12話 Thirty Pieces of Sunset - 10/10

祭の残り火

「これ。岡本がお前に土産だって」
 怜二がスーパーボールの詰まったビニールの巾着を掲げると、八名川為一(たいち)はやわらかく笑った。小学生の頃と同じ反応だ。
 為一の部屋は四畳半の畳敷き。西日がきつく蒸し風呂のように暑いのが常だが、今はひんやりした空気に満ちている。襖の向こうは彼の姉の部屋で、入るには構造上必ずここを通る。為一にはプライバシーというものがほとんどない。
(みどり)ちゃんは?」
 怜二は布団の横にデイパックを下ろした。
 為一は寝転がり、ラメ入りのスーパーボールを蛍光灯の光にかざしている。
「カレシの家。オレもう大丈夫だからって、追い出したの。お前のせいでみたいなオーラ出される方がしんどいし」
 それこないだ話してた人か、と訊きかけてやめた。黙って為一の枕元にあぐらをかく。
 八名川きょうだいは恋人がよく変わる。弟は顧みないので去られ、姉は尽くしすぎるので捨てられる。恋愛のスタイルは真逆だ。
 週末。両親が在宅しているか尋ねる必要はない。怜二は鞄から、メールで頼まれたジュースと菓子を取り出した。為一がタオルケットの端に口許をうずめてくすぐったそうに笑う。こういうところは高葉ヶ丘の『八名川副会長』というより、琉千花の言う『たぁ君』だった。
 怜二はペットボトルを開けてやる。ふたが意外に固いのだ。
「井沢、昨日はちゃんと部活来たぜ。一年同士で話つけたみてぇだった」
「頼もしいねぇ。オレいらないんじゃないの」
 為一がゆっくりと身を起こす。軽やかな自嘲を否定する気持ちは本物なのに、怜二は何も言えなかった。
 為一の女みたいに細く、男だと念押しするように血管の浮き出た手がペットボトルを受け取る。布団の上に座って、為一は常温のりんごジュースをうまそうに飲んだ。夏でも冷えすぎた液体はむせてしまうことがあるから、電車に乗る前に駅の売店で買っておいた。
「お祭りには来たの、井沢君」
 口唇を拭う左手の甲に赤い点があった。点滴針の痕だ。彼の姉から聞いた話では、夏風邪と熱中症を併発して救急搬送され大変だったらしい。一番大変だったのは、面倒を見た翠ではなく倒れた為一だったのだろうけれど。
「一年は琉千花と地元組だけだった。あとリューさんが顔見せに来てくれて、意外と元気そうだったよ。惚気までしてった」
「はは、キャラじゃねー」
 為一がペットボトルを置き、オレンジのスーパーボールを投げ上げる。どこかへぶつける下手は打たずまた手のひらに収める。怜二も黄色のを取って手遊びを始める。
「三石が『元気になるから』ってお前用にモツ煮持たせようとしてきて、食いもんはこえーからって止めた。朔夜は水風船持たせようとしてくるし、電車の中で割れたらどうすんだっての。あいつらホントバカな」
「すっげえ楽しそう。やっぱオレも行きたかったな」
 為一の右手がぴんと張って、オレンジのボールは止まらずに跳ね返った。畳を転がるのを怜二が拾い上げる。
「来ないで正解だよ。今度は琉千花と新田が揉めたみてぇで、帰りの空気が最悪だった」
 下手で投げる。為一は指を鳴らすみたいな動きで受けて眉をひそめた。
「今年の一年は揉め事を起こしてないと死ぬのかな?」
「知らねぇ。なんてーか、琉千花が間の悪ィこと言って新田怒らしたらしい。ずっと泣いてっし、事情わかんねぇから口出しづれぇわ」
 薄々察してはいるが、もしそうなら余計に兄の立場から何か言うのは憚られた。
 ふうん、と為一はボールの表面をしきりに擦る。
「オレが二人と話すよ。空気悪くなると活動差し障るっしょ」
 突き放した口調に、為一はもう確信しているなと思った。こういう態度になるのは特定の話題のときだから。
「為一。飯もう食ったのか」
「まぁだ。戸棚にカップ麺あるけど飽きちった」
