第二章 渡海 - 1/7

SIDE:Ike

 

紫炎

 

 橙色の猫は姿を人のものに変えたにも関わらず、躊躇いもなく櫓から飛び降りた。
 アイクの前に軽々と着地する。石畳を流れる雨が小さな音を立てた。
 一見少年かと思ったが、違う。見た目はアイクと同じか、ともすれば少し幼いくらいの少女だ。アーモンド形の眼孔の中で、曙のようだと思った紫色の瞳が伏せられている。頭の上に張り出した耳と同色の髪は、艶やかに雫を弾いていた。
 少女は白く細い腕をだらりと下げたまま、動けずにいるアイクの横を通り過ぎていった。
「あ……!」
 我に返り、振り向く。少女はアイクたちを一瞥もすることなく城内に入っていった。アイクは一度流れてしまった撤退命令を再び発し、自分は真っ先に少女の後を追った。
 少女は石の廊下を真っ直ぐに歩いていた。ガリア王国の所有する城だ、内部構造は把握しているのかもしれない。アイクは小走りに彼女に追いついた。
「待ってくれ! なぁ、あんた……」
 呼びかける。だが肩を叩こうとして伸ばした手は、中途で止まった。少女は身体を半分だけ向けてアイクを見ていた。
 アイクとて、常に好意的な視線にさらされてきた訳ではない。だが睨まれていたのならまだよかったと、思う。その眼差しが伝えるのは、憎悪より冷酷な無関心だった。彼が『彼』であろうがあるまいが、まるで頓着しない類の認識であった。
 何か言わなければならない。恐怖に近い義務感に急かされる。だが自己の脅迫が、口下手な彼から更に言葉を奪う。アイクは黙って見ていた。桜桃に似た小さく赤い口唇が、その隙間から細かな音を落としたのを。
「きがえろ」
 少女もアイクを見ていた。だが見てはいなかった。その瞳に映っていたのは、『アイク』ではない。
「見苦しい」
 ――濡れそぼった、惨めな人間だ。
 アイクは眉をひそめ、微苦笑した。ぎこちなく肩をすくめる。
「あんたも着替えた方がいいな。風邪をひくぞ。届けてくれた物の中に服も、あったから」
 少女は答えなかった。目を閉じる。輪郭が淡く光り出す。
「ッ、わ……!」
 アイクは咄嗟に目を細めて顔を背けた。眩しかったのではない。身体を猫のものに変えた少女が、身体を思い切り震わせたからだ。橙の毛に付着していた水滴が一挙にアイクを襲った。
 アイクが目を開けたときに、少女は猫の姿のまま悠然と歩み去っていくところだった。
「レテ!」
 大男がアイクの横を走り抜けていく。太腿をかすめていった水色の尾に、彼女の同胞なのだと気付く。
「……レテ」
 アイクは立ち尽くしたまま、繰り返した。
 彼女の名と思しき単語を。まるで忘れてはいけないものを聞かされたかのように。
 

 

