5話 Taste Like Adolescence - 4/5

体育祭日和

「本日は天候にも恵まれ、絶好の体育祭日和となりました」
 桜原は雨の降りそうにない空を見上げて呟く。侑志は聞こえないふりをする。
 五月十五日。侑志たちは高校から徒歩圏内の陸上競技場に来ていた。高葉ヶ丘には大きなグラウンドがないため、こうして外部の会場を借りるのだ。
「いいから、早くシート敷こうぜ。席なくなっちまうよ」
 周囲の生徒は、もう砂利の上にレジャーシートを広げてくつろいでいる。
 侑志もナップザックからビニール袋を取り出した。
「ほら、この辺でいいか。テキトーに敷いちまって――」
 袋から取り出した拍子に、畳んであったシートの形が崩れる。一回二回三回四回、ぱたぱた回って地面に伸びる。侑志は愕然とシートを見下ろした。
 桜原が怪訝な顔で侑志の手元を指差した。
「新田のシート……デカくない?」
 侑志は黙って、縦に折ってあったシートを横にも開いてみた。控えめに見積もっても、大人が四・五人はゆったり座れそうだった。
 桜原が念を押す。
「デカいよね?」
「デカい」
 侑志は観念して頷く。ろくに確かめもせず、親族で花見したとき使ったブルーシートを持ってくるのではなかった。レジャーというより工事現場の感がある。
「どうしようこれ」
「どうって座るしかないでしょ、それしか持ってないんだったら」
「折って使うか……」
 侑志は早くも憔悴してサイズ調整を始める。最適な面積に折り畳もうにも、大きすぎて持て余す。
「うぉっ、いいなぁ新田のやつ。入れてくんない?」
 井沢が小走りでやってきた。肩にはいつものくたびれたスポーツバッグ。
「妹のしか見つかんなくてさぁ。持ってきたんだけど見ろよ、ケツしか入んねぇ」
 井沢は赤いチェックのレジャーシートを広げて見せた。サイズ以前にファンシーなくまさん柄は男子高校生として差し障りそうである。
「つったって、さすがにクラスまたいで敷くのはまずいだろ」
「隣なんだし後ろの方だったら分かんないって! なっなっお願い」
 拝まれた。助けてやりたいのはやまやまだが……侑志はカリカリとシートの縁をひっかく。
 黙って聞いていた桜原が、鞄から出した袋を井沢に渡す。
「使いなよ。俺、新田に入れてもらうから」
「マジで? ありがと桜原ー、超助かる!」
 井沢はシートを開いて具合を確かめている。半透明でサイズは半畳ぐらい。荷物を置いて座るだけなら充分だろう。
 だが井沢は眉を寄せてシートを見つめている。
「まだちっちゃい?」
「いや、これ」
 引っくり返して指差す先。
 はげかけたマジックの文字は『5の3 桜原朔夜』。
「コータぁ! オメ私のレジャーシート持ってったろ」
 タイミングよく持ち主が現れた。弟がむっとした顔を向ける。
「朔夜が間違えたんじゃん。俺、残ってた方持って来ただけだもん」
「っだよっ」
 朔夜は毒づいて、銀色のビニール袋を弟の胸に押し付けた。井沢が苦笑して姉弟のシートを交換する。
「どぞ、コレ朔夜さんのっす。んじゃ桜原、こっち借りてくわ。あ、よかったらウチの使っていーから」
 井沢はむくれたままの朔夜の背を押し、A組応援席に戻っていった。
「新田さぁん」
 桜原がかわいらしいシートを手に侑志を睨み上げる。侑志は目を合わさずブルーシートを敷き始める。
「何すか、桜原さん」
「昨日から朔夜の機嫌が悪いんですけど」
「知りませんよ」
「またケンカでもしたんじゃないんですか」
「またって何だよ。ケンカするほどの仲じゃねぇし」
「しゃあしゃあと言うよね」
 桜原は横を向き、小さく鼻を鳴らした。侑志はシートのしわを伸ばす手を止め立ち上がる。
「大体、何で最初っから俺のせいって決めてかかってんだよ。本人に聞いてもいないのにあんま適当なことばっか言っ」
 台詞の途中で突風が吹いた。青空色のシートが舞い上がり侑志の横面を張る。そのまま首に引っかかってはたはた揺れている。
