12話 Thirty Pieces of Sunset - 2/10

議題・井沢徹平くんについて

「本日お集まりいただいたのは他でもないのですが」
 桜原が右手で眼鏡を押し上げて(片手ではコンタクトがつけられないらしい)、左手に持ったチョークで黒板をこつこつ叩く。
『ぎだい・井沢(いざわ)てっぺい君の退部について』の文字はへろへろだが、むしろ利き手でないのにここまで書いた努力を侑志(ゆうし)は褒めたい。
 馬淵学院(まぶちがくいん)戦から四日、七月三十一日。
 桜原の緊急招集に従って、野球部の一年生は部活もないのにB組の教室に集まっている。今日はめずらしく全員私服だった。
「辞めたい奴を引き留めて何になる。もっと実のあることをしろよ」
 机に座った富島(とみじま)が言う。紺色のポロシャツは見たところ高級ブランドのものだが、あと二十歳ぐらい上の男性に向けたデザインだ。
「あっちゃんがそれ言う? 僕を無理やり野球部に引き戻しといてさ」
 永田(ながた)は教壇の縁に体育座り。スポーツブランドのハーフパンツにプリントシャツ、ちょっと発育のいい小学生といった感じ。
 教卓の前の席を借りていた侑志は、挙手してから発言した。ちなみに厚手のタンクトップに襟付きシャツを羽織っただけ。急だったのでその辺のを引っつかんだ。
「電話でも聞いたけど、その話本当なのか? 井沢が辞めたって」
平橋(ひらはし)先生に確認した。一昨日の部活の前、朝一で退部届出しに来たって。とりあえず書類は預かるけど、気が変わったらいつでも言ってほしいって伝えたらしい」
 桜原はチョークを置き、ボーダーのシャツで粉を拭った。議長はともかく書記は諦めたようだ。
「井沢君が悩んでたの、この前の試合のことだけじゃないのかも」
 琉千花(るちか)は教卓の横に立って、オーバーオールのデニム生地を強く握りしめていた。
「私、みんなより遅れて入部したでしょ? 最初に配られた入部届なくしちゃってて、担任の先生に学年主任しか持ってないって言われて、職員室まで慌てて取りに行ったの」
 みなまで言わずとも、琉千花の考えは分かった。
 高葉ヶ丘(たかばがおか)野球部が敗退したのが土曜。日曜に学年主任が来ていた可能性は低いはずだし、月曜の朝一に提出するなら、前もって書類を入手していないと無理だろう。
「いつでも好きなときに辞める気でいたんなら、なおさら僕らがどうこうする問題じゃないさ。どうにかできる問題でもない」
 富島がため息をついた。
 そうかもしれないけど、と桜原は教卓に肘をつく。
「井沢を野球部に誘ったのはそもそも俺だし。そんなに辞めたかったのに、どうして付き合ってくれてたのかぐらいは知りたいよね。どうこうとか、どうにかとかの現実的な話じゃなくて、気持ちの問題。当然井沢にも拒否する権利はあるけど」
「回りくどいこと言わないで、寂しいから戻ってきてって素直に言えばいいじゃない」
 永田は頬を膨らませ、身体を前後に揺らした。
「ていうかさ、そもそも井沢君が桜原君の怪我で調子崩すっておかしいよね。何があったか説明してくれないと、協力するにしたって僕らは気持ち悪いよ」
「あっ、と」
 どこまで話したものか。
 侑志が言いあぐねていると、じ、こ、と桜原は眠そうに口を動かした。
「事故。井沢と新田がモメてて、おーはらくんは止めようと思いましたが腕力が足りず、勝手にバランスを崩して椅子に突っ込みましたとさ」
「その井沢君と新田君のモメた原因って何って訊いてんじゃん。二人共むやみに取っ組み合うような性格でもないんだから」
「俺が井沢の家の事情に余計な口出しただけだよ」
 見かねて言い添える。永田はきつい視線を侑志に移した。
