第二章 渡海 - 2/7

SIDE:Ike

 

白浜

 

 ガリア王都へ向かう途上、一向は海岸沿いを進んでいる。
「なつかしいわね、この辺りは……何ひとつ変わっていない」
 ティアマトは感慨深げに呟いた。彼女はクリミアの騎士だった頃、ガリア王国との交換武官に志願して、王宮に駐留したことがあるそうだ。それでラグズを見ても驚かなかったらしい。
「潮風が気持ちいいわね。見て! とても綺麗」
 ティアマトが指差す先に目をやると、水平線が陽の光を反射して輝いていた。その上方に広がる空も突き抜けた青さをしている。絡みつくような暑さと押し潰すような樹々に覆われていた森に比べると、格段に心地よい環境だ。
 遊びに来ているんじゃないのよ、といつもなら口にするであろうティアマトが、これだけはしゃいでいることを考えても……ガリアというのは、シノンの言っていたほどひどい場所ではなさそうだ。
「そういえば、親父も古城の位置を知ってたり……ガリアに来たことがあるような素振りだったな?」
 あれじゃ聞いていないかもしれない、と思いながら口にした言葉にティアマトが振り返る。風になびく朱色の髪を指先で押さえ、ティアマトはやわらかく微笑んだ。
「ええ。私たちだけじゃなく……あなたもね、アイク」
「え?」
 聞き返そうとした瞬間、アイク、と誰かに名を呼ばれた。ティアマトが小さく肩をすくめる。
「モゥディだわ。答えてあげないと」
「ああ、だが……」
「話の続きは、お城についてからにしましょう」
 一方的に打ち切って歩いて行ってしまった。アイクは眉をひそめて後ろ姿を見送る。
 本当に話してくれる気はあるのだろうか。戦争が起こってからというもの、色々思わせぶりなことばかり言われて、そのくせ肝心なところでお茶を濁されている気がする。
 とにかくもモゥディの所へ行く。
「どうしたんだ?」
「みんな疲れてナいか? 少し休んだホうがイいか?」
 ベオクとラグズで体力が違うのを気にしてくれているのだろう。しかもこちらには女子供がいる。
 とはいっても、傭兵や商人の一団だ。一般家庭の女子供とは訳が違う。アイクは後続を見渡して、大丈夫だ、と答えた。ソれならヨかった、とモゥディが笑う。少し前を歩いていたレテが不機嫌そうに言った。
「ベオクというのは軟弱な生き物だ。この程度の距離、我らだけなら三日もあれば十分だというのに」
「レテ」
 モゥディが咎めるように呼ぶ。
「本当のことじゃないか」
 レテは腕組みをしながら答えた。この件に関しては反論できないので、アイクは何も言わない。モゥディは子供を叱る口調で腰に手を当てた。
「レテがソんな態度だと、王の恥にナる。モゥディも恥ずかしいぞ」
「ぶ、部下のくせに、上官に口答えするな!」
 レテは真っ赤になってモゥディを指差した。モゥディは首を横に振って取り合わなかった。どちらが上官だか分かったものではない。
「悪いコとは悪い。レテはイい戦士だが、ベオクのコとにナると頭が固スぎる」
「なんだとぉ……?」
 レテはモゥディににじり寄った。何か訳分からん方向にいき始めたぞ、とアイクは二人の間に割って入る。
「おいおい。二人とも、ちょっと落ち着けよ」
「誰のせいで――」
 矛先をこちらに向けかけたレテはしかし、途中で唐突に動きを止めた。いや。橙の耳だけ細かく揺れている。
 モゥディがこれまでと違う険しい顔で言った。
「コのニおい、鉄のニおい……。大勢のベオクの武器と鎧のニおいだ!!」
「本当か!?」
「こんな時に嘘などつくか!!」
 思わず叫んでしまったら、レテに怒鳴られた上に舌打ちまでされた。
 南にある古城に沢山のベオクがおり、鉄の道具を持っている、とモゥディが説明してくれた。デイン兵共め、と吐き捨てたレテに、アイクは自分の発言だけが彼女を怒らせたのではないらしいことを覚る。
「これから、どうしたい?」
 ティアマトに仲間を集めさせていると、レテが静かに問うてきた。あまりに落ち着いた声だったのでつい、何がだと問い返してしまってえらく苛ついた顔をされた。
「目の前のデイン兵たちを相手にするなら、南の古城を落とせばいい。もし逃げるなら」