 
 急ぎ着替えを終え、アイクは待たせていた二人の元へ走った。応接間に入るなり、問う。
「早速だが、あんたたちが王宮からの使いか?」
 頷いたのは彼女ではなく、共にいた男の方だった。父グレイルを超す立派な体躯、顎を覆う水色の髭。しかしその目は波立たぬ湖面のように穏やかで、深い。
 男は少したどたどしい口調で答えた。
「ソうだ。ガリアの戦士モゥディだ。オまえはアイク、ソうだろう?」
「確かに俺が、アイクだ。一応団長をやらせてもらってる」
 アイクは頷き返した。
 ライもモゥディも――彼女もそうだが、アイクたちと姿形が違うのは事実だ。だがシノンが言った『醜い』という言葉は当てはまらないと思った。ただ異なるというだけで、彼らの身体は自分たちと同じくぬくもりあるものだ。見て、こうして少し言葉を交わしただけでもそう感じる。
「さっきは助かった、礼を言う」
 前に進み出る。モゥディは拒絶の意思を示さなかった。小さな目を一層細め、大きな口の端を滑らかに上げた。
「ライは言った。アイクは悪くナいヨそ者だと。モゥディたちは、キっと仲良くナれるだろう」
 アイクも表情をやわらげる。
 そうだ、敵意のないことさえ分かれば、きっと互いに歩み寄れる。彼らが自分たちに牙を剥くのは、相手が侮蔑的な態度を取るからで――。
 アイクの楽観的な結論を突き崩したのは、少女の冷たい声であった。
「どうだかな」
 小柄な少女。幼さを残した顔立ち。だが腕を組み横目でこちらを見遣るその姿は、下手なデイン将校などとは比べものにならぬほどアイクを威圧した。
 彼女はアイクを正面から見ない。
「こいつら『ベオク』は、二つの顔を使い分けるらしいからな。裏では何を考えていることやら」
 モゥディは困惑したような顔で、レテ、と彼女の名を呼んだ。
 彼女は一瞥すらしなかった。斜めからアイクを睨み上げているだけだ。
 アイクは台詞の中から、聞き慣れない単語を繰り返す。
「『ベオク』……? 何のことだ」
「そんなことも知らないのか」
 少女は小さく鼻を鳴らした。腕を解き、左手を腰に当てた状態でアイクの正面を向く。
 急のことに驚くアイクの目を覗き込みながら、少女は自分の頭を右手の人差し指で叩いた。
「我々力ある者を『ラグズ』、お前たち能無しを『ベオク』と呼ぶ。足りない脳味噌によく叩き込んでおくんだな、『能無し(ベオク)』」
「……何だと?」
 アイクは眉をひそめた。少女は目を逸らさない。
「自分たちの呼ばれ方には敏感とはな。我らをあの侮辱的な名で呼び、蔑んだ目で見るのは誰だ? 笑わせてくれる。それが友好を築こうという態度か!!」
 その烈しい紫は、痛みを伴ってアイクの瞳を貫いた。
 痛み――自分の、ではない。彼女の、そして彼女の同胞の痛みが、彼女を憤らせているのだ。そう呼ばれ続けた全てのラグズの屈辱が、彼女の姿でアイクを責める。
「レテ! オまえがヨくない。王は禁じてイる、ベオクとの争いを!!」
 モゥディが少女の腕を掴んだ。
 アイクは俯く。噛んだ口唇より浅はかな頭が痛んだ。
 何を甘ったれたことを考えていたのだ。『自分』が何もしていないからといって、わだかまりもなく簡単に歩み寄れるなどと……どの面を下げて。自分が負わねばならぬのは『アイク』として、『団長』としての責任だけではない。人間――『ベオク』としての罪もまた、背負わねばならぬのだ。
「確かに、俺たちはごく普通にその呼び名を使っていた。よくない言葉だと、少し考えれば分かりそうなものなのに……。他に呼び方を知らなかった。すまん」
「知らなかった、だと?」
 少女は簡単に彼を赦しはしなかった。胸倉を掴んで、無理やり視線を合わせる。
「馬鹿にされたものだな。我らに隷属を強いたお前たちは、そうやって過去を安易に忘れる。だが、我らは忘れない。お前たちにどんな仕打ちを受けてきたのかを」
 決して、床を向かせなかった。
「私はお前たちを信用しない。ライが何と言おうとも……王が何とおっしゃろうとも」
 彼女の視線の烈しさは、同時にひどく悲しかった。アイクは彼女の為に、彼女の同胞の為に一体何が出来るだろう。贖うということすら驕りに思える罪に対して、何を。今示せる精一杯の誠意はただ、目を逸らさずにいることだけだった。
 何も言わないアイクに痺れを切らしたか、少女は舌打ちして襟元から手を離した。