「僕だって井沢君の隠したがってることまで全部話せとは言ってない。でも他人に怪我させるってよっぽどでしょ? 新田君は何をそこまでやらかしたのって訊いてんの」
「永田君、そういう言い方ってないと思う。新田君が何をどういう気持ちで言ったのかも分からないのに」
 急に琉千花が遮った。あまりに鋭い声で、かばわれたはずの侑志まで肩が跳ねてしまった。琉千花に想いを寄せる永田はなおさら縮こまった。
「いいよるっち、永田が正しい。俺が無神経だったんだよ」
「そうなの?」
 琉千花は不服そうに小首を傾げる。何の確認か分からないまま侑志はとりあえず頷いた。
 桜原がまたチョークを持つ。
「まずさぁ、『三住(みすみ)椎弥(しいや)』って何者なの? 新田、そいつから変な電話受けたみたいでピリピリしてたんだよね。うわ隹って書っきにくい」
「三住か。相変わらず狡猾だな」
 岩茂組――特に富島が露骨に苦い顔をした。中学の頃彼らの夏を終わらせたのは、三住椎弥をエースに戴く馬淵学院中だったはずだ。
 富島は下を向いて、右手でうなじを何度もさすった。
「あいつは干渉したい相手の近くから攻めるんだよ。うちも全中でやられた」
「富島が狙われたってことは、永田が?」
「違う。標的は木元(きもと)だった」
「じゃ柚葉(ゆずは)か」
 侑志は額を押さえて嘆息する。
 岩茂学園(いわもがくえん)中の四番打者だった木元(りょう)。そのまま岩茂八王子高校に進学し、今は柚葉に行き過ぎた、というか特殊な好意を寄せているらしい。交際しているという噂も学内で流れているようで、こういうのケーサツ呼べないのかな? とたまに相談を受ける。
「ところで新田」
 富島は顔を上げた。心なし目が冷たい。
「お前いつから柚葉のこと呼び捨てにしてる?」
「その話、長くなるんだよ。やましいことないから今度にしてくれ」
 整理すれば長くもないような気もするが整理している余裕もない。彼氏面なら彼氏のうちにしておけばよかったのに。
 額の手を外さず井沢の話に戻す。
「井沢がキレた理由、俺も未だによく解ってないんだ。三住から電話があったって言った瞬間顔色が変わった。何の話されたかも言ってないのに」
 見計らったように電子音が響く。十六和音のノクターン第二番変ホ長調作品九の二、ショパンの代表曲。
 全員侑志を注視している。着信音を覚えられているらしくて二重に気まずい。
「うわ、また知らない番号だ……もう携帯変えようかな」
「出てみて。もしかして井沢か三住かも」
 桜原に言われしぶしぶ通話ボタンを押す。少なくとも耳に持っていくまでの間、誰かの怒鳴り声は聞こえなかった。
『突然お電話を差し上げましたご無礼をお許しください。ミスミメイカと申しますが、新田侑志さんの携帯で間違いございませんか』
「はっ?」
 オペレーターのようにすべらかで聞きやすい音声。侑志の口調はたどたどしくなる。
「あの、お名前もう一度よろしいでしょうか?」
 こちらも会社員みたいな言い方になってしまった。経験はないのでもちろん想像。
 立ち上がって赤いチョークを持つ。
『はい、三住椎弥の妹の三住茗香(めいか)と申します』
 黒板に書き殴る。『三住の妹から』。
『先日は兄が失礼をいたしました。新田さん、今少々お時間をいただいてもよろしいでしょうか』
「ど、どうぞ」
『井沢徹平(てっぺい)くんのことで、野球部の方にお話ししておきたいことがあります。できれば直接お会いしたいのですが、これからご都合いかがでしょうか』
「今からですか?」
 意味のつかみやすいリズムに耳を委ねながら、左手で黒板に発言の要点を記していく。
「構いませんけど、そんなに急ぐ用件なんですか」
『そうですね――』
 三住茗香はわずかに間を置いてから、澄んだ声で冷静に言った。
