10話 Ace in the Hole - 3/7

小秋楓という男

「おはよ、永田。調子は?」
「最悪。弟のいびきで変な時間に起きた。本物の弟なんてそんないいもんじゃないよね」
 七月二十四日、岩茂八王子戦。
 悪態をつく割に永田の顔色は悪くない。曇り空にも雨の気配はなく、昼には晴れて三十度を越すそうだ。
「小秋さん、すげぇリラックスした顔してんな」
 侑志はダグアウトから、相手チームのベンチに目を遣った。小秋はチームメイトと談笑している。後ろに座っていた永田から、鋭い視線が飛んでくる。
「何で新田君が楓さんの顔知ってんの、って訊きたいとこだけど、情報源なんて一つしかないよね」
 富島が露骨に顔を背けた。あいつ本当はめちゃくちゃ要領悪いんじゃねぇか、と侑志は最近思い始めている。
 朝のグラウンドは既に熱の気配を見せていた。選手たちが足早に整列を始める。
 三日目の『夏』。プレイボール――。

 一回表。先攻は岩茂学園八王子高校。
 侑志の立ち上がりはお世辞にもいいとは言えなかった。むしろ最悪の類。
 先頭打者を初球から出塁させ、二番にそれはそれは綺麗な送りバントをされて一死一・三塁。その後も長打こそないものの堅実に打たれ続け、満塁のまま何とかチェンジをもぎ取った頃には、あわや打者一巡の二失点。
 気落ちして戻ったベンチでは、監督が眉を寄せながら『まぁこんなもんだろう』と言わんばかりの頷き方をしていた。罵倒されるよりかえって傷つく。
「岡本。いけるか」
「はい」
「じゃあ二回は頭から投げろ。新田はライトだ」
 少なくとも二・三回までは粘ろうと思っていたのに、この体たらくでは言い訳もできない。
 監督は侑志の顔を見て、めずらしくフォローらしきことを口にした。
「二回戦だろうと、負けたら終わりだ。出し惜しみしている余裕はない」
「わかってます」
「新田を打つことに集中させるのも、総力のひとつだ」
 侑志は返事をしなかった。
 先頭打者の三石(みついし)が、三振でもう戻ってくる。
「ダメだ~、速くないのに変な曲がり方する~」
 へろへろとベンチに座り込む三石。選球眼のいい彼がそうこぼすのだから、やはり岩茂学園中・元エースの名は伊達ではないようだ。
 器用な二番打者の相模も、平凡なゴロでアウトを取られている。
「新田。ちょっと」
 立ってスコアを記入していた朔夜が、振り向きもせず侑志を呼んだ。
 侑志は大人しく傍まで寄っていく。朔夜は視線をグラウンドと手元に向けている。
「さっき監督が『打つことに集中させる』って言ったとき、お前黙ったろ」
「すみません」
「怒ってるんじゃない。変わったと思っただけだよ」
「何がですか」
 話なら簡潔に済ませてほしい。三番打者の坂野がアウトにならないうちに。
「春の新田なら、多分ほっとした顔してただろ。投げなくていいなら気楽だって。でも、さっきは不満そうだった」
 坂野の打球がほぼ垂直に上がる。あれはダメだ。
 朔夜は予期される位置で鉛筆を止める。
「投手の自覚、出てきてんな」
「え――」
 捕手のミットに白球が吸い込まれる。
 スリーアウト。三人で走者も得点もなし。侑志はもう守備位置につかねばならず、朔夜の話を詳しく聞くこともできない。
 この状況で打席に立つのは、九番、小秋楓。
 二回表の結果だけ見れば、小秋はバッティングもこなすタイプのエースではなかった。というよりも、そもそも打つ気があるとは思えない。岡本の投げる球を、枠の内外にも頓着せず全て見送ったのだ。振ってもいない『三振』でベンチに戻った。
 その後、岡本も満塁のピンチを招いたが、崩れることなく無失点で二回の表を終える。
 侑志は走って、ベンチに戻ろうとする岡本に追いついた。
「小秋さん、動かなかったみたいですけど。何かあったんですか」
「わからない」
 呟いた岡本の横顔は、かすかに青白かった。
「でも、あの人。全然振らずに……ずっと笑ってた」
「笑っ……?」
 侑志は振り返る。マウンドには既に小秋が辿り着いていて、投手板を足ですりながら、やはり口の両端を上げている。
「ごめん新田、説明してあげたいことはあるんだけど、俺すぐネクスト入らないと」
「あ、す、すみません」
 打順は四番の森貞からだ。五番の岡本はもちろん、七番の侑志も油を売っている場合ではない。
 だが二回裏、打順は侑志まで回って来なかった。
 小秋楓は嬉しそうに楽しそうに、高葉ヶ丘の打者をまた三人で片付けた。見下した様子すらない快活な笑顔で。
 永田が昨日言っていた。
『強いんだか壊れてるんだか』。
 ――小秋楓は、どこかが決定的に、おかしい。
 自らも守備位置につかなければいけないことを忘れ、侑志はネクストバッターズサークルから、名残惜しそうにマウンドを後にする小秋をずっと見つめていた。

