非力
「腹、減ったな」
「だな」
アイクとボーレはテーブルに突っ伏したまま、呟いた。
傭兵砦の食堂。本日も春の陽はうららか。傍で本を読んでいたオスカーが顔を上げる。
「二人共、今食べたばかりだろう」
アイクたちは、がばと上体を起こし反論する。
「仕方ない、成長期なんだ。なぁボーレ」
「そうだよな、食わねぇと身体が出来ねぇよ。なぁアイク」
「……君たち、料理を作る側の気持ちになったことはあるかい」
「あるさ。だからいつも残さず食べてるじゃないか。なぁボーレ」
「おかわりまでしてるじゃねぇか。なぁアイク」
オスカーは嘆息し、難しそうな本を卓に置く。
「それなら果物でも剥こうか、あまり数がないから二人で一つだよ」
「さすがオスカーは話が分かるな」
「何たって、おれの自慢の兄貴だからな!」
「まったく調子のいい……」
オスカーが呆れた様子で腰を上げたとき。
「た、大変だよみんな!!」
飴色の髪を乱して、一人の青年が飛び込んで来た。ボーレが椅子を鳴らして立ち上がる。
「キルロイ! 身体はもういいのか」
「あ、うん。熱も下がったし、おかげ様で……って! それどころじゃなくて!」
青年――キルロイは腕をぶんと振った。平素から白い肌が、蒼に近い程になっている。口唇も紫色だ。
「ミストと、ヨファが……! さ、山賊団にさらわれたんだ!!」
「はぁッ!?」
ボーレが大声を上げる。
「ど、どういうことだよ!? あいつら、野草摘みに行ってる筈じゃ……!!」
「そこを捕まったみたいなんだ。さっき門の所で預かった手紙が、実は脅迫状で……ミストたちを助けて欲しかったら、この間の山賊退治に参加した団員が来いって……!!」
「報復という訳か。子供をさらうとは、何と卑怯な……!!」
オスカーは呟いた。普段ほとんど怒りを露わにしない彼の拳が、震えている。
キルロイは件の手紙らしいものを、泣きそうな顔で握り締めた。
「悪い人には見えなかったのに……」
「いや、まぁ、キルロイにかかれば悪い奴の方が少ないっていうか。とりあえずお前のせいじゃねぇから、な?」
ボーレがキルロイをなだめている間に、アイクは部屋をするりと抜け出した。やることはひとつだった。部屋に戻り、戦支度を整える。
食堂に戻ると、そちらもすっかり鎧を着込んだオスカーが、眉をひそめてアイクを見た。
「アイク。そんな格好で何処に行くつもりだい」
「決まってるだろ。ミストたちを助けに行く」
あんただってそのつもりなんだろう、と視線でオスカーに訴える。キルロイがボーレとの会話を中断させ、アイクに駆け寄ってきた。
「待ってよ。ティアマトさんは、すぐに戻るからみんなは戦闘準備をして待ってるようにって……!」
「そんなこと言ってる場合か? 俺はもう行く!」
アイクはキルロイを振り切って飛び出していく。自分の足の速ささえもどかしい。
今はグレイルもティアマトも外している。頼れる者はない。この瞬間も、妹たちは恐ろしい思いをしているはずなのだ。
しかし二股に分かれた道で、アイクは立ち止まらざるを得なかった。
そういえば、指定の場所を聞いていない。キルロイから手紙を受け取ってくるんだったと、アイクは歯噛みしながら両の行先を睨みつける。迷っている時間すら勿体ないが、間違えればそれこそ致命的なロスになる。
どうする。一か八かで行くか?
「左だよ」
突然の声に振り返れば、愛馬に乗ったオスカーがいた。背中に死にそうな顔のキルロイがしがみついている。遠くからボーレの怒鳴り声が聞こえてくる。
「分かった」
アイクはそれしか言わずにまた走り出す。オスカーの馬が先導するように前に出る。
結局、オスカーも弟が心配なのだろう。だったら言い争う時間こそ無駄だ。
「って! おれを置いてくんじゃねぇ!!」
ボーレはこの際無視。どうせそのうち追いついてくる。
この間の、変に落ち着いた初陣とは気分がまるで違っていた。張り裂けそうな心臓で、アイクは妹の元へ全力で急ぐ。
「おいっ、誰か出て来い!!」
やっと辿り着いた盗賊団の根城を見上げ、アイクは叫ぶ。
男が一人出てくる。この間のと似たり寄ったりで区別がつかない。似た生活をしていると、顔まで同じになるのだろうか。
「よく来たなてめぇら! それだけの人数で来るとは、俺達も随分ナメ」
「ミストとヨファは無事か!?」
賊の台詞を最後まで聞いてやるほど、アイクの気は長くない。
部下らしい男が怒っているが、首領はもう少しだけ器が大きいらしい。落ち着いた口調で言う。
「無事だ。こちとら、あのガキ共に恨みはねぇからな」
「だったらさっさと解放しろ! おれたちが来たんだ、もう用済みだろ!?」
合流したボーレが声を荒げた。首領の口唇が歪む。
「まだだ。あのクソ生意気な赤毛女が来るまでは、預かっとくぜ」
「くそ……ッ!!」
アイクは口唇を噛んだ。ティアマトが来るまで待たされるなら、飛び出してきた意味がないではないか。
しかし幸か不幸か、せっかちなのは向こうも同じようだった。
「とりあえず、てめぇらだけでも片付けとくか。おい、出て来いや!!」
声に合わせ、根城の中からわらわらと山賊が出て来た。まるでカマキリの孵化だ。オスカーが一歩前に出る。
「キルロイ、君は下がって。誰かが負傷したら治療を頼む」
頷き、キルロイが下がる。アイクとボーレはキルロイの両側についた。
首領が叫ぶ。
「かかれ野郎共! 赤毛女さえいなけりゃ、あいつらは雑魚だ!!」
「何だとコラァァァ!!」
ボーレが斧を振り上げた。アイクは抜き放った剣を首領に向ける。
もう心臓はうるさくない。あれだけ急いだのに疲れもない。頭は驚くほど冷静で、気持ちも十全だ。仕損じることなど万が一にもないと思った。
低い声で言い放つ。
「その台詞、後悔させてやる」
戦闘が始まってから程なく、ティアマトが加わった。
それまでも決して劣勢ではなかったものの、彼女の登場から状況が一変。既に首領らしき男を討ち取り、残りは散り散りに逃げて行った。
先日と合わせ首領格二人を潰したのだ。この盗賊団はもう終わりだろう。そもそも人質を取るような賊。恐るるに足りない。
「よし! 何とかなったな」
「いや、何つーか、おれたちつえーって!」
アイクとボーレは満足げに武器を納める。そこへティアマトが、ぴしゃりと言い放った。
「いい加減になさい! 貴方達は、明らかな命令違反を犯したのよ。結果よしならいいという話では……」
「副長、私がついていながら申し訳ありませんでした。ですが今はヨファ達の安否が」
オスカーが遮る。冷静を装っているが、内心かなり焦っているのが見て取れた。ティアマトは嘆息し、みすぼらしい小屋の方を見る。
「そうね。恐らくあそこに――」
「いやぁ! 放して、放してってばぁ!!」
甲高い声。少女の悲鳴。あれは。
「ミスト!?」
小屋に駆け寄る。大男が出てきた。両脇にそれぞれ、ミストとヨファを抱え込んでいた。右手には鈍く光る斧が握られている。
「貴様っ! 二人に何かしてみろ、絶対に許さんっ!!」
アイクは激昂して叫んだ。男は激しく頭を振る。
「うるせぇッ! うるせえうるせえうるせえッ!! こいつらの命が惜しかったら、とっとと武器をこっちに放りやがれ! じゃねぇとこの娘ッコから順に……」
ミストが絶叫して身をよじる。無論そんなことで逃げられはしない。そうできるなら、もう既に実行しているはずだった。
だったらもう、あの斧がミストを傷つける前に無力化するしかない。アイクは柄に手をかける。
「――待って!!」
ティアマトがそれを押し留めた。訝しげな顔で動きを止める、アイクと山賊。
「武器を渡すわ。……ほら」
ティアマトは無表情で斧を放り投げた。呆気に取られていた男は状況を解し、引きつった笑みを浮かべる。
「へ……へへっ。いい心がけだぜぇ、女ァ!!」
「二人を助ける為よ。みんな、従ってちょうだい」
アイクたちも、毒づきながら武器を捨てた。男の笑いがいよいよ大きくなる。
「よーし、これでてめェらは丸腰だ。つまり俺がこのガキを仕留めるのを、黙って見てることしか出来ねーってこった!!」
非道な斧が、振り上げられた。
恐怖に歪むミストたちの顔。飛び出していくヨファの兄たちの背中。踏み出す自分の足。
全てがひどく遅い。浮遊感に似た、非現実的な感覚。
嘘だ。嘘だ。嘘だ。こんなこと、起こる筈がない。俺たちは間に合ったじゃないか。二人は、無事で、
違う。……違う。違う、これが現実。何でこんなに遅いんだ。動け、俺。助けるんだ! 絶対に、たすけ、
――そしてアイクの横を駆け抜けた、一筋の風。
「え……?」
軽やかに、だが深々と、男の顔に矢が突き刺さる。男の身体が生命の力を失って崩れる。時間が再び動き始める。
「ヨファ!!」
ボーレが騒いでいる。ミストが、だいじょうぶ気絶してるだけ、となだめている。
全身から急激に汗が噴き出した。額を拭いアイクは呟いた。
「一体誰が……」
「眉間に一発命中させる達人技! オレ様以外にいねーだろうがよ!?」
傲慢な響き。振り返ると、高く結い上げた深紅の髪を、風になびかせている男。
「シノン!」
「感謝しろよ、ガキ共?」
にやりと笑って、シノンは弓を肩に載せた。
その背後で金属の音がうるさく響き、鎧の男が姿を現す。
「ひ、ひでぇよ、副ちょ、も、シノン、さ、も……。おれの鎧、じゃ、んなに、早く……走れね、ての、に」
蜂蜜色の髪を逆立てた男は、ぐったりと座り込んだ。アイクは驚きを通り越して、呆れたような心持になった。
「ガトリーまで……! じゃあ、ティアマトは」
「援軍を呼びに行ってたのよ」
ティアマトは微笑んだ。
「無駄にならなくてよかったわ。御苦労様、二人共」
「ま、オイシイところを戴けたんだ。急いで来た甲斐はあったさ」
「おれは、しんどかっただけ、なんすけど」
シノンは肩をすくめ、ガトリーは切れ切れに愚痴った。
「お兄ちゃん!」
ようやくミストが駆け寄ってくる。抱きしめてやろうにも、今までのことで服は返り血だらけだ。手袋を外し、頭を撫でてやった。
「よく頑張ったな。恐かったろ?」
「ううん! 信じてたもん。お兄ちゃん達が来てくれるって、信じてた! だから……全然平気!」
「そうか。ま、いつもみたいに鼻水たらしてベソかいてないだけ、上出来だ」
「ひどーい! わたし、鼻水なんかたらさないもん!!」
「そうかそうか。鼻汁か。それは悪かったな」
「もー、お兄ちゃんのバカ!!」
ティアマトが傍で、くすくすと笑っていた。もう厳しい副長の顔ではない。
「さぁ、帰りましょう! まったく、大変な一日だったわね」
「……お兄ちゃん。起きてる?」
その夜、アイクが部屋でぼうと寝転んでいると、ドアの向こうからミストの声がした。開けてみれば枕を抱いて立っている。
「一緒に寝てもいい?」
「ティアマトのとこじゃなくていいのか?」
「うん」
部屋の中に入れてやる。
こんなことを言い出すのは何年ぶりだろう。今日ぐらいは仕方ないか。
「寝小便するなよ?」
「する訳ないじゃない!」
「どうだかな。前に親父のベッドに潜り込んで、広大なテリウス大陸の地図を……」
「やだやめてよ! 一体いつの話してるのよ?」
「大声出すなよ。もう夜だぞ」
あらためて寝転がる。もう、と言いながらミストも横になる。
「……ねぇ。お兄ちゃん」
「ん?」
「初めて、人が死ぬのを見た日のこと、覚えてる?」
低めた、小さな声だった。アイクも合わせて、声を絞った。
「いや。覚えてないな。ずっとそういう環境だったから」
そう答えてから、言い直す。
「ティアマトが来てからは、ほとんどなくなったけど」
兄妹の父が就いているのは、とかく恨みを買いがちな職業だ。今回のように復讐を企てられることもよくあるし、常に命を狙われている。
ティアマトが来てから、父は子供を預けて一人戦うようになった。だがそれまでは一番傍で守っていた。つまり子供の目の前で人を、殺していた。それが一番安全なのだから仕方ないと、アイクにもミストにも解っていたけれど。
「わたしもね、覚えてないんだ」
でもね、とミストは俯いた。
「あんなに傍で見たのは、初めて」
アイクは黙っていた。ミストの頭を抱え込む。
最初は静かだったが、ミストの肩はやがて小刻みに震え出した。
(……恐くないなんて)
恐くなかったなんて。そんな筈が、あろうか。
「ごめんな。ちゃんと助けてやれなくて。えらかったな。ミストはヨファよりお姉ちゃんだもんな。頑張ったよな」
「がんばった……? わたし……」
「ああ、がんばった。もう大丈夫だ。俺しか見てないから、今は『お姉ちゃん』やめていいぞ」
「お兄ちゃぁ……ッ!!」
部屋にはミストの泣きじゃくる声だけが響いていた。やがてそれが止むと、アイクはきつく目を閉じた。
強くなる。もう恐い想いなんてさせないから。動けないなんて情けないことがないように。もっと、ずっと強くなるから。
彼もまた、ゆっくり眠りへと落ちていく。