 抜け道を、とレテは臭いがすると言ったのと別の方向を示した。
 どうせ戦わないのだろうが一応名誉の為に訊いておいてやる、と言わんばかりであった。
「俺は戦う」
 アイクは即答した。レテは耳を疑った風だった。同じ言葉を繰り返す代わりに、アイクは短く理由を述べる。
「逃げることが有効な場合もあるだろう。だが、今は負ける気がしない」
「……そうか」
 レテは大きくため息をついただけで、皮肉は口にしなかった。能無しの大言と呆れられているのかもしれなかったが、紫の瞳からは何も読み取れない。
 行商団(イレースもその勘定に入れた)を下がらせ、陣形を整える。さぁ行こうかと思ったとき、商人達と一緒にいるとばかり思っていたミストが駆けて来た。
「ね、お兄ちゃん! わたしも、一緒に戦う」
 ミストは真剣な表情で言った。それがあまりに真剣に過ぎた為、アイクはかえって声を荒げる。
「ダメに決まってるだろう! それにお前は、何の武器も使えないんだし」
「これがあるもん! キルロイに無理を言って、教えてもらってたの」
 ミストは後ろ手に持っていた物を誇らしげに掲げてみせた。癒しの杖だ。首を傾けて、杖の陰から覗き込むようにアイクを見上げている。アイクは恨みがましい目をキルロイに向けた。キルロイは、小さくなって俯いた。
 ミストは兄の注目を自分に戻そうと外套を引く。
「ねぇいいでしょ? ちょびっとだけど傷の回復、できるよ」
「ちょびっと程度で戦場に出す訳にはいか……」
 言いかけたところを、いい加減にしろこのチビ、というボーレの怒鳴り声にかき消された。
 あいつはミストにそんな乱暴な言い方をしたろうか、と思ったら、ボーレが相手にしているのは弟のヨファだった。
「聞き分けないのも大概にしとけよ!」
「やだ。ぼくも、いっしょに戦う! 弓が使えるもん!!」
 ヨファは先程のミストと同じように、弓を高々と持ち上げてみせた。アイクが見慣れているもの――たとえばシノンが使っていたような――よりも小振りな、玩具のような弓だ。
 ボーレはその弓束を人差し指の関節で叩きながら、意地の悪い笑顔を浮かべた。
「ほぅ、それは初耳だなぁ? ウソも休み休み言えよ!」
「うそじゃない!」
 ヨファは弓をかばうようにして抱き込んだ。二人の様子を見ていたミストが言う。
「うん、うそじゃない」
 さらりと、真顔で頷いた。口裏を合わせているようには見えない。眉をひそめて顔を見合わせる兄たちを横目に、ミストはヨファに問いかける。
「ヨファ、いつも弓の練習してたけど、結構、うまいよね?」
「だよね?」
 ヨファもにこりともせずに首を傾げた。ひどく自信ありげだ。
「いつの間に弓の扱いなんて覚えたんだ?」
 だがアイクが問うと、ヨファは途端に落ち着きをなくした。どもりながら視線を彷徨わせている。
「え、えーっと、あの、自然にできるようになって……」
「ウソついてんじゃねーぞ、このくそチビ! 武器ってのはなぁ、基本も教えてもらわずに使えるもんじゃねーんだよ!」
 ボーレが勢いを取り戻して噛み付いた。ヨファも強気になりボーレを睨みつける。
「だったら、ぼく天才だもん! 一人でできるようになったもん!」
「こーのー……」
 頭でも叩こうとしたのか、ボーレが拳を振り上げたとき、ミストが両手を握り締めて叫んだ。
「出来るったら出来るんだってば! ボーレのわからずや!」
「わからずや!!」
 ヨファがすかさず続いた。ボーレは絶句して動きを止めていた。弟に何を言われても今更動じるような奴ではないが、ミストにまで非難されたのが堪えたのだろう。
 アイクは嘆息して頭を抱えた。
「お前たち、いい加減に……」
 だが言葉の続きは発せられることなく呑み込まれる。ミストが震えていることに気付いて、言い止さずにいられなくなったのだ。
「……もう、やなんだもん。お兄ちゃん達のこと心配しながら待ってるだけなんて……それなら、一緒にいる方がいい!」
 アイクは返事が出来なかった。キルロイが小走りに駆けて来てミストとヨファの肩を抱き、アイク、と遠慮がちに呼びかける。