 三回表。高葉ヶ丘は数字だけなら一失点に留めたが、実質の被害は甚大だった。
 六番から三番まで七人。途中の九番・小秋の『見逃し三振』がなければ傷はさらに――いや、あのせいで岡本も余計に調子が狂ったのかもしれない。
 とにかく、犠牲が一点で済んだのは奇跡にも近い猛攻で疲弊を強いられた。
 裏の打順は七番の侑志から。この試合で、初めて小秋と相対することになる。一礼してバッターボックスに入った。
 小秋の様子は、先日岩茂学園八王子を訪ねたときと変わらない。他の打者のときと同じ。初対面のときと、全く同じ。
 先程ベンチを出る前、森貞がぼやいていた。
『ありゃあ、打者のこといないと思ってるな。意識してないっていうより、いるなんて思ってない』
『そうだな。こっちが振ろうが見送ろうが、憎たらしいほど表情変えなかった』
 相模も苦い顔で同意していた。
 今侑志が空振ったのも、駆け引きで誘い込まれたからではなく、単純に球についていけなかったから。小秋はきっと投げたい球を投げただけだ。
 多彩な変化球。抜群の制球力。打者に拘泥しない精神力。彼は確かに、永田のスタイルの究極の姿なのかもしれない。
 それでも。
 手元で伸びたストレートに対処しきれず、バットを泳がせながら侑志は痛感する。
 小秋は、永田とは違う。永田だって打者が誰でも関係ないと嘯くけれど、相手が人間であるということに対する敬意は常に持っていた。声高に主張しなくとも見ていれば分かる。
 互いに構え直す。三球目が来る。
 小秋は、違う。彼がああやってずっと同じように笑っている理由は、自信でも余裕でもない。
 他人の差異を認めようとしていないから。興味がないから。眼中にないから。
 どうでもいいものならば、警戒する必要がないからだ。
 侑志が全力でカットしたスライダーは、バックネットを派手に鳴らした。
 小秋は首を傾げた後、何事もなかったかのように、捕手から戻されたボールを大事そうに握った。見ているテレビの映りが一瞬悪くなっただけのような、そんな調子で。
 四球目はまたバットにかすりさえせずするりと逃げた。
 三回裏。七番新田、八番桜原、九番早瀬(はやせ)、三者凡退。

「さて、と。どう打ち崩したもんかね」
 四回の表が終わり、この回は無失点とはいえ三点離されてのビハインドゲーム。
 防具を外しながら森貞がぼやいた。手伝う岡本も硬い表情をしている。
「とにかく永田までは持たせます。打つにしろ投げるにしろ、後輩を守るぐらいの仕事はしないと」
 とはいえ岡本もかなりの瀬戸際で食い止めている。
 度重なる満塁のピンチに、いやらしいカットで球数がかさみ、さらに小秋の不自然な見逃し。強豪の戦法と言ってしまえばそれまでなのかもしれないが、侑志は岩茂八王子のやり口にアンフェアな印象を抱いた。
「あの人、永田を引っ張り出そうとしてるんじゃないですか」
 侑志はグラウンドを振り向いた。
 バッターボックスの三石はバットを不規則に揺らしている。空振る。
「よく知りませんけど。小秋さんって、チームメイトも相手選手も、野球を成立させる道具以上に思ってない感じがします。もしかしたら永田のことだって、自分のシナリオを盛り上げる役ぐらいにしか思ってないのかも」
 三石が打ち上げる。ファール。大きく頷いて、今度は余計な動きなしに構え直す。
「だとして、お前はどう思う?」
 監督が口を挟んできた。侑志は大人に言ってもいいものかどうか一瞬悩んで、結局とても率直な言葉を選ぶことにした。
「そんなの、許してる周りも許されてるやつもまとめてブン殴りたいでしょ」
 三石のバットが小秋のカーブを上手く殺した。三塁方向に落ちた打球は跳ねずに止まり、キャッチャーとショートが打球処理で戸惑う。小秋はただ突っ立っている。三石が一塁ベースを踏み、白球が遅れて届く。
 初出塁に高葉ヶ丘のベンチが沸く。
 朔夜がにやにやとスコアを記入する。
「したら先輩、先に一発殴ってきてやってくれよ」
「もちろんだよ朔夜さん」
 坂野がバットを手にダグアウトを出ていく。
「朔夜さんの前で野球を舐め腐るやつは、オレが絶対許さないから」
「おー坂野ちゃんこわ。こりゃオレらまで回るわな、新田ちゃん?」
 八名川が水を手渡してくる。侑志は礼を言って一気に飲み干した。
 小秋に動揺の色は見えなかったが、先に捕手がリズムを崩した。三石の二盗に相模のバントで一死三塁。坂野は宣言どおりヒットを放ち、三石が生還して一死のまま依然一塁に走者。
 三石と相模が口々に言う。
「あいつの球きっもちわりーけど、リズム合わせりゃ当てるこたできんよ」
「相手がいると思って投げてないみたいだからな。こっちも小秋を人だと思う必要はないぞ、機械だと思えば打てる」
 続く森貞も(鈍足で自身はアウトになりながら)走者を進め二死二塁。
「マジでオレまで来た」
 八名川が喜々として出ていく。次は侑志だが、どうにも嫌な予感がする。
 小秋楓は、永田が憧れたという絶対的エースは――かつての勢いを失ったとはいえ、たった四回で捉えられる程度の男なのだろうか?
 快音が響く。岡本の打球はセンターの好守備によって長打とならず、二死一・三塁で小秋は殊更嬉しそうに笑った。六番・八名川のバットはかすることもなく、侑志は勝負する場所に立たせてもらえないまま四回の裏が終わった。

