が挑発しなければ、こうはならなかった。違うか?」
 アイクの口から発せられたのは、重い叱責の声。セネリオはまるでこの世の終わりのような顔をして、俯いた。
 しばらくして絞り出すように謝罪したが、それは恐らくアイクだけに対するものだろう。
 レテはそう思ったが、アイクはその対象を追究しようとはしなかった。セネリオの頭に手を置いて、下がらせる。そして改めてレテたちの方を向いた。
「二人共、団員の無礼は謝る。どうか許してくれないか」
 アイクは頭をがしがしと掻いた。青い髪が合わせて揺れる。
「言い訳にしかならないが、俺たちは仲間を失ったばかりで……あまり冷静じゃいられなくてな」
「アイクはモゥディを許した。ダからモゥディも、セネリオを許す。誰も怒ってはイない。仲直りだ」
 モゥディは笑顔で言った。
 アイクも笑った……つもりだった、らしい。
「ありがとう」
 妙な笑い方だ、と思った。むしろ泣きそうにも見える顔の歪め方。
 笑顔を作ることも出来ぬほど、傷が痛むのかもしれない。
「こちらも、非礼は詫びよう」
 レテは両腕を組んで、嘆息した。
 黒髪の少年の方はともかく、アイクの方はモゥディの狼藉に怒らないどころか気遣ってくれた。しかも攻撃を命じたのはレテだというのに。これで食ってかかるのは流石に憚られる。
「まったく。安い挑発に引っ掛かって、自分たちの使命を忘れるとは……とんだ失態だ」
「使命……?」
 彼女の言った単語を繰り返すアイクに、頷く。
「王が傭兵団を招かれた。我々は、その案内の為に寄越された使者だ」

 

 夜明け前。レテは廊下から空を見上げていた。濃藍を押し上げるような紫の足下に、朱色が滲み始めている。
 昨日は雨も激しかったし、傭兵団の面々は酷く疲弊しているようだったので、レテは手短かつ一方的な説明を終えるとすぐに部屋を見繕って引き取った。モゥディのことは知らない。子供ではあるまいし自分で何とかしたろうと思う。
 レテの橙色の髪を、春風と呼ぶには冷たい空気が通り抜けていく。匂いの分かりづらい風下から、誰かが近づいてくる。
「おはよう、レテ。綺麗な空ね」
 名を呼び、明確に自分を指した言葉にレテは振り向いた。
 ベオク同士ならこの距離、あの声量での呼び掛けはしないだろう。こちらが敵意を見せる前に、自らその存在を示す――ラグズの習性を知る者の行為だ、と直感した。
 レテは長い朱色の髪を持った女性を見つめた。
「何の用だ」
 何のつもりだ、と問いたかったところを少しだけ抑えた。向こうが譲歩した分くらいは考慮したのだ。
「あの子たちのことで、謝りたいと思って――ごめんなさい」
 歩み寄ってきた彼女は、レテから五・六歩離れた辺りで立ち止まった。ベオク同士が話すのに比べ、少し遠い。警戒というより遠慮からくるもののように。
 彼女はレテの視線から目を逸らさず、だが決して大袈裟な決意ではない自然な真面目さで、続けた。
「あの子たちが何も知らないのは、私たちが何も教えなかったせいだから。許してほしいとは言わないけれど、せめて解ってあげてほしいの」
「どういうことだ? 回りくどい言い方はやめて要点を言え」
 レテは眉をひそめて先を急く彼女はため息をついて空を見つめた。先程よりも朱色が強い。
「十年程前……ガリアのベオク集落が、一夜にして壊滅した事件を知っている?」
「……そんな事もあったな」
 レテは呟いた。ベオクにはどうか知らないが、ラグズにとっては十年など最近のことだ。あまり興味はなかったが、そういう噂が流れたことは覚えている。
「それが何か?」
 レテが問うと、彼女はゆっくりと目を伏せた。感情の読めない淡々とした声で言う。
「あの事件で唯一生き残ったのが、アイクたち父子だったの。まだ本当に小さかったミストはともかく、アイクはもう七つほどになっていたのに、ガリアのことを何も覚えていなかった。母親を奪われた記憶が、幼い心には重すぎたんでしょうね」
 だから少年がそれを思い出さぬよう、ガリアの話題を極力避けてきた。その結果ラグズのことを何も知らぬまま育ってしまった。今はもう子供ではないから、彼が少しずつ真実を受け容れられるようになることを望んでいる、と彼女は続けた。
「言い訳だと解ってはいるわ。だけどせめて……知っていてもらいたくて」
 その話をすることで、彼女が自分に何を求めているのかはレテには解らない。だから仕方ないなどと言ってやる気はないし、彼女もそれを期待しているのではなさそうな気がする。
 とりあえず、レテが言えることといえば。
「連中に対する態度を変えはしない。同情する気もない。だが承知はした。……それで構わんな」
「ええ」
 ありがとう、と女性は微笑んだ。台詞の意味も表情の意味もやはりよく解らなかった。
 レテはきびすを返した。だが立ち去りかけて、ふと思い立ち振り返る。
「あなたの名前を聞いていなかったな」
 彼女は微笑みをたたえたまま、小首を傾げた。少女のような素振りだが、不思議とわざとらしいとは思わなかった。
「ティアマトよ。グレイル傭兵団の副団長、ティアマト」
「そうか。覚えておく」
 短く答え、レテは今度こそ歩き出した。朝日はもう完全に昇っている。
 ラグズは身軽だ。身体能力の話だけでなく、意思決定から行動に移るまでのプロセスが極めて簡略だ、という意味でもある。
 レテの方はもうとうに仕度を終えたというのに、ベオク共がいつまでもぐずぐずしている。
 追われているのは貴様らだろう、どうしてそんなに悠長なんだと怒鳴りつけてやりたかったが、朝からそんな真似をするのもこちらの損になるような気がして、やめておいた。
 庭を散策しながら時間を潰す。緑は昨晩の雨露をまとって輝いている。レテはこのような風景の中を歩くことを好んでいるが、今朝は不機嫌だ。待たされているということだけでなく、もう一つ要因がある。
「おい。そうやってコソコソと人の後ろについて回るのがベオクの流儀か? 本当にどこまでも下等な生き物だな」
 後方の草むらで、二つの肩が――ひとりあたり二つと勘定すれば、四つだが――が跳ねるのを感じた。
(ほら見ろ、お前がいつまでも声かけねーから、怒られちまったじゃねえかよ!)