「……で?」
 不意に、それまで黙っていたセネリオが進み出てくる。普段から上機嫌であることのない少年だが、今日は殊更に不機嫌だ。
「劣った者が優れた者に服従するのは当然のことでしょう。そういう恨み言を聞かせる為に来たんですか?」
「その理屈で言えば服従するのは貴様らの方ではないのか?」
 少女はセネリオの物言いに声を荒げなかった。だが静かな声音はその分、重い怒りを感じさせる。
 セネリオは珍しく笑みを浮かべた――だがそれは決して、いい色のものではなかった。
「笑止。下等な『半獣』の考え方ですね」
 その呼び名を耳にした瞬間、少女は零れ落ちんばかりに目を見開いた。
「貴様ァッ!! その呼び名を使う者は、我々ガリアの敵だ!!」
 輪郭が淡く揺らいでいる。これは化身する予兆なのだと、もうアイクにも分かっていた。穏やかだったモゥディまで同じ状態になっている。
 アイクは改めて、自分がどれだけの恩赦を受けたのかを思い知った。自分が無知だったからではない。相手がライだから赦されていたのだ。八つ裂きにされても文句は言えぬような言葉を、自分は平然と口にしていたのだ。冷や汗が伝う。命を失っていたかもしれぬという恐怖ではなく、自分のどうしようもない愚かさに。
 後悔の念に襲われていたアイクは、その分目の前の出来事への対処が遅れた。今まさに発せられようとしている侮蔑の言葉を、止めることが出来なかった。
「そのナリで自尊心だけは人間並み。そうでしょう? 毛だらけの、醜い半獣共!!」
 二度目は、なかった。モゥディは化身した。激しい咆哮が響き渡る。
 少女は燃えるような憎悪を込めた瞳で、セネリオを指差した。
「モゥディ! 構わん、やってしまえ!!」
 考えるより先に身体が動いていた。セネリオを守りたかった? 無論そうだ。
 だが後から思えばアイクは、二人をもまた守りたかったのだ。取り返しのつかないあの、痛みから。
「アイクッ!!」
 呆気なく身体が飛ぶ。セネリオが叫ぶ。突き飛ばされただけだ、とアイクは答えようとして、そうでもないことに気付く。左肩から出血している。だが肩当のおかげで骨は無事なようだ。後で杖を振ってもらえば問題ないだろう。
 少女は自分が怪我でもしたように、呆然と立ち尽くしていた。モゥディも化身を解き、座り込んだ。
「アイク、スまない……。オまえに怪我をさせて……モゥディは……」
「大した怪我じゃない。大丈夫だ。そっちこそ、平気か? 爪、欠けてないか?」
 モゥディは大きな頭で何度も頷いていた。よかった、とアイクは呟く。
「こいつ、獣の分際で……!!」
 だが安心したのも束の間、セネリオが吐き捨てるのが聞こえた。魔法を放つつもりだ、と直感する。
「やめろ、セネリオ!!」
 アイクはセネリオに背を向けたまま怒鳴った。セネリオが叫び返す。
「どうして止めるんですか!? こいつは貴方を傷つけた! 許す訳にはいかな……」
 アイクはゆっくりと立ち上がり、セネリオの上がっていた方の腕を掴んだ。誰かを傷つけるにはあまりにか細い腕だった。
「お前が挑発しなければ、こうはならなかった。違うか?」
 声を低めて、問う。セネリオは泣きそうな顔で俯いた。
「すみません……」
 恐らく二人に対する謝罪ではないのだろう、とは思ったが、今はとりあえず不問にする。セネリオがこれだけ感情を露わにするというのは滅多なことではない。いずれゆっくりと話を聞いてやらなくては、と思いながらセネリオの頭に手を置いて、下がらせた。
 改めて二人の方を向く。
「二人共、団員の無礼は謝る。どうか許してくれないか。言い訳にしかならないが、俺たちは仲間を失ったばかりで……あまり冷静じゃいられなくてな」
 モゥディは笑顔で頷いた。
「アイクはモゥディを許した。ダからモゥディも、セネリオを許す。誰も怒ってはイない。仲直りだ」
「ありがとう」
 アイクも微苦笑を返した。少女は笑わなかったが、その代わり怒鳴りもしない。
「……こちらも、非礼は詫びよう」
 両腕を組んで、嘆息していた。
「まったく。安い挑発に引っ掛かって、自分達の使命を忘れるとは……とんだ失態だ」
「使命……?」
 アイクが呟くと、少女はこちらを見てはっきりと頷いた。
「王が傭兵団を招かれた。我々は、その案内の為に寄越された使者だ」

 

 目を開ける。石の天井が目に入る。アイクはひとつ欠伸して身を起こそうとしたが、寝台に縫い付けられたように動けなかった。
 使いすぎたか。舌打ちして何とか身体を転がした。痛む両腕を突っ張って、出来るだけゆっくりと上体を持ち上げる。いつもの何倍もの時間をかけて布団から出ると、アイクは大きくため息をついた。
 昨日のことをぼんやり思い返す。
 少女――レテは自分たちの立場について手短かつ一方的な説明を終えると、一日休んで体力を回復するように、と告げた。案外気を遣ってくれるのだなと思ったら、雨の中お荷物を引きずって歩き回るのは御免だと表情も変えずに言い捨てて部屋を出て行ってしまった。
 モゥディは食事の手伝いや城の案内などをしてくれたが、レテの姿はそれから一度も見ていない。
 まぁいい、今日また会えるだろう、とアイクは寝台から立ち上がった。
 全身の筋肉が張っている。特に重い右腕をさすりながら窓に歩み寄る。左手で雨戸を開けると、昨日の雨が嘘のように晴れ渡っていた。目を細め、露を帯びて輝く緑を見つめた。
 生きてるんだな、と訳もなく思った。まだちゃんと生きている。アイクは朝日を浴びながら、大きく伸びをした。
 朝食を取りに行ったらまた最後で、もっと早く起きなさいとティアマトに叱られた。確かに目ぼしい物はあらかた食べ尽くされていたことを考えると、そうした方が賢明だろう。仕度は一番早いのだから、これ以上早起きしても無駄に待たされるだけではないか、という気もするのだけれど。
 そして案の定、真っ先に仕度を終えて城内をうろついていたら、ミストと遭遇した。
 おはよ、とミストは疲れた様子で笑った。アイクも挨拶を返し、妹の顔を覗き込む。
「平気か?」
「平気、って言ったら嘘になるけど」
 ミストは目を伏せて髪をかき上げた。今日は少し寝癖がついている。ちゃんと眠ったのだろう。
「昨日は頭の中、もうむちゃくちゃで……。でも朝起きて、青い空見て、お日さまの光を浴びたときに……ああ、生きてるなって思ったの。お日さまって、あったかいよね」
 当たり前のことなんだけど、とミストは震える声で言って微苦笑を浮かべた。
 アイクは黙って俯いた。ああ、大丈夫だ。俺たちはどうしようもないくらい兄妹だ。
「だからね!」
 ミストは急に大声を出し、アイクの手を握った。驚いて顔を上げると、ミストは真っ直ぐに兄の目を見つめていた。
「わたし、がんばるよ。また、思い出して泣いちゃうこともあるかもしれないけど……。でも、お父さんとお母さんの分もちゃんと生きてかないと。親不孝、する訳にはいかないよね」
「そうだな。……頑張ろうな」
 アイクは手を握り返した。小さいけれど頼もしい手だ。ミストは元気よく頷くと、軽やかにアイクから離れた。
「わたしも仕度しなきゃ。じゃあお兄ちゃん、また後でね」
「なるべく早くしろよ」
 駆け去る背中に声をかけて、アイクもまた歩き出した。
 太陽が照らしてくれる。生きている。信頼できる仲間がいる。不安がない訳ではないが、しっかり両足で立って進んでいこう。
 日光をいっぱいに取り入れた廊下に、確かな足音が響いている。
 

 

 することもないので外に出ることにした。歩いているうちに昨日も見た大きい背中を発見する。
 声をかけるよりも早く彼は振り向き、アイク、とこちらの名を呼んで破顔した。
「準備はドうだ? モう、出発デきソうか?」
「俺以外は、まだかかりそうだ。待たせて悪いな」
 アイクは歩み寄りながら肩をすくめた。モゥディは穏やかな表情のまま首を横に振った。
「ジゃあ、モゥディはアイクと話をシて待とう」
「そうだな。付き合ってもらえると助かる」
 アイクは小さく頷く。モゥディは嬉しそうに何か言いかけたが、不意に困ったような顔をして、デも、と呟いた。
「モゥディの言葉、ダいじょうぶか? チゃんと通じてイるか?」
「問題ない」
 短く答えてから、アイクは思い直して、よくわかると付け足す。ヨかった、とモゥディは苦笑した。
「モゥディはコの言葉、少し苦手だ」
 獣牙族の仲間同士では言葉は必要ないのだそうだ。仕草と鳴き声だけで全て伝えられる。口数が少ない為によく誤解されるアイクにとっては、とても便利そうに思われるのだが、モゥディはそれだけではいけないのだと言う。
 獣牙の鳴き声は、獣牙族および似た性質を持つ獣にしか通じない。その点、テリウス語――通称『現代語』は、大陸全土で通用する言語だ。モゥディはこれを一生懸命学んでいる最中らしい。
「仲間同士で話せれば充分な気もするけどな?」
 アイクは首を傾げた。ソんなコとはナいぞ、とモゥディは笑う。否定の言葉でありながら、そうは感じさせないやわらかさを持った声音だった。
 モゥディはたどたどしくアイクに説明した。
「戦いにナりソうな時デも、話すコとで、無用な戦いを避けラれるコとがアるからな。ダから、言葉はタくさん通じたホうがイいぞ」
「無用の戦いを避ける為の言葉、か……」
 アイクは空を見ながら独りごちた。
 今までは傭兵団がアイクの世界の全てだった。近隣の町で商人と軽い会話をすること、依頼主を父に取り次ぐことがせいぜいで、害意のある者と言葉を交わす機会などなかった。
 傭兵として戦いに出ても、聞く耳を持たない相手は力でねじ伏せるしかないのだ、ということを学んだだけで。
 けれど言葉をちゃんと使って、そして戦わずに済むのなら、それに越したことはない。お互いに血を流さずに、手を握り合って笑うことが出来るのなら。
「そんな考え方も、あるんだな」
 世界はまだ広い。自分はまだ知らないことが多すぎる。
 もっと世界を知りたい、とアイクは思った。もっと多くの者と出逢いたい。異なる者たちともっと解り合いたい。
 自分が世界を変えられるとは思わないし、そんなつもりもない。ただ、自分の『世界』を変えられることがかなうなら。もっと世界を、知るべきなのだ。
 話しているうちに、レテがやってきてモゥディに声をかけた。
 アイクのことは呼ばない。名前を知らない筈はないだろうから、単純に無視されているのだろう。
「おはよう。レテ」
 挨拶すると、いたのかとでも言いたげに視線を返された。口にした訳でもないのに名を覚えていることを不審に思われたのかもしれない。
 しかしあんな鮮烈な出逢い方をした人物の名を、そうそう忘れるものではない。
「あんたも仕度はもういいのか?」
 めげずに話を振ると、レテはモゥディを挟むようにしてアイクとの距離を取った。
 昨日と変わらず正面から見てくれない。横目で睨むように視界に納めるだけだ。
「我々は身ひとつで動ける。愚鈍な貴様らと違ってな」
「それは羨ましいことだな」
 アイクは肩をすくめる。レテは顔をよそに向けて鼻を鳴らした。どう返してもまともに取り合ってくれる気はないらしい。
「それよりも」
 レテは話題を逸らした。とはいえ向こうから切り出されたことに満足を覚え、しかし言葉で返すとまた機嫌を損ねそうなので声は出さず、アイクは頷いて先を促す。レテは言い渋るように右手で左の二の腕に触れつつ、左手の先で自分の首をかいた。
「我らの動きに希望があるのなら、聞いてやらなくもないぞ」
「何だと?」
 アイクは眉をひそめた。多分に高慢な言い方ではあったが、明らかに譲歩した言葉だ。無論、敵意を剥き出しにされるよりは好ましい状況だ――だが、今このタイミングで、何故彼女は急に態度を変えたのだろうか。
 アイクの訝しげな言い方が悪かったのだろう。だから、とレテは声を荒げたが、ひとつ深呼吸をして気を落ち着かせたか、トーンを落とした。
「なるべくお前の希望に添うように動いてやる、と言ってるんだ」
「いいのか?」
 アイクは念を押す。面倒な確認をするな、と言いたげにレテは頷いた。
「元々、ベオク同士の戦いなのだ。お前たちの要請なき場合は手出し無用……と、上官から言い渡されている」
「だが、昨日は……」
 あんたたちは助けてくれたじゃないか、俺達は助けを呼ぶ余裕すらなかったのに。
 言おうとした言葉は、あれは、という怒鳴り声に遮られてしまった。しかしレテはまたしても途中で激しさを呑み込んだ。
 言ってくれればいいのに、とアイクは思う。ベオクを二枚舌のように言うのなら、自分こそ思うことをそのまま言ってくれれば、こちらにも受け取る心構えは出来ているのに。
 レテは目を逸らし、しばらく沈黙した後、大袈裟な音を立てて舌打ちした。
「……非常事態だ」
「アのままデは、アイクたちが危ないと思った。ダから」
 上手く感情を御しきれずにいるらしい上官に、モゥディがフォローを入れた。
 確かにあの時は危なかった、と頷いて、アイクは二人を真っ直ぐに見た。
「ありがとう。あんたたちが来てくれて助かった」
「ドういたしまして」
 モゥディは笑った。レテは笑わなかった。答えてもくれないだろうと思ったのだが、顔を背けながらも、ああ、と呟いたのが聞こえた。
 アイクは少し首を傾けて、自分の顎に触れた。そうか、と胸の内で納得する。
 つまり、彼女はとても真面目なのだ。任務とあらば自分の感情はさておいても遂行を目指す。しかし自分の感情に嘘はつけない。憎い相手でも主命を守り協力する。ただし取り入ることはしない。
 細い身体に強大な力を秘めているように、異なる高い矜持を同時に保ち続けているのだ。このガリアの少女は。
 とてもとても、誠実な者。ラグズの、獣牙族の、猫の、レテ。
 彼女について覚える項目は多く、アイクが知る項目はまだわずかだ。
 今はただその横顔しか見せてもらえずにいる。