 五回の表、岩茂八王子の打順は九番・小秋から。やはり彼は攻撃の素振りを見せず打席で微笑んでいた。三度目ともなると主審から注意がいったようだが、おざなりに動いたバットは球を追う意思が見えない。
 森貞が岡本に駆け寄る。ベンチからの伝令はない。侑志が一度、岡本も一度使っている。しのいでみせるから永田の分を取っておいてほしい、という岡本の強い希望で、内野手もマウンドに集まることはしなかった。
 上位打線に戻って、岩茂の一番打者が四球で出塁。侑志のいる外野からでも、岡本の球威も制球力も落ちているのが分かった。いつもなら一試合完投でも放らない球数。照り始めた陽射が地面を焼き体力を奪う。
 荒く上下する岡本の背には9。侑志の今いるライトこそが彼の居場所のはずだった。肩代わりしてもらって何もできない自分に侑志は奥歯を噛む。
 二番は八名川の好守備で切ったが、三番は止めきれなかった。三石の俊足で長打は防いだものの、二死一・二塁。打順は未だ四番。上がる打球。ピッチャーフライでチェンジ――のはずが。
 ボールをグラブに納める直前、岡本の膝が崩れた。
「三つ!」
 森貞が叫ぶ。セカンドの相模がスライディングで捕球、不自然な姿勢から精確なスローイングでサード坂野に送球するも結果はオールセーフ。
 投手・岡本のエラー。二死満塁。
 侑志はせり上がってきた胃液を飲み下す。
 代わる力があるなら代わってやりたかった。責められるならいっそ自分が負いたかった。マウンドで立ち上がることもできず、独り呆けている先輩を見ているぐらいなら。
 ベンチが動く。伝令かと思ったが違う。
 永田が、背番号1が、長年の相棒を連れてブルペンに入った。
「声出せ、ツーアウトだぞ!」
 森貞が声を張る。相模が岡本の左腕を取り、引っ張り上げながら野手に怒鳴る。
「埋めたぞ! あとひとつ、どっからでももぎ取れ!」
 岡本も腕で顔を拭い、右手を大きく突き上げる。
「ツーアウト!」
「ツーアウトぉ!」
 侑志たちも腹の底から声を返す。
 そうだ。自分の後に岡本がいてくれたように、岡本の後には永田がいる。二人が繋いだから永田が上がれる。一人がミスをしても、カバーしてくれるチームメイトがいる。絶望的と感じた状況を好機と思わせてくれる。
 侑志はまた唾を飲み込んだ。
 まだ終われない。相手が強豪だろうがその残りかすだろうが関係ない。必ず最後まで食らいつく。
 乗っ取らせない。俺たちは、高葉ヶ丘高校の野球をするんだ。
 五番の打球はピッチャー強襲のライナーだった。岡本は無理をせず避け、打球はノーバウンドでショート桜原のグラブに吸い込まれた。
 五回表。高葉ヶ丘、無失点。