『あなたがたが徹平くんを引き留めたいと思っておられないのなら、お急ぎになる必要はありませんね』
「どこに行けばいいですか!」
 手の中で新品のチョークが折れた。三住茗香は小さく息をついて、校門です、と呟いた。
『今、高葉ヶ丘高校の正門前におります。十九時までの、お手すきの時分においでになってください』
「五分内に行きます」
 侑志は電話を切りポケットに突っ込んだ。
「三住の妹、タカコーまで来てるって。迎えに行ってくる」
辻本(つじもと)さんといい、みんなよく追いかけてきてくれる女の子がいるよね……」
 永田がぐったりしているがフォローは後にさせてもらう。侑志はチョークを投げ捨てて琉千花を向いた。
「ごめんるっち、一緒に来て。俺一人だと恐がらせるかもしんない」
「う、うんっ」
 琉千花が転ばない程度に急いで階段を降りた。
 真夏の校門には、国民的美少女コンテストにでも出ていそうな、清潔感のある女の子が立っていた。長くてまっすぐな黒髪。管理が大変そうな白いセーラーのワンピース。
 琉千花がいきなり奇声を上げて侑志の後ろに隠れる。
「どしたのるっち、知り合い?」
「ち、違くて、その制服! 桃霞(とうか)学院女子の」
「とーか……どこ?」
「すっごいお嬢様女子校、門とかすごくて守衛さんに『ごきげんよう』って言わないと入れないようなとこ!」
 琉千花の声量で、どうやらすごいところの女生徒であることは分かった。だいぶ居心地が悪いまま自己紹介する。
「すみません、お電話もらった新田侑志です。背中にいるのは野球部のマネージャーの早瀬(はやせ)琉千花ちゃん」
 少女は両手を身体の前で重ね、実に見事な角度で礼をした。
「お初にお目にかかります、三住茗香と申します。どうぞよろしくお願いいたします」
「それで、三住さんはどうやって俺の番号を?」
「徹平くんのことで急な用事ができまして、けれど当人に連絡がつかないものですから兄に相談したんです。そうしたら、新田さんなら親身になってくださるだろうと紹介を受けて……不躾なお願いをいたしまして誠に」
「あ、そういうのはいいんで」
 その兄さんを俺は着拒しましたとはまさか言えない。
 三住茗香はしずしずと侑志の後をついてくる。高葉ヶ丘と同じセーラー服という区分でも、膝下まであるワンピースとなると、いつもの廊下が全く別ものに見えた。黒いストッキングに来賓用の安いスリッパがミスマッチだ。
 琉千花は侑志のシャツの裾を軽くつかんで、おっかなびっくり来訪者に話しかけている。
「あの、三住さんは、何年生ですか?」
「高校一年生です。兄とは双子ですので年齢は同じなんです」
 礼儀正しくも事務的なトーンだった。幾度となく繰り返した説明なのだろう。片手をこめかみの辺りにやろうとする気配を見て取り、侑志は前に向き直った。
 朔夜(さくや)さん、髪切ってからも左だけその動きするよな。癖になってんのかな。
 あの左手と、覗く耳と、俯いたうなじを同時に思い出しながら、侑志は無造作に一年B組のドアを開ける。
「あ、おかえり」
 教卓に肘をついて微笑んだのは、顔立ちは近いものの弟だった。男。おかげで一瞬で夢から覚めた。
 琉千花が手を離しているのを確認し、ぼけっとしている野郎共に歩み寄る。
「この人、三住茗香さん。三住椎弥の双子の妹だって。井沢のことで俺らに話があるみたいだから適当に席作るぞ。桜原は危ないから動くな」
「そっちが話をしてくれるってこと? 井沢のこと聞きに来たんじゃ」
 言いかけて、桜原はいきなり絶句した。
 三住茗香が黒板を見て小さく呟く。
「徹平くん、退部、したんですか?」
 その言葉で侑志も青褪める。退部の件どころか電話の内容も書きっぱなしだ。何がどうとか考えている時間はないがとりあえずまずい。