(うるさいな! ぼくはさいしょから、ついてきてなんて言ってないよ!)
 ひそひそと囁き合っているが、レテの耳には筒抜けだ。聞こえよがしに嘆息してやると、観念したのか声の主たちが出てきた。
 レテはようやく振り返る。
「あのー……オハヨウ」
 青年の方はばつが悪そうに、短く刈った深緑の髪をしきりに触っていた。猫と虎の中間位の、ベオクにしては恵まれた体躯の青年だ。
 そして傍にいた少年は、やわらかそうな若草色の髪を揺らしながらレテに駆け寄ってきた。既に見つかったからだろうか、躊躇のないその動きに、レテの方こそ若干たじろぐ。少年は大きな目でレテを真っ直ぐに見上げた。そこに恐怖や敵意は見えず、ただ純然な何か――具体的に何とは判断がつかないが――だけがあった。
「ねぇ、おねえさんは、ライさんの知り合い?」
「おい、ヨファ! いきなり失礼だろ」
 青年が慌てたように言った。少年は、精一杯目をつり上げて首を後ろに向ける。
「ボーレはだまっててよ!」
 レテには少し意外だった。匂いからして、青年と少年はどこかで血が繋がっているのだろうと思う。ベオクは年長者、特に身内の年長者は立てるものだと聞いていたのだが。兄弟にしては匂いの差が顕著なので、従兄弟か何かなのかもしれないが……それにしても気が強いものだ。
 少年はレテを向き直ってまた問うた。
「あの、ね。エリンシア姫さまは、ぶじ?」
「……先の質問に答える前に次を放つか。気の短い」
 レテは軽く頭を押さえる真似をした。少年も似たように人差し指を側頭部に当てる。
「んと、じゃあ二番目優先!」
「御無事だ」
 レテは簡潔に事実だけを伝えた。少年はそれだけの情報でも満足したらしく、よかった、と相好を崩す。
 そして一つ目の問いを思い出したように、レテの顔をじっと見上げた。
「あのね。ライさんの知り合いだったら、言っておいてほしいことがあるんだ」
「自分で言ったらどうだ」
 レテが短く答えると、少年は沈んだ表情で頷いた。
「ホントはそうしたいけど……。ライさんはえらい人みたいだったし、会えないかもしれないから。おねがいします」
 少年は頭を下げた。問いに直接答えた訳ではないが、確認しては来なかった。ベオクは生きている年数の割に老けた外見を持っているというから、この小ささでこの理解力ならなかなかに利発なのだろう。
 レテは嘆息して首の後ろをかいた。
「聞くだけ聞こう」
 少年は途端にぱっと顔を輝かせ、拳を握りしめて声のトーンを上げる。
「エリンシアさまと、ぼくの家族を助けてくれてありがとうございましたって、そう伝えて! 本当にどうもありがとうございました、って!!」
「分かった」
 この程度の伝言なら、拒んで駄々をこねられるよりは請けてしまった方が楽だ。どうせこっちは嫌でも、ライの面を見ることになるのだろうから。
「お前たちがライに会う機会を得られなければ、伝えておこう」
 我ながら決して愛想のいい態度ではなかったと思うのだが、少年は心底嬉しそうに笑ったのだった。
「ありがとう、おねえさん!」
「……私は『おねえさん』ではない。レテだ」
 レテは眉をひそめながら言った。どうでもいいといえばどうでもいいことなのだが、どうでもいいだけに気になる。
 レテさん、と口の中で繰り返してから、少年は自分を指差した。
「ぼくは、ヨファだよ。よろしくね」
 レテは嘆息して、虫でも払うように右手を振った。
「そんなことはいい。さっさと仕度をしろ。これ以上我々を待たせるな」
「はい!」
 何が楽しいのやら、にこにこしながら少年は駆け去っていった。
 だが青年の方は立ち去らなかった。レテが訝しげな目を向けると、ぱっと視線を逸らして後頭部をかく。
「……あっーと、悪かったな。弟が」
 青年は口の中でもごもごと言った。やはり兄弟らしいが、本当にそうなのか、それともそういうことにしてあるのかは知らない。レテには興味のないことだ。
 ともかくも青年はそう言い張って、レテの顔を見た。
「おれ、今のガキの兄貴でボーレってんだ。ライにはホントに感謝してっけど、おれはあんたたちにも感謝してる。昨日はマジで助かった、ありがとう」
「心にもない礼は要らん」
