15話 Never Never Never Surrender - 1/10

ネバ―・ネバ―・ネバ―・サレンダー

 八名川(やながわ)為一(たいち)は埃っぽいブラインドを指でなぞった。こういうホテルはつまらないなと毎回思う。窓にはシャッターが降りていて、夜景ひとつ見えやしない。
「ねえ。突き飛ばしといて、なにも言うことないの」
 ベッドから文句を言っているのは名前も知らない女。ミカって呼んで、と言っていたが本名ではなさそうだし興味もない。
 為一は振り向き窓枠に寄りかかる。乱れた胸元を直しもせずに笑顔をつくる。
「べっつにぃ。オレまだ十六だし。オオゴトになったら責任取るの全部オネーサンだし、どうでもいいかな」
 女が露骨に顔をゆがめた。若作りをしても為一より十以上は歳を重ねた肌だ。なにより、繁華街で見ず知らずの少年に声をかけてホテルに連れ込むなんて、未成年の少女がすることではない。確証があったから乗ってやったのだ。
「意思確認もなしにいきなり上に乗るとかさぁ、エンコーのオッサンだってもうちょっと紳士なんじゃない? ガッツきすぎてて超滑稽」
 枕が勢いよく飛んできた。ここまで予想どおりだと退屈しのぎにもならない。
 為一は白い塊を片腕で払い落し、自分のメッセンジャーバッグをつかんだ。女のヒステリックな声が背中を殴る。
「出てけ、クソガキ!」
「どうも。口直しにデリヘルでも呼んだら?」
 めちゃくちゃに罵倒されながら部屋を出た。
 悪趣味な長い廊下を歩いていく。途中でエレベーターのドアが開き、一組の男女が降りてきた。足を止めた為一には気付かず、二人はぴったり寄り添って反対側の廊下を折れていく。
 為一は再び歩き始める。
 だが踏み出しても踏み出しても、靴の底がどこかに着いている感じがしなかった。床が底なしのゼリーに変化したような心地。
 エレベーターの下ボタンを連打する。二人が乗っていた箱が忙しく揺れている。もう一つの箱は当分この階に来そうにない。耐えきれず非常階段を駆け下りた。
 男の横で楽しそうに笑っていたあの女は、母だ。為一を産んだ女。母の腰を抱いていた男を為一は知らない。母と一緒にいるのは毎回違う男だから。
 外は思ったより冷えた。半袖から出た肌をさすり、安っぽいネオンをなるべく避けて街を行く。家以外に向かう先もないが、姉の顔色を窺い続けるのも息が詰まる。自分にもやることがあるのだという顔で何かしていようか。たとえば後期生徒会演説の原稿とか――ああ、くだらない。どうせ次の選挙も対立候補のいない出来レースだ。
 野球部も、生徒会も、恋人ごっこも、援交ごっこも、本質的に違いはないのだ。自分が必要とされているような錯覚に陥りたいだけ。自覚が邪魔をして浸りきれない妄想。いつだって醒めてしまって、結局暗い家に帰る。
「あれ、タイチじゃん」
 馴れ馴れしく呼びかけられる心当たりもひとつふたつではないから、向けた流し目に何の感情も込めなかった。だが脳がその女を認識した瞬間、まぶたがびくりと痙攣した。
 なんで。どうしていまさら。
 口にしたい言葉は全く声にならず、足は後ずさりを始めている。
「ちょうどいいわ。ちょっとツラ貸せよ」
 女が手を伸ばしてくる。あの頃と同じ長くて黒い髪。あの頃と違うタトゥーだらけの腕。
 ダメだ。逃げろ。いいから逃げろ。逃げろ逃げろ逃げろ。
 意識がこんなに叫んでいるのに、身体は女に引きずられるまま建物の影に収まってしまう。
「相変わらずビビりなとこだけ(みどり)に似てんな。元気? あのブス」
 何の前触れもなく腹に膝を入れられた。咳き込む為一を女は笑って見下ろしている。
 あの頃から良心の呵責というものが見られない女だった。黒川(くろかわ)真希那(まきな)は。
 為一は身体を深く折り曲げ、黒川を睨み上げる。
「なんの、用だよ」
「あ? 『何の御用ですか』だろクズ」
 また蹴られた。痛みよりも、質の悪い香水と煙草のにおいで咳が止まらない。喘ぐ胸元を派手な爪が握り込む。
「ふうん、まだ充分キレーじゃん。いいねぇ」
 激しい光。為一は思わず目をつぶる。残像の中でフラッシュだと気付いた。携帯電話のカメラで撮影されたのだ。
「なつかしー。あれから三年? 四年? もうムサ苦しくなってっかと思ったけど、全ッ然だな。身内に両刀の変態がいてさァ、女みたいな男犯して3Pしたいっつってんだけど。どう? あんときのお前の動画で相当ヌいてるらしいよ」
「ふざっ、けんなよ!」
 撮影をやめさせようと左腕で払った。黒川は急に無表情になり右手を振り上げる。
 前腕に灼熱感。ぬるっとする。タバスコでもかけられたかと思ったら自分の血だ。十センチ以上の赤い線。
 理解が追いつかず為一は傷を見下ろした。
「また今度迎えに来てやんよ。それまで顔に傷つけんじゃねーぞ」
 黒川は小さなナイフを畳むと、鼻歌まじりに歩み去っていった。
 為一は見送る気概すらなく、座り込んで左腕を抱く。
 浅い傷だ。死ぬというほどの切実さもなく、だが確実に、身体を満たしていたものを失わせる。
 少しずつ。少しずつ。
 鮮やかな色はきっと今だけで、自分を離れた途端に酸素に触れてくすんでいくのだろう。
 痛い。
「いたい……」
 口に出しても何が変わるわけでもなかった。為一はうなだれて、見知らぬ男女が睦み合っている建物の壁に寄りかかっていた。
 喧騒はそこにあって。人はたくさんいて。
 母は誰かとぬくもりを分かち合っていて。
 為一は独り、きらびやかな明滅を遠くに膝を抱える。