12話 Thirty Pieces of Sunset - 3/10

取引

「おう、来たか」
 人を電話一本で呼びつける勝手さも、横柄な口調も煙草の吸い方もあの頃のままなのに、桜原太陽の表情は大人らしく落ち着いていた。新田総志も努めて年相応の顔をしようとしたのだが、口許がわずかに引きつっただけだった。
 株式会社神崎(かんざき)金属の喫煙所は工場の外にあり、屋根の類はない。貴重な昼休みに真夏の陽光の下で一服する酔狂な人間は桜原だけらしく、錆びついた背高の灰皿の前には桜原と総志の二人しかいない。
「平日に呼び出して悪かったな。有給なんだろ」
「いいよ。これからいくらでも休める」
 美映子のいない家に一人でじっとしていなければならない理由もない。総志は眼鏡のつるを意味もなく指でなぞった。
「侑志がいつも世話になってるね。そうだ、この間皓汰(こうた)君がうちに遊びに来たよ、本当に生き写しでびっくり――いや、生きてる人の場合は瓜二つだっけな」
「新田」
 桜原の指が紙巻煙草を叩く。燃えかすが切れよく落ちる。粘りのある灰は相変わらず嫌いなようだ。時間切れを狙ったのもきっと見抜かれている。
「自分たちがタカコーの卒業生だってこと、何で息子に黙ってた?」
 自分たち、の『たち』の中に、桜原は自身を含んだろうか。
 コンクリートから陽炎が立ち上る。視界が歪む。
 総志は気休めに眼鏡を外してシャツの裾で拭いた。
「言うほどのことでもないかと思って」
「そうか。黙ってたのが藤谷で、隠してたのがお前か」
 吐き出されたのは、かつて彼が煙たがった言葉遊びだ。反論しようにも事実すぎて細工する隙がない。
 眼鏡をかけ直したら、視界はかえって汚れた気がした。
「桜原には関係ない。うちの問題だよ」
「そうか。いまさら蒸し返すのもどうかと思ってたが、お前の面ァ見たら気が変わった。墓まで持ってく方が危ねぇな」
 桜原の手が煙草を灰皿に押しつける。開いた右手を、落ちていく吸い殻を、総志は瞬きもできず見つめていた。
「お前も、夢子と取引したな?」
「も?」
 知らず発した、たった一文字が失言。桜原の鋭い視線に口を押さえたが遅い。白を切り通すなら、総志は『取引』という単語を笑う以外になかったのに。
 桜原の右手が総志の襟元を握り潰す。
 右手。空いているのが左手。
 高校の頃なら殴らないという合図のはずだった。けれど、けれど今の桜原にとって、利き手は守るだけの価値のあるものだろうか?
「俺はしたぞ。高二の冬に。新田のことで……新田と藤谷のことで」
 桜原は、震えるその左の拳を傷つけてでも、総志を殴ることを選ぶだろうか。
「おうはら」
 総志の負けだ。桜原の左手をそんなことには使わせられない。桜原自身がそう望もうと、総志は桜原の左手を損なうことはできない。
 わなないたままの口唇で、拙い告解をした。
「僕が。僕が弱かった、ばかりに。僕は、不幸にしてしまう。美映子さんも、侑志も……おまえまで」
 桜原の手が緩んでいく。寄っていた服のしわも、何事もなかったかのように消えていく。
 どこからか響く蝉の声。鳴いている虫があの頃と同じなのかなんてもう分からない。
「新田。今夜空けとけ。飲みに行くぞ」
「いつ?」
「わからん。監督なんて聞こえはいいが、俺はここじゃ遊んでばかりの不良社員だ。上がりの時間なんか選べねぇよ」
 吐き捨てて、桜原は新しい煙草を口にくわえた。
「とにかく今夜だ。電話したら、藤谷がどう騒いでもお前一人で出てこい」
「おまえの家は?」
「娘がどうにかする。弟もいるから問題ないだろ」
 総志は無言で頷いた。桜原にとって、伴侶であるはずの女性は顧みる対象ではないのだという事実を了承したという首肯だった。
 立ち去り際、総志は振り返り桜原に声をかけた。月並みな社交辞令だ。
「仕事、がんばって」
 面映そうな笑みが返ってきて、どうやら自分も笑っていたらしいと気がついた。
 喫煙所の灰皿から離れていく。立ち止まる。目測で十八・四四メートル。
 なぁ、こんなに遠かったっけな。思い出せないよ。
 盛り上がったコンクリートの上は、やはりゆらゆらと揺れてよく見えなかった。