 桜原と侑志は猛烈な勢いで黒板消しをつかみ、後ろを他の三人に任せた。
「あっちゃんちょっと机降りて! すみません汚いところですけど今座れるようにするので」
「あ、どうぞお気遣いなく……」
「「(けい)ちゃん、他人のクラスを汚いって」ちゃん、他人のクラスを汚いって」
「いいの富島君、女学院に比べたらうちの学校は全部汚いから」
「いえ、高葉ヶ丘は管理の行き届いた清潔な学校だと伺いましたし、実際そう感じます」
 琉千花はいい加減女学院に夢を見すぎている気もする。侑志も実態は知らないが。
 三分ほどしてようやく状況が落ち着いた。机を半分ほど脇に除けて、椅子を六脚、円形に並べる――はずだったが、自然、侑志と桜原・永田と富島・琉千花と三住茗香の三角形に近いかたちで座った。
 互いの自己紹介が済んでから、三住茗香は井沢徹平について語り始めた。膝の上で重ねた両手にメモでも書いてあるように、じっと目を伏せて。
 井沢がとある資産家の孫であること。一人娘である井沢の母親は、ずっと(うたい)和平(かずひら)との結婚に反対されていたこと。その父親が事故死した後、喪も明けないうちに縁談話を持ちかけられ、母親が子供たちを連れて人知れず家を出たこと。
「井沢のおじいさまは、(まい)おばさまがどこに越されたか知っておられます。徹平くんのことも……先日の試合のこともお耳には入っているようです」
 彼女はここまで話すのに、誰のことも悪く言わなかった。淡々と事実のみを述べていた。
「試合って、先週の土曜日の?」
 琉千花が首を傾げて、隣にいる三住茗香の顔を見る。彼女は琉千花としっかり目を合わせて頷いた。
「わたしもおばさまに頼まれて球場に急いだのですが、間に合わなくて。その、あまり活躍できなかったのですよね、徹平くんは」
「井沢がっていうより、あの試合は誰も活躍できなかったんです。多分、負けるべくして負けたっていうか」
 桜原は自分の右手の上に左手を添えた。仰々しいテーピングは取れたがまだ物を持ちたがらない。怪我も敗北も井沢のせいではないと、心底から断言する権利があるのは突き詰めれば桜原だけだ。
 そうなのですか、と三住茗香はぼんやりした声で答えた。
「わたしが本当にみなさんにお話したいことは、実はこの先なのです。おじいさまは大会が終わったことを機に、夏休みのうちにおばさま方をお屋敷へ連れ戻そうとしておられるのです。特に徹平くんのことを」
「え、それ転校するってことですか?」
 永田が素っ頓狂な声を上げた。三住茗香は何か言いたげに顔を上げて、いきなり咳き込んだ。
「茗香ちゃん、大丈夫? お水飲む?」
 琉千花の問いに口を押さえたまま首を振り、自身の鞄から綺麗な桜色のボトルを取り出した。水を一口飲んでから、また一つ、二つ、力ない咳をする。
「ごめん、なさい。たくさんお話し、したので」
 見えないメモを落とした手は震えていた。
 そういえば井沢も、女子が絡むと何でもないことでも大騒ぎする。ずっと共学で育った侑志でさえ、よその学校で知らない女生徒たちに囲まれて話せと言われたら逃げ出したくなるだろう。
 それでも、来たのだ。三住茗香は。
 たった一人で、知らない学校へ、一度目の夏を失くしたばかりの兄も連れずに。
「徹平くん、こういうとき、いつも、だいじょうぶって手を握ってくれて、わたし、頼ってばかりで、だから、これからはわたしが、って、おもったのに」
 少女はスカートを握りしめ背を丸めた。カーテン越しに自然光の射し込む教室で、祈るように。
「徹平くんが、みなさんとここにいたいのなら、力になりたくて、来ました。でも、わたしや、しいちゃんのときと同じなら……徹平くんがみなさんに背を向けてしまって、声も届かないのなら、わたし、もう何もできません」