 ――あー、あー、ただいまマイクのテスト中。
 放送部の声が遠い。
「ぶはっ」
 桜原が吹き出した声がした。
「ごめん。八つ当たりだった」
 侑志から離れて飛んでいこうとするシートを、桜原の手がつかまえる。差し出されたものを、侑志も表情を和らげて受け取る。
「俺も、でかい声出してごめん」
 実は当たらずしも遠からずなんだ、とは言わずにおいた。
 あらためてシートを敷き直し、二人でスニーカーを履いたまま足を出して座る。
 それにしても、と侑志は口許に手をやる。
 桜原と険悪になったのは初めてかもしれない。姉はともかく、弟はあまり我を張らないのに。それだけ打ち解けてきたということなのだろうか。
 傍らにいる桜原を盗み見る。桜原はオレンジ色のハチマキを左手に載せて、右手でぐるぐる回している。三年生から『ハチマキを左手首に巻くように』と指示が出ているのだが、上手く結べないらしい。手を出すとまたお母さん呼ばわりされそうなので、放っておいてA組の席に目をやった。朔夜は友人らしき眼鏡の女子と談笑している。
 侑志も琉千花の助言どおり、朔夜と普通に接しようと思っていた。だが部活はないし、わざわざ教室まで行くのも不自然だし、と言い訳を重ねて、きちんと話し合わず今に至っている。
「ていうか、いつまでやってんだお前」
 オレンジ色はまだ桜原の左手首を回り続けていた。まるで自分の尻尾を追いかける犬だ。
「できない」
「どうせパフォ午後イチじゃん。ひとまずこうやっときゃいいだろ」
 侑志は自分のハチマキをつまんだ。ネクタイの要領で首から提げている。桜原は無理難題を吹っ掛けられた顔だ。
「俺、中学も学ランだったからネクタイわかんない」
「わかった。もう左手出せ」
 侑志はため息をついて、桜原の手首にハチマキを巻き付けてやった。
 高校最初の体育祭が、人の世話から始まるとは。

「もーやだー、男子やばんー」
 騎馬戦で敗退を喫した桜原が帰ってきた。自分も男子なのに随分な言い様である。クラスTシャツを手にする間も愚痴はやまない。
「大体なんで脱ぐのか意味わかんないんだけど」
「つかまれて首締まると危ないからだろ」
「合理的理由あったんだ……ただの性差別かと思ってた」
 侑志も実際のところは知らない。出まかせで納得されてしまい気まずいので、親切面で麦茶を注いでやった。
「おーうはら。おっつかれー」
 また井沢がやってきた。桜原の肩にだらっと腕を回している。
「朔夜さんも騎馬戦なんだろ? 一緒に応援しようぜ」
「俺、B組ですけど」
「自分の姉ちゃんだろ? イチジキューセン、ってヤツだよ。なっ」
 調子のいい奴だ。桜原も同じ感想らしく肩をすくめた。体育祭自体を疎んじている彼のことだ、本音はどこが勝とうと興味はあるまい。
 男子の決勝が終わり、A・B組の女子が配置につき始めた。侑志は朔夜の姿を捜して視線を巡らせる。あの体格ならまず下だろう。左手に負担はかからないだろうか? 手首を少し捻っただけでも大変なのに。
「新田はどっち応援すんの?」
 侑志は息を止め、首を左斜め下に向けた。井沢はまっすぐに侑志を見上げている。急に頭に血がのぼって、侑志はつい井沢の頭を押さえつけた。
「アホか、B組なんだからB組に決まってんだろ!」
「いってぇっ、ちょ、やめっ、これ以上縮めんなって、マジで!」
 井沢は両手をばたつかせて暴れた。桜原が肘でつついてくる。
「新田さんはウチの姉とは他人ですもんね。どうぞ僕の分までB組を応援なさってください」
 変にねちっこい口調だ。侑志は井沢から離した両手を重ねて、しおらしくうなだれる。
「桜原君こそ、御身内とこのようなことになり、心苦しいことかと存じますが」
「いいえ、とんでもない。これも運命にございます」
「痛ましい心中お察しいたします」
「何やってんのお前ら。気持ちわりィよ」
 井沢にばっさりと切られて腹の探り合いは終わった。
