第一章 開戦 - 1/6

SIDE:Ike

 

初陣

 

『ねぇ。この国は、確かにこの子を祝福してくれているわ。必ずこの子を愛してくれるわ。そう思うでしょう?』

 

 静かな木立に、激しい音が響いている。木剣(という名の木切れ)が、アイクの眼前で幾合もぶつかっている。
 アイクは全力で叩き込んでいるのに、右手一本の父をちっとも打ち崩せないのは一体どういう道理なのか。
「どうした、アイク。もう終わりか?」
 こっちがちょっと転んだぐらいで余裕面をしないでほしい。
 起き上がって再開。外からの斬りつけ、下からの払い、これでも駄目なら上段振りかぶり――!
「お父さーん! お兄ちゃーん!!」
 妹が能天気に手を振りながら駆けて来た。父は顔を綻ばせて娘を見る。
「おお、ミスト」
 ――戦いで余所見をする方が悪い! 
 アイクは遠慮なく父に打ちかかる。が、あえなく避けられてしたたか背中を殴られた。勢い倒れ込んで顎を強打。木剣が手元から離れ、乾いた地面を転がっていく。
「お兄ちゃん! お兄ちゃん!?」
 妹の声もだんだん遠くなる。
 くそ、親父、今日も本当に容赦ない……。

 

 ぼんやりした頭で、歌を聴いていた。
 身体に優しく触れる若い女。首を転がすと目が合った。妹と同じ碧の瞳を細めて微笑んでいる。アイクと同じ青い髪を片手で押さえる。
 知っている。覚えている。このひとは。

 ――母さん。

 呼んだ途端にあたたかな家はすっと消えてしまった。歌声だけがずっと続いている。
 アイクは身を起こし、首をめぐらせて声の主を探す。ミストが上機嫌で花を摘んでいる。
「ミスト、その歌は……」
「あ、お兄ちゃん」
「気が付いたか」
 父もすぐにやってきた。失神させた手前、容体ぐらいは気にしていたのか。
 ミストが花を抱えたまま立ち上がる。
「もう。お父さんたら、やりすぎだよ! いくら訓練用の剣だからって、本気で殴ることないじゃない」
「このくらいで音を上げているようでは、傭兵として生き抜いてはいけん」
 いくら娘に甘い父でも、この件は取り付く島もない。それでいい。
「誰が音を上げているって?」
 アイクだとて、譲る気はない。
 近くに転がっていた木剣を握り直して、鈍い切っ先を父親に向ける。
「一撃だ。親父にそれだけでも喰らわせるまでは、やめる訳にはいかない」
「今のままでは何度やっても同じだぞ?」
「だが、やらなけりゃ今のままだ」
 父は億劫そうに首を振って剣を構え直した。
 アイクは真っ直ぐに父の姿を見据える。会話するときに向き合うのとは全く違う、張り詰めてそれでいて熱くなるような空気に満ちる。
 ――ああ。この瞬間が、好きだ。
「行くぞ!!」
 父は(おお)きい。身体だけではなくて、何もかもがアイクと……いや、他の誰と比べても巨きい。
 今のままで勝てるなどと思うほど自惚れてはいない。だが一生勝てないなどと思うほど奥ゆかしくもない。
 ただ、超えたいと。『いつか』ではなく、日々自分の方に引き寄せる『その日』に。
 この強い男を、自らの父親を、超えたいと思う。
 アイクは猛々しい声を上げて、渾身の一撃を放った。馬鹿正直な大上段。グレイルは小さな呻きを発し膝をつく。その光景に、アイクは眉をひそめて右腕を下ろした。
 ミストが駆け寄ってきて腕に抱きつく。
「お兄ちゃん、すっごーい! お父さんに一撃入れられたじゃない!」
「見た目だけはな」
 宣言どおりの『一撃』で喜んでいるのは妹だけだ。
「本気じゃなかっただろう。親父」
「それに気付けたなら、お前も少しは成長したということだ」
 グレイルは口唇の端をふっと上げたかと思えば、何か逡巡した素振りを見せた。アイクが問いかける前に、小さなため息とともに言葉を継ぐ。
「まぁ、いいだろう。お前も明日から傭兵団に参加しろ」
「本当か!?」
 自分でも現金に感じるほど上擦った声が出た。父はあからさまな呆れ顔をしている。
「ただし、無理だと思ったらすぐに訓練に逆戻りさせるぞ」
「大丈夫だ。すぐに、みんなに追いついてみせる」
「どうだかな」
 きびすを返す。グレイルの向いた先は、傭兵砦だ。
「さぁ、そろそろ戻るぞ。みんなが待っている」
 グレイルが歩き出す。ミストが続く。出遅れたアイクは父の背に己の声をぶつけた。
「追いつくからな!」
 グレイルは肩越しに笑った。その笑みが寂しげに見えたのは、単に光の角度のせいだったのかもしれない。