 レテはきびすを返した。ざ、と青年が足を踏み出す音がする。
「違ェって! ホントに感謝してるんだ!」
「それでも必要ない。仕事だ」
 レテは視線だけで振り向き、短く告げた。
 青年は眉をひそめて――それはレテ自身への不満というより、伝わらないことへの苛立ちのようであったが――言った。
「だとしてもおれは礼言いてぇんだよ」
 レテの不機嫌な表情に気付いたのかもしれない。青年はふと困ったように笑いながら、肩をすくめた。
「おれらも仕事で人のこと守ったりすっけど、やっぱ『当たり前』って顔されるより『ありがとう』って言ってもらえた方が嬉しいからさ。別にそれ目当てで働くんじゃねーけど、なんか……なんかさ、その方がいいじゃん」
 随分と言葉が不自由なことだ。レテは嘆息する。青年はまた頭をかいた。
「わり、そんだけ。おれも仕度してくるわ」
 背中を向けて駆け去っていく。レテはそれを一瞬だけ見遣って、散策を再開した。

 

 しばらく歩いているうちに、同じように時間を潰しているモゥディを見つけた。
 彼が一人ではなかったので少しためらったが、何も自分が遠慮する道理もないと思い直して声をかける。
「モゥディ」
 モゥディは振り向いて、オお、と破顔した。
 レテは一緒にいた少年のことは呼ばない。だが少年も振り返り、不機嫌な様子もなく答える。
「おはよう。レテ」
 レテは一瞥だけで返した。名乗った覚えはないのだが、モゥディに聞くか何かしたのだろう。
 レテも少年の名を覚えていない訳ではない。しかし呼ぶ必要を感じないのだ。
「あんたも仕度はもういいのか?」
 少年は気安く尋ねてきた。レテはモゥディを挟むようにして、少年と距離を取る。
「我々は身ひとつで動ける。愚鈍な貴様らと違ってな」
「それは羨ましいことだな」
 少年は肩をすくめた。嫌味に気付かず素直に感心しているのか、それとも嫌味で応酬しているのか、どうも彼の話し方は判別しづらい。
「それよりも」
 レテの方もそれをいちいち追求するほど、彼に興味を持ってはいなかった。右手で左の二の腕に触れつつ、左手の先で自分の首をかいた。
「我らの動きに希望があるのなら、聞いてやらなくもないぞ」
「何だと?」
 少年は険しい目つきになった。いちいち感情の動く条件が分かりづらい奴だ。今のは怒るようなことではなかろう。
「だから!」
 レテは声を荒げてしまってから、これでは余計面倒なことになると思い直し、トーンを落とした。
「なるべくお前の希望に添うように動いてやる、と言ってるんだ」
 少年は目を丸くしていた。きちんと目を開けていれば歳相応――何歳なのかは知らないが、せいぜい幼子に毛が生えた程度だろう――に見える。いつも眉間にしわを寄せているから爺くさく見えるのだ、とどうでもいいことがちらりと頭をかすめた。
「いいのか?」
 少年はその表情のまま、少年らしい口調で問うた。
 いいから言っているんだろう、と思うのだがそれを言っては話が進まない。レテは小さく頷いた。
「元々、ベオク同士の戦いなのだ。お前たちの要請なき場合は手出し無用と、上官から言い渡されている」
「だが、昨日は……」
 少年がまた眉をひそめて、口答えしてきた。レテはかっと頭に血を上らせた。
「あれは……!」
 だがすんでのところで怒鳴り声を呑み込む。
 答えを待つようにじっとレテの顔を見つめる少年から目を逸らし、長い沈黙の後、レテは大きな音を立てて舌打ちした。
「……非常事態だ」
 助けてやったのだから、ガタガタ抜かすなというのだ。
「アのままデは、アイクたちが危ないと思った。ダから」
 助け舟のつもりだろう、モゥディが口を出してきた。少年は軽く腕を組み、右手を口許にやる。
「確かに、あのときは危なかったな」
 そして真っ直ぐに顔を上げ、レテたちを見た。
「ありがとう。あんたたちが来てくれて助かった」
「ドういたしまして」
 モゥディは笑う。レテは笑わなかった。ああ、とだけ呟いて顔を背けた。
 無視してもよかったのだ。よかったのに、何故か返事をするべきだというような気分にさせられた。
 彼の蒼い瞳のせいだと思う。朝の湖面のように漣のない澄んだ目だった。