 桜原は姉に近寄る男に厳しい。下手を踏めば坂野と同じ扱いになる。とにかく朔夜に対する好意は隠さねばならない。そこまで考えたところで侑志ははっとして、一人で首を振った。
 いや、別に、好意とかそういうんじゃないけど。
 念のため。
「さっくやさぁあああああん!!」
 はるかD組応援席から聞こえる絶叫。嫌悪感丸出しな桜原の横顔を見つつ、侑志は思う。
 いや、ホント、アレとは絶対違うから。
「あそこじゃん?」
 井沢が指差した先に朔夜がいた。
 騎馬の右脚だ。騎手は朔夜の左腕をまたぎ、彼女の右手の上に立っている。朔夜が先頭を務める方がバランスはいいはずだが、左肩に触れられるのを避けたかったのだろう。それでも表情は不満そうだった。
 号令。出陣。騎馬が加速する。砂の音が高くなる。入り乱れる騎馬の群れに朔夜の姿が見え隠れする。直前まで甘ったるい声で不安がっていた少女たちが、猛々しい雄叫びを上げて突進していく。
 井沢が青い顔で後ずさりした。
「女の騎馬戦って、キョーレツ……」
「確かにこっちの方が出たくないな。男はつかみ合い殴り合いはするけど、つねったり引っかいたりはあんまりしないもんね。髪も引っ張らないし」
 桜原はやけに冷静だ。侑志も真顔で返す。
「引っ張れるほど髪長い男って、そんないねぇしな」
「それに、男の方が頭髪の尊さを知っているから」
「そして女の方が正攻法のバカらしさを知っているから、ダーティプレーに走るわけだな」
「もうやめて、現実なんて知りたくない!」
 井沢が涙目で耳を塞ぐ。
 直後、危ないと誰かが叫んだ。もみ合っていた騎馬の一方が体勢を崩す。倒れた先は朔夜たちの騎馬。上の生徒が降る。肘が朔夜の顔面を直撃する。
 桜原はくぐもった悲鳴を上げて両手で鼻を押さえた。朔夜も顔の下半分を覆ってうずくまっている。
 井沢が低い声で呟く。
「朔夜さん、鼻血出てねぇ?」
 言われてみれば、朔夜が口許に置いている手はところどころ赤い。
 侑志は背筋を粟立たせた。
 まさか骨をどうこうしたのではあるまいか。鼻の軟骨など簡単に折れてしまう。中学のとき、柔道部の試合で骨折したクラスメイトは、全治まで一ヶ月かかった。最悪、鼻の形が変わってしまうことだってありえるのに。
 朔夜がのっそり立ち上がった。左手は顔に置いたまま、心配そうに声をかける周囲の生徒を右手で制す。天を仰いで鼻をすすり上げる。
「なぁ、おい。鼻血って吸っちゃいけないんじゃ」
 侑志は言いかけて、その先を喉の奥に失った。
 朔夜は親指の付け根で乱暴に鼻を拭い、血の混じった唾を吐き出した。空いた片腕で荒々しく顔を擦る。視線は鋭くフィールドを眺め渡している。
 朔夜は落ちてきた少女に声をかけ、小さく頷くと彼女の肩を一度叩いた。そのまま救護テントに向かって大股で歩いていく。
 侑志は朔夜の姿をひたすら目で追う。
 足取りに頼りないところはない。揺るぎなく伸びた背骨、白いTシャツ越しに分かる肩甲骨の隆起。思索でもするように鼻に添えられた左手、ジャージのポケットに突っ込んだ右手。短い髪が初夏の陽光を照り返し、額に巻いた赤いハチマキが風に流れる。
 井沢が胸を押さえて呟いた。
「ヤベぇ。惚れるかも」
「舎弟になる的な意味で?」
 桜原は心底訝しそうに尋ねる。
 何がどうというのでもないが井沢が言ってくれなかったら侑志は危なかったかもしれない。何がというわけでもないが。
 桜原が眉をひそめて歩き出した。
「俺、ちょっと様子見てくる」
「あっオレもっ」
 井沢が追いかける。侑志はためらった後、駆けていって二人の腕をつかんだ。
 桜原も井沢も驚いた顔で振り返る。
「大丈夫だろ自分で歩いてたし保健委員いるんだしどうせ午前のプログラムこれで終わりだしさっ」
 ひどい早口になってしまった。二人の静かな非難が刺さる。
「つったって、すごい勢いでぶつかってたよ?」
「新田は朔夜さんのこと心配じゃねぇのかよ」
 侑志は赤面しながら目を閉じる。
 心配じゃねぇわけねぇじゃん。
 そうじゃなくて、だから、その。