「だと思って、お袋からタッパー預かってきた」
「やった。オレ真弓(まゆみ)ママのご飯大好き」
 途端に機嫌がよくなる為一。世辞でも何でもないのは怜二が一番よく知っている。彼の長身はほとんど早瀬家の食事が作ったようなものだ。実子の怜二が伸びなかったのは遺伝子のせい、ということにしておきたい。
「レンジ借りんぞ」
 勝手知ったる台所に行って、電子レンジをセット……する前に戸棚を見た。カップ麺はあと一つしかなかった。明日の食事はどうするつもりだったのかと呆れながら、レトルトパウチのおかゆを足していく。同じく母に持たされたものだ。
 為一の部屋からサッシのこすれる音がした。冷房をつけているのに窓を開けたのだろうか。何となく不安になって足早に戻る。
「おい、大人しくしてろって」
 続きを口にしている余裕はなかった。為一が身体を折り曲げて倒れている。怜二は走っていってすぐ窓を閉めた。多分どこかのベランダで煙草を吸っている。怜二には知覚できないが、為一の気管支は過敏に感じ取ったのだ。
 断りもなく机の引き出しを開けた。吸入剤の使用期限を確認して為一を抱き起こす。喉から隙間風のような音。呼吸もままならないくせに、為一は怜二の手を払いのけようとした。怜二は名前を呼びながら吸入器を為一の口に当てる。小さな缶から薬剤を噴射する。三十秒とかからず、為一はすうと大人しくなった。
 吸入剤の使い方は為一の母親から教わった。
 為一が初めて怜二の前で発作を起こした後、次に為一君がこうなったらこれを使ってね、と小さな缶を怜二の手に握らせたのだ。おばさんはなんでそんなことをおれに言うんだろう、と思った。怜二の母は、今度から大人がきちんと見ていますので、と為一の母を激しく睨んでいた。
「空気、入れ替えようとしただけだよな」
 怜二が問うと、細い顎が小さく動く。
 吸入剤を使用した後、為一はよく脱力したようになる。怜二が調べた限り、この薬でそういった副作用が起こることは極めてまれらしい。四肢を投げ出すのは薬剤のせいではなく、発作の後に出る彼個人の癖のようだった。
「どうしよう、レイくん」
 布団に連れ戻すとき、不意に懐かしい呼び方をされた。高校生の為一が怜二をそう呼ぶのは、ふざけているのでなければ弱っているときだけだ。
「オレ、こんな身体で主将なんて無理だよ。夏大だって、打つのも、守るのも、全然で」
 為一の身体を投げ捨てたい衝動を、怜二は口唇を噛んで抑えた。泣き言を口にした為一の成績は、攻守ともに怜二よりずっと上だ。
「いいから寝てろ。飯食ったら飲み薬もだぞ。どうせまたさぼってたんだろ」
 左を下にするのが一番楽だと言ったのは変わっていないようで、為一は怜二のつくった姿勢に逆らわず布団に横たわる。なかなか筋肉がつかないと嘆いていた身体は、たった一週間でさらに痩せてきていた。
 怜二の服が胸の辺りで大きく歪む。
 やだ、と為一は弱々しく呟いて、右手だけで怜二にしがみついていた。近すぎて表情はよく見えなかった。
「もうやだ。いやだよ。こうまでしないと生きられないなんて」
 もっと深刻で絶望的な言葉も彼の中にはあるのだろう。安易な慰めを口にしたくなくて、寝ろよ、と骨の浮いた背を何度もさすった。
 為一の指が緩んでシーツに落ちる。
「ごめん、怜二。わるいけど、もう少し、いてくれる」
「今日は泊まる」
 オレンジのボールを手のひらに置いてやると、為一は眩しそうに目を細めた。
 舌っ足らずな打ち明け話がよみがえる。幼い為一はこの部屋の窓ガラスに貼りついて、真っ赤に染まった顔で夕陽を見ていた。
 レイくん、ぼくね、ゆうやけこやけってすき。
 だってね、このあとはよるになってね。
 ねてるの、ぼくだけじゃなくなるんだよ。
 為一の手に触れて、指先を深く握り込ませた。夕焼け色のボールがどこにもこぼれ落ちていかないように。