「僕は二人が戦場に出ることが、正しいことかどうかは分からない。でも二人の言ってることはすごくよく解るんだ。自分の見えないところで、大切な人が危険にさらされている……なのにあたたかい場所で祈るしか出来ない、その苦しさは、すごく」
 僕もそうだったから、とキルロイは寂しそうに笑った。アイクは黙って眉間にしわを寄せる。
 全く、偉そうな口を叩いて。俺だってほんの少し前まではそうだったじゃないか――みんなだけを危ない目に遭わせたくない、力になりたいってあんなに思ってたくせに。
 ボーレも感じるところがあったのだろう。少し躊躇った後、膝を曲げてヨファの顔を覗き込んだ。
「お前も、そうなのか?」
「うん。絶対、いっしょに行く!」
 ヨファは大きく首を縦に振った。どうやら意志は固いらしい。
「どうする? 新団長」
 ボーレがため息混じりに訊いて来る。アイクもため息で返す。
「わかった。二人共連れて行こう。側にいた方が、守りやすいって利点もあるしな」
 ミストとヨファは手に手を取って喜んだ。キルロイは複雑そうな笑みだ。ああは言っても心配なのだろう。
 何か言葉をかけようかと思ったが、別の方から声がかかったのでアイクはそちらに意識を向けた。
「話はまとまったか」
 レテだ。口調が苛立っている。謝罪しながら振り向き、そしてアイクは動きを止めた。
「……レテ? どうした。あんた、顔色悪くないか」
「うるさい。私は前線で地理を教える。モゥディは後方で行商団の警護をさせる。子守りは貴様らで何とかしろ。異論はないな?」
 レテは早口で言い捨ててアイクを追い抜いた。
 お前の希望に添うように、とか言っていたくせに、有無を言わせる気はなさそうじゃないか。
 そう思いつつも他に意見もないので、ああと頷いておく。
 やはり食事を碌にとっていなかったのではないだろうか。あんな細い身体をして――。
 気に留めておいた方がよさそうだ、と胸中で呟きながらアイクは彼女に従った。
 白浜に鮮血。先日の港町の件といい、争いというのは場所を選ばないのだなとふとした拍子にアイクは思う。
 のどかな漁村に転々と残るデイン兵の屍を彼女は決して喜ばないだろうが、それを自分たちの死体で代える訳にはいかないのだから仕方ない。
 彼女は化身すらせずに腕を組んで戦いの様子を見ている。ずっとつまらない芝居でも見せられているような顔をしていた。
 タタナ砦に向かうのに、アイクたちは正規のルートをとらなかった。北の海岸を通り、裏門からの制圧を目指す。道沿いに行って正面突破なぞ出来る人数ではないのだ。
 こちらにデイン兵はあまりいない。馬が砂に足を取られるので歩みは遅いが、各個撃破できる規模なのは大いにありがたい。
 そうしてアイク達が着実に駒を進めていると、レテが急に駆け寄ってきた。声を潜めて呟く。
「丑寅の方角。何か飛来している」
「――飛竜騎士団かもしれません」
 セネリオが冷徹な声音で言った。
「もしそうだとすれば、この足場で我々が彼らに勝てる見込みはほぼありませんね。もっとも、土の上に立っていたとして上がる勝率などたかが知れていますが。どうします、アイク?」
 どうします、も何も、セネリオの結論はアイクには解っている。
 ただ自分で口にすることは彼のプライドが許さないのだろう。アイクは剣の柄を握り締めた。
「手を借りるかもしれん。構わないか、レテ」
「承知した」
 レテは低い声で短く答えた。
 この期に及んで確率などと言ってはいられないのだ。生きると決めたら生きる。それしか道はない。
 アイクはレテの指摘した方角を睨む。そして何かの影が見え始めたとき。
「ごめん大将、背中借りるッ!」
「は!?」
 ――ワユが地面を蹴り、アイクの背を踏み台にして跳躍した。
 頂点から落下する勢いを乗せて、天空の騎馬に剣を振り下ろす。相手の騎士はそれを槍で受けた。不思議なことに激しい金属音はしなかった。騎士が槍を旋回させる。舞師のように流麗な動き。力を入れているようには見えないのに、ワユの身体はあっさりとバランスを崩し中空に投げ出される。
 アイクは落下点に走り込みワユを抱き留めた。ワユの剣が掠め少し頬を切ったが気にしている場合ではない。ヨファが素早く矢筒に手を伸ばす。騎士が叫ぶ。
「アイクさん! 私です、覚えてますか!?」