「お、女のコは鼻血出してるトコとかあんま見られたくねーんじゃねぇかなっ!」
 鎖骨についてしまうほど顎を引いて叫んだ。
 反応はない。恐る恐る目を開けると、二人は何とも言い難い顔をしていた。思わず手を離したら、両側からぽんぽんと肩を叩かれる。
「じゃあ朔夜のことはとりあえず置いといて、観戦を再開しましょうか。紳士の新田君?」
「な、何だよその言い方」
「そろそろ決着ついたみたいだぜ。紳士の新田クン」
「だから何なんだよ!」
 侑志は二人に引きずられて元の場所に戻っていく。
 女子騎馬戦一回戦、どうやらB組が完敗したようだ。
 青春の味がする

「終わった……! これで朝昼放課後踊ったり怒鳴られたり怒鳴られたり怒鳴られたりする生活からは解放されるんだ」
 昼休みを挟み、パフォーマンスプログラムを終えた桜原の顔は晴れやかだ。侑志としても、もう日に日に小さくなっていく桜原を見なくていいと思うと安心する。
「あ、A組のパフォ始まりそう」
 戻る道で桜原が足を速めた。侑志も後を追う。
 グラウンドの中心では既にA組がスタンバイしている。
 前の半分は教師や審査委員のいる特別席を向いて、それより後ろの列は生徒たちがいる応援席を向いていた。
「井沢遠いね。救護テントの前だ」
「八名川先輩は?」
「審査員席の前。完全にパフォ長が得点狙いで置いたよね」
「あんな目の前にいたら、かえって全体を見てもらえないんじゃねぇの」
「隊形変えたとき、にゃーさんが中心に来るようにしてるんだよ。きっと」
「視線誘導? プロかよ」
 周囲の思惑に反して、八名川自身はアピールする気が薄いようだった。審査員に選ばれた女生徒たちが熱い視線を送っているのに、視線を落として首の後ろをかいている。侑志もつられてうなじに手をやる。
「俺モテたことねーから分かんねぇけどさ。ああやって勝手に騒がれるのって、本人的にはどうなんだろうな」
 複数の女子に言い寄られたところで、応えられる程度などたかが知れている。報いてやれない、自分が望まない想いをいつもかけられているというのは、どんな気持ちなのだろう。
「さぁ。俺も、モテたことないから分かんないな」
 桜原は手首のハチマキをいじりながら呟いた。演目も終わったことだしもう取りたいのだろう。ほどいてやってから、侑志は朔夜の姿を捜した。
 いた。真ん中辺りに立っている。鼻血はもう問題なさそうだ。時折ポンポンを持った手を額にやったり、眉をひそめたりしている。眩しいのだろうか。
 午前中の朔夜は赤いハチマキを雄々しく額に巻いていたが、今はカチューシャのように前髪の上から斜めに結んでいる。白いクラスTシャツには、赤い字でスローガンの『Cheer Us!』。下に穿いている紺のプリーツスカートは、どうやらセーラー服らしい。ウエストで折ってあるのか、随分と丈が短い。
 桜原がやけに苦々しげに言う。
「脚太いなぁ」
「そんなことねぇだろ」
「そりゃあ新田に比べたら細いでしょうけど」
 桜原は大げさにため息をついて肩をすくめた。侑志は顔を赤くして反論する。
「何で俺と比べんだよ、比較対象として間違ってるだろ。タッパも違うしそもそも性別が違うんだから、そんなの赤と黄色どっちが青い? って言ってるようなモンで」
「あの地面のならし方さー、完全にチアガールじゃないよね。投手板の土払ってるときのアレだよね」
「無視か!」
 怒ってはみたもののそれ以上の文句も出て来ず、侑志は朔夜に目を戻した。
 しきりに片足で地面をこすっている。グラウンドはそれほど荒れているようにも見えない。癖なのか。
 朔夜の表情はまだ険しい。前にいる女生徒が振り返って声をかけた。朔夜は目を丸くした後、ぎこちなく口許を緩める。
「やっぱ笑ってる方がかわいいよな」
 音楽が大音量で流れ出し、侑志の呟きをかき消す。何か言いかけた桜原も、黙って演技を見始めた。