 

 次の朝は、いつもより早く目が覚めてしまった。
 はっきりした意識をわざわざ鈍重に戻す方が億劫で、布団から這い出て伸びをする。
 今日もどうやら晴天だ。右足で左のふくらはぎをかいた。
 着替えて食堂に行けば、既に先客がいる。彼女は毎日、団でも一・二を争うほど早起きだ。
「おはよう。ティアマト」
「おはよう、アイク。早起きね」
 ティアマトは鮮やかな朱色の三つ編みを揺らして笑った。
 彼女はグレイル傭兵団の副長で、長い間アイクたち兄妹の母親――と言うには少し若いが、その代わりをしてくれている。よく叱られたり心配をかけたりしたものだ。今もだが。
「あなたも傭兵団に参加するんですって?」
 ティアマトは穏やかに問うてくる。アイクは、眉をひそめて頷いた。
「その……反対しないのか?」
「どうして」
「またいつもみたいに、危ないだの何だのって……」
「あら」
 口許を押さえる、ティアマトの優美な手つき。戦場で巨大な斧を振り回しているとは思えない。
「グレイル団長に認めてもらったんでしょう? ならば私が口を出すことではないわ。あの小さかった子がこんなに成長したと思うと、嬉しいぐらいよ」
「そういうものか」
 たっぷりお説教と注意事項を聞かされる気でいたのに。些か拍子抜けしながら、アイクは肩をすくめた。
「それなら、あらためてよろしく頼む」
「こちらこそ」
 ティアマトは微笑んで頷いた。
「まずは朝の支度をしてしまいましょうか。水を汲んできてもらえる? それまでに洗濯ができるようにしておくわ」
「分かった」
 アイクが裏の井戸で働いているうちに、他の団員もばらばら起きてきた。
 初陣の朝なのに、なんだかとてもいつもどおりだ。

 朝食も問題なく終わった。食卓に仕事の話は持ち込まないのがグレイルの流儀で、団員はただ家族らしく朝餉を楽しむ。
 その片付けも既に済み、ここからは傭兵の時間だ。
「おーしアイク! 今日からおれの後輩だな?」
 外に出ると、団員のボーレに肩を組まれた。朝から暑苦しい奴だ。馬を引いているのはその兄であるオスカー。
「アイク、いよいよ初陣だね、緊張してるかい?」
 おっとりとした物腰も、柔和な顔立ちも、活発で目鼻立ちのはっきりしたボーレとはあまり似ていない。母親が違うとか言っていた気がする(ちなみにもう一人末に弟がいるのだが、彼も母親が違うらしい)。詳しくは聞いていない。話したくないことのようだったし、興味がなかったからだ。彼らは兄弟で、血の繋がりは全くないながらアイクとも家族。それ以上のことは必要ない。
「昨日の夜の方が緊張してたな。今は割と、落ち着いたと思うが……」
 アイクは、昨晩やたらと汗ばんでいた手を、握ったり閉じたりしてみる。問題ない。
 オスカーが軽く肩を叩いてくる。
「危ないときは、いつでも私達を頼ってくれ。それは恥ずかしいことでも、迷惑なことでもないんだから。最初は勉強するぐらいの気持ちでね」
「そうだな。ありがとう」
 微笑で返す。ボーレはというと、腰に当てて胸など張っている。
「アイク! よく聞けよ。センパイのおれさまからありがた~い忠告だ。一人でいきがって前に出たりはしねぇコトだ。そんなことすると、必ず痛い目を……」
「あらボーレ、もう準備が出来てるの? めずらしいじゃない。いつもは後から遅れてくるのに」
 現れたティアマトが心底意外そうに言った。ボーレは赤面して固まっている。アイクは『センパイのありがた~い忠告』をしみじみと復唱する。
「『一人でいきがって前に出たり』……」
「う、うるさい!」
 理不尽に殴られた。
「さ。遊んでないで急ぐわよ」
 ティアマトは愛馬に跨り、アイクを馬上に引き上げる。オスカーの栗毛の後ろにはボーレが乗り、二頭の馬は出発した。