 侑志も何も言えなかった。琉千花だけが彼女に寄り添って背を撫でてやっていた。
 井沢を心配しているのは、侑志にとっても偽りない本音だった。集まった以上は他の面子も同じはずだ。しかし、これほど深く事情を知っている三住兄妹が、何もできないと途方に暮れている。たかだか数ヶ月、部活で顔を合わせていただけの自分たちに何ができるのか。
 侑志は天井を仰いで、大きく息を吐いた。
「こないだ井沢に怒鳴られたんだよ。『おまえみたいなのに何がわかんだよ』って。確かにわかんねぇわ。何も」
 言い終えた途端、いきなりけたたましく椅子が鳴った。三住茗香かと思ったら隣の琉千花だ。大きな瞳に涙をたたえ、黒板までずんずん歩いていく。
 固唾を飲む侑志たちの前で、琉千花は黄色のチョークを手に取り、桜原が上手く書けなかった文字列を大きく書き直した。
『議題・井沢徹平君について』。
「私だってわからないよ。私はこの中で一番、井沢君を知らないと思う。でも、わからないから、わかりたいからみんな集まったんだってことぐらいは、わかる。だからね」
 琉千花が振り向く。教卓に隠れてしまいそうな小さな身体で、真っ赤な目で、それでもはっきりと声を張る。
「わからないことは、聞きに行こうよ。私たちも井沢君を迎えに行こう。茗香ちゃんがここまで来てくれたみたいに」
「どこに?」
 富島は水を差すような口調でまぜ返した。顔は充分乗り気のくせに。
「あんたの心当たりは全部当たったのか。三住さん」
「い、一応回っていますけれど、わたしの思いつくところは、徹平くんも避けると思うので」
 三住茗香も曲がっていた身体をまっすぐに起こしている。
 永田は黙って立ち上がり、琉千花のそばに立って青いチョークを持った。
『・家 
 ・タカコー
 ・マブガク(中等部?)
 ・図書館(どこの?)』
 と、井沢の行きそうな場所を書き出していく。琉千花が横から口を出す。
「井沢君って通学に都電使ってるはずなの。私たちの使ってる地下鉄じゃなくて」
「じゃあ都電の駅とか、沿線も可能性あるのかな。桜原君、その辺りで井沢君が寄りそうなとこってある?」
「図書館なら二ヶ所ぐらいまで絞り込める。永田、口で言うから俺の代わりに書いてもらっていい?」
「さっすが地元民」
 並んでいく具体的な場所に、ああそうか、と当たり前に納得した。
 井沢徹平の行動範囲は、高確率で高校生の行動範囲を出ない。頭数があれば、相互連携が取れれば、きっと見つかる。
 侑志も腰を上げ、頬を染めて黒板を見つめる三住茗香に近寄った。距離を保ったまま中腰になる。
「三住さん。どこかピアノ弾けるところって知ってる? もしかしたらそこかも」
「ピアノ、ですか? でも徹平くんは」
「やめたんだよね。けど俺、聴いたんだ。あの試合の前の日、井沢が音楽室でこの曲弾いてるの」
 携帯電話で流す、ショパンのプレリュード作品二十八第十五番変二長調。通称『雨だれ』。十六和音の安っぽい着信メロディで、三住茗香ははっと目を見開いた。
「思い当たることある?」
「は、い。わたしの好きな、いつも一緒に弾いてくれた、曲です」
「じゃあ井沢も会いたがってるよ。三住さんに」
 少女の細めた瞳から雫が一筋伝って、ほころんだ口唇から微かな礼が聞こえた。侑志は首を横に振ろうとして、結局頷いた。
 そして、しまおうとした携帯電話から別のショパンが流れ出す。
「新田お前いつまで携帯鳴らしてんだ!」
「ちげぇよ、これマジの着信!」
 富島に怒鳴り返し、三住茗香から離れた。侑志の電話はこのところずっと鳴りっぱなしだ。真面目に番号変えようかな、と眉をひそめディスプレイを見る。番号と一緒に名前が出ている。
 侑志は息を止め、誰にも断りを入れず廊下に飛び出した。
「もしもし――!」