 朔夜は弟よりずっとリズム感があるようで、音楽に合わせて上手くポンポンを揺らしている。だが動きは控えめで、表情にもいつもの自信がない。
 見たことないな、こんな顔、と思う。
 一緒に汗を流し同じ道を帰る中で、さまざまな顔を見てきた。マネージャーとして、投手として、打者として、野球部の最古参として、監督の娘として、桜原皓汰の姉としての、朔夜。毎日机を並べているクラスの女子のことは全然知らなくとも、朔夜のことならそれなりに知っているつもりだった。
 だが侑志は、二年A組の生徒としての朔夜をほとんど知らない。勉強が苦手でノートを取らないところも、意外とダンスが上手いところも、そのくせ緊張してしまうところも、部活では見られない。侑志は一つ年下だから。
 どうして、それが。
 女子が一斉に黄色いポンポンを投げ上げた。中空で咲き誇る紅花畑。朔夜は落ちてきた二輪を器用にキャッチして、少しだけ得意げな顔をした。
 そんなことがどうしてこんなに、――しいような、気がするのだろう。
 立ち去ろうとする侑志に気付き、桜原が振り返る。
「新田?」
「便所行ってくる」
 侑志は早足で、グラウンドのずっと端にあるコンクリートの小屋を目指す。
 薄暗いトイレに入ると、ちょうど二曲目が始まった。琉千花が好きだと言ったあの甘い声の歌だった。個室にこもって耳を塞ぎ、B組の曲を口ずさんでA組の曲を塗り潰そうとした。ここしばらく飽きるほど聞いた曲も歌えるほどは覚えていないと思い知り、侑志は天井を睨んだ。薄汚れていていかにも陰気だ。
 なんだか急に馬鹿馬鹿しくなった。
 一応手を洗ってトイレを出る。急な光量の変化に眉を寄せる。
 パフォーマンスはまさにクライマックスで、組体操のタワーが完成しようというところだった。朔夜はやはり下だろう――騎馬戦のような事故がなければいいのだけれど。
 侑志はB組の応援席に駆け戻る。尖塔は危なげない均衡で空へ向かっていた。

 体育祭は終わりに近づき、侑志も出場するクラス対抗リレーを残すのみになっている。
 入場門に向かう途中で、侑志の背中に何かが思いきり飛びついた。
「にーったぁ、がんばろーなっ」
「く、び、が、し、ま、る」
 井沢を振り払い、侑志は後ろに引っ張られたTシャツの襟を直した。
「つーかお前、リレーの選手じゃねぇだろ」
「さっき大縄跳びでケガ人出たじゃん。だから――」
「井沢!」
 誰かが井沢の肩に手をかけた。朔夜だった。
「補欠お前だって? しっかりやれよ」
「はい、頑張ります! 朔夜さんも頑張ってください」
「おうよ」
 朔夜は井沢の頭を撫で回した。ふと侑志と目が合い、真顔になる。鼻白む侑志には何も言わず、朔夜はふいと離れていってしまった。
 青いジャージを穿いた姿が、初めて会ったときの印象と重なる。彼女にとって自分は、あのときよりずっとつまらない、声をかけるに値しない存在になってしまったのだろうか。
「朔夜さんも女子の代表なんだぜ。あの人、足速いだけじゃなくて位置の取り方が上手いから」
 井沢は何故か胸を張っている。侑志は彼の背中に拳をぶつけて黙らせた。
「俺、A組にはぜってえ負けねえからな」
 威圧的な視線を向ける。井沢は一瞬面喰らったようだが、すぐに挑発的な目で侑志を見上げた。
「受けて立つけど? オレら優勝かかってるし」
「どうでもいいんだよそんなの、どうせウチはもう最下位なんだから。俺は『お前に』負けたくねぇの!」
「ふーん、オレ、結構速いぜ」
「うるせぇよ。俺のがコンパスあるし」
「知らねぇし。オレ瞬発力あるし」
「俺、持久力あるし」
「半周じゃねぇかよ!」
 吠え合っていたら三石がやってきて、まだこんなトコにいたの、と自分のことを棚に上げて驚いていた。
「三石センパぁイ! オレと新田どっちが速いと思います?」
「ちょっお前ズルくねぇ? そういうの訊くのナシだし!」
 事実かはともかく、ここで『井沢だよ』などと言われてしまってはテンションが下がる。侑志は井沢を押さえつけた。
 三石はばたばた騒ぐ後輩たちを