 アイクはその名をとっさに思い出すことは出来なかったが、とにかくもヨファに向けて、よせと怒鳴った。
 ヨファが矢から手を離す。ワユの脚を下ろし、アイクは改めて騎士を見た。
「あんたは確か……」
「はい、この間助けていただいたマーシャです!」
 桃色の髪をした騎士はにっこりと笑った。
 思い出した。タルマの海賊騒ぎのときに、港町で偶然助けた天馬騎士だ。騎士――マーシャは天馬を下ろし、自らも砂の上に降り立った。愛馬も本人も全く音をさせない。マーシャはまず深々と頭を下げた。
「ごめんなさい! 約束通りご恩返しにきたはずなのに、攻撃してしまうなんて……」
「あ、ていうか、先に手ぇ出したのあたしだし。ごめんね、あたしすぐ早とちりしちゃうんだよね」
 ワユはひらひらと手を振った。そういえばアイクも初対面のとき斬りかかられたのだった。危ない女だ。
 ともあれワユはアイクから離れ、剣を納めた。小さな両手を後ろで組む。紫の髪が跳ねる。
「大将の知り合い?」
「はい! 傭兵団に入れていただきたくて、来ました」
 マーシャは両掌を合わせて小首を傾げた。まるで少女同士、他愛もない話をしているかのようだ。アイクは眉をひそめて割り込む。
「でも、あんたはベグニオンの天馬騎士団にいたと……」
「やめてきちゃいました!」
 マーシャは小さな失敗を見られた子供のように、愛想よく笑顔を浮かべてみせた。そんな簡単に、と声を荒げかけ、アイクは嘆息して語気を抑える。
「いいか、はっきり言うが、うちは貧乏傭兵団だぞ? 給金一つとっても、正式な騎士団とは比べものには……」
「ダメですか?」
 マーシャが上目遣いに顔を覗き込んでくる。ミストといいヨファといい、女子供というのはどうしてこう、情に訴えて論理をすりかえようとするのだろう。
「ダメとかじゃなくて。あんたが損をするって話をだな……」
「ダメじゃないんなら入団させて下さい! 全然、損なんかしません! 一生懸命働きますから、お願いしますっ!!」
「いいのではありませんか?」
 傍らに歩み寄り、耳打ちしたのはセネリオだった。意外だな、と思ったのだが、続く言葉はいつもの彼だ。
「曲がりなりにもベグニオン天馬騎士団に所属していたのなら、実力は折り紙つきでしょうし、天馬の機動力は斥候としても重宝します。こちらは向こうの無理を受け入れる立場ですから、雇用条件が多少無茶でも契約の成立は可能でしょう」
「あたしも入れてあげたらいいと思う」
 ワユが大きな瞳を鋭く細めた。
「強いよ。あの子」
 アイクはうなじの辺りをかいた。
 天馬騎士団の名はいかな世間知らずのアイクとて知っている。一瞬だが剣を交えたワユも認めていることだし、実際的なことを言えば大いにありがたい申し出だった。
 人情で考えれば、なるべく巻き込みたくはなかったが。
「そこまで言うなら、とりあえずやってみるか? こっちも人手不足だからな。いきなり忙しいとは思うが」
「まっかせといてください!」
 マーシャはいかにも頼もしげに両拳を握った。
「……構わないか、レテ?」
 アイクは後ろを振り返った。腕組みをしてずっと黙っていたレテが、重々しく口を開く。
「貴様らの団のことは貴様らで処理しろ。私の関知するところではない」
 そうか、とアイクは擦れた声で呟いた。言われて見れば関係のないことかもしれなかった。何故真っ先に副長であるティアマトや、参謀のセネリオに確認を求めなかったのか、アイク自身にもよく分からない。
 それより。アイクは口内が粘つくのを感じながら、思う。関知するところではないと言いながら、レテは何故あんな目でマーシャを見る? 初めてアイクを見たときと同じ不動の眼差し。憎悪にすら至らぬ、凍りついた侮蔑。
「さぁ。話はまとまったようだから行きましょう。こんな所で足踏みしている場合じゃないわ」
 ティアマトが皆に声をかけた。レテはふいと顔を背けて先頭を歩き出す。マーシャはアイクに困ったような微笑を一瞬だけ向けると、天馬に跨った。アイクは唾をかき集めて何とか呑み込んだ。
 そうか。レテのあれは、俺への感情でもマーシャへの感情でもない。――俺たちを通した、『ベオク』という種全体への諦めだ。