 着いたのは、カリワという小さな村。山賊に占拠されている領主館を奪還する――それが今回の任務。
 動きはすぐ戦いに適応したが、嗅覚はそうもいかない。赤黒い鉄の匂いに何度も眉をひそめた。しかし今は戦いに集中しなくては。
 アイクが気持ちを切り替えた、刹那。
 ――殺気。とっさに振り返る。赤い布が舞う。斬り裂かれたマント越しに下卑た笑い。
「よぉ、若いの。なかなかいい反応するじゃねぇか、殺られる準備は出来てんのか?」
「妹に叱られる準備は要りそうだな」
 一張羅なのに。アイクは、っ先を男に向ける。
「そっちこそ、逃げる準備は出来ているのか?」
「へへへ、面白いこと言ってくれるじゃねぇか!」
 雑な軌跡で斧が振り下ろされた。アイクも単純に後ろに飛び退く。あの勢いでは、まともに受ければ剣も自分もただでは済むまい。
「おらよぉ!!」
 まただ。今度は半身をずらす。横薙ぎも刃先を滑らせて受け流した。
「どうしたぁ!? 防戦一方じゃねぇか!!」
「あんたこそ、俺にかすってもないぞ?」
 アイクは事実を述べただけだ。他意はない。だが男の顔は一気に紅潮した。
「調子に乗ってんじゃねぇ、ガキがァ!!」
 頭上に斧を振りかぶる。その姿に、父の影が重なる。
 父の斧が振り下ろされた。だが男の斧はまだ上にある。
 アイクは剣の柄を強く握り、腹から叫んだ。
「――遅い!!」
 駆け抜ける。肉を断った感触がした。背後で、どうという音が聞こえる。
 首をめぐらすと、脇腹から血を溢れさせた男が倒れていた。
「オ……オレ様ともあろうものが、こ、んな、とこ…で……」
 顔を上げる。他の賊たちがいつの間にか、遠巻きにこちらを見ていた。
 アイクは剣を一振りして血を払う。赤い滴が地面に斑点を作ったが、すぐに吸い込まれて消えた。
「首領か?」
 確認のつもりだったのだが、誰も答えてはくれなかった。我先にと逃げ出していく姿を見る限り、その必要もないのだろう。
 アイクは小さく息を吐いた。
「これで終わったようね。アイク、大丈夫?」
 ティアマトが寄って来た。あんたこそ、と問うのはやめた。愚問だ。あれだけの活躍で、彼女は返り血すらほとんど浴びていない。
「俺なら問題ない」
 短く答える。そう、とティアマトは頷いた。
「でも、驚いたわ。アイクがこんなに成長していたなんて」
「親父に比べればまだまだだけどな」
 剣に付いた血を拭う。相手が父なら、流れていたのは確実に自分の血だったろう。
「それは……仕方がないわ。だって、グレイル団長は……」
 アイクは眉をひそめてティアマトを見た。笑われるだろうと思っていたのが、随分と深刻な顔をされたことと、もうひとつ。
「親父が、どうしたんだ?」
「いえ、何でもないのよ」
「そう言われると余計、気になる」
「いずれ、分かる日が来るわ」
 意味が分からないので何も言えない。
 妙な雰囲気になってしまった。手持無沙汰で頭をかく。
 空気を読まずに、能天気な顔のボーレが寄ってきた。
「よ、アイク! 初めての実戦にしちゃ、まずまずだったぜ。ま、おれの時はもっと目立ってたけどな!」
 後ろからついてきたオスカーが、ぼそりと言う。
「確かに目立ちはしたな。張り切りすぎて自分の武器を壊せば、嫌でも目に付く」
「あ、兄貴! くそっ、余計なコト言うなって!」
「自分の武器壊すって、お前。一体どういう……」
「あーあーあー! アイクっ、お前は気にしなくていいって! 頑張った! 頑張ったよお前! なっ、兄貴!?」
 馬鹿力で引っ叩くのはやめてもらいたい。アイクが背中をさすっていると、種を蒔いたオスカーが苦笑した。
「とにかく、初任務の成功おめでとう。仲間として心から歓迎するよ」
「腹減ったー! 早く帰ろうぜ?」
 ボーレは思い切り伸びをする。ティアマトは苦笑して馬首を返した。
「では、帰還しましょう。きっとミストたちが美味しい夕食を作って、待っていてくれてるわ」
「……『おいしい』、な」
「最低、食えることを祈ろうぜ……」
 アイクとボーレは顔を引きつらせる。ミストは基本的に家事が得意だが、料理はあまり得手ではない。妹の名誉のためにあくまで『あまり』ということにしておく。
「一生懸命やってくれているんだから、そういうことを言わないの」
 ティアマトの白馬は、主とボーレを乗せ歩き出す。アイクはまだ立ち尽くし、主の帰ってきていない領主館を見つめていた。
「どうしたんだい?」
 オスカーが遠慮がちに声をかけてくる。アイクは館から視線を外さなかった。
「哀れなもんだな。仮にも上に立ってた人間が、亡骸になった途端に打ち捨てられるなんて」
「アイク」
 オスカーが馬から降りる気配がした。歩み寄ってきて、アイクの隣に立つ。
「人が築いてきたものの真価は、死んだときに問われるんだそうだ。私たちが築き上げてきたものは、まだわずか。まだまだ死ぬ訳にはいかないね」
「そうだな」
 アイクは小さく呟いた。
 まだ、始まったばかりなのだ。築かなければ。守らなければ、ならない。
 遅ぇぞ何やってんだ、とボーレが叫んだ。今行く、と怒鳴り返す。オスカーの馬に乗せてもらって、砦を目指した。帰る場所を、目指した。