 ぎりと、奥歯を噛む。諦めさせて、たまるか。アイクは砂を力強く踏みしめて足を速めた。過去は変えられない。ベオク全てを変えることも出来はしない。だから、せめて自分たちだけでも変わろう。彼女の中にある『ベオク』の総体を、きっと突き崩す。
 春先にあってなお海辺の陽射は激しい。
 

 

「デインに逆らった傭兵共に死を! 奴らに辱められた同胞たちの恥を雪ぐのは、我らだ!!」
 砦の物見からデイン軍の指揮官が、口角泡を飛ばして――とは言っても、流石にベオクの視力ではそこまでは見えないが――怒鳴り散らしている。
 アイクとしては言いがかりもいいところだと思う。デインに逆らおうとした訳でも、ましてや辱めようとした訳でもない。勝手にやって来たから撃退したまでである。いわば正当防衛だ。まぁそんな理屈の通用する連中ならそもそも攻め込んでは来ないか、と結論を出したところでデイン兵が飛び出してきたので振り向きざまに斬り伏せた。
 ただちにどうこうという話ではないが、このままでは埒が明かない。なるべくなら手を借りたくなかったな、と胸中でぼやきながらアイクはレテの傍まで後退する。
「すまん。少しばかり手伝ってもらってもいいか。情けない話がどうも劣勢でな」
「そのようだな」
 レテは組んでいた腕を解き、首を回した。
「よかろう。貴様らのお遊戯を眺めるのにも飽いていた」
 反動なしに地面を蹴り上げる。高い位置での後ろ宙返り。降り立つ頃には化身を終えている。
 顎をしゃくるのに頷き、彼女と共にアイクは走り出す。デインの指揮官が物見から身を乗り出す。
「待ちかねたぞ、半獣! さぁ来い。この手で駆逐してくれる!」
 隣のレテがぐんと速度を上げた。まずい、とアイクは直感した。
 暴走しすぎて窮地に立たされるレテを想像したのではなかった。ただ相手の迂闊に呆れた。誇り高くしていれば敗北するだけで済んだものを。アイクはレテの背中を見ながら息を止めた。
 ――あの男、碌な死に方はさせてもらえまい。
 レテはデイン兵の足元を、まるで林を抜けるかのように無造作に駆け抜けていく。
 城壁に向けて跳ぶ。
 ベオクでは届かない間隔でつけられた突起に足をかけながら、見る間に物見台へと迫り行く。
 来いと挑発した本人も蒼褪める程の素早さだ。
 それでも腐っても武人と言うべきか、指揮官が周囲の兵に守られながら大振りな槍を構えると、レテは少し間を取った。威嚇するように鳴く。先手必勝とばかり兵たちが槍を突き出す。レテは跳躍して彼らの後頭部を踏みつけると、そのまま背中を駆け下りて指揮官に跳びかかり引き倒した身体に乗り上げてわずかに露出した頸部に爪と歯を同時に突き入れた。
 一瞬だった。全てのベオクが凍りついた。大物を仕留めた猫は誇示するがごとく獲物を咥えて引きずっていき、首を振って遥か下方の地面に放り投げた。
「突撃!!」
 アイクは考えるよりも先に絶叫した。今は考えてはいけないと思った。何も感じてはいけないと。ティアマトとオスカーが魁となって城へ突入した。レテは広い物見の上を粛々と一周した。逃げようとして転落するデイン兵も多くいた。抵抗を試みた者もひねり潰すように片付けられた。
 やがてアイクがその場所に辿り着いたとき、レテは既に化身を解き風に身を任せていた。
「……レテ」
 アイクは擦れた声で彼女の名を呼んだ。その続きは出て来なかった。ただ混乱していた。呼んで返事の得られるものだということだけを確かめたかった。
 レテはリボンをなびかせながら、瞳孔の細い目をアイクに向けた。
「少しのつもりだったのだがな。弱すぎて加減がつかめなかった」
 そうか、と呟いたつもりが声が出なかった。浅い呼吸を何度か繰り返して、アイクはようやく一言だけ口にした。
「助かった。ありがとう」
 レテは答えずに視線を天に戻した。嘘をついたつもりはなかったが、この空々しさは完全に見透かされているのだろうと思った。問題は自分の考えている程、単純でも容易でもないのだと、改めて突きつけられた気がした。
 濃い汗が伝う。彼女のさらりとした首元を見つめる。風に流れるリボンの色は、物言わぬガリアの樹々に似ていた。