 

 帰還すると、ミストが熱烈な歓迎をしてくれた。
 ミストちゃんずっと心配してたんだよ、と、一緒に留守番していたオスカーたちの弟に耳打ちされた。知っていたけれど、ああ、ありがとうとだけ答えた。
 夕食を済ませ(食べられた)、湯浴みをし、今は部屋に一人だ。
 アイクは寝台に座り、手の平を鼻先に近づけた。石鹸の匂いしかしない。その手で両肩を抱きしめてみた。震えていた。
 恐い、と思う。人を殺めた。他人の人生を終わらせた。
 ――そのことに動じなかった自分が、恐いと思った。
 どうしてあんなに冷静でいられたのだろう。
 自分が殺した。自分が奪い尽くした。彼らはもう、こうして恐怖に震えることすらできない。
 だがそれはアイクが望んだことであり、こちら側にとって最善の手段だった。仮に時間を戻せてもアイクは同じ選択をしただろう。否。より効率よく、事を済ませただろう。
 今更ながらひどく気分が悪くなった。考えるのは苦手だ。
 横になる。シーツは洗ったばかりなのに、むせ返るような血の臭いがした。
 瞼を義務のように下ろす。今夜はきっと夢を見ないだろう。
 いつもと変わらなく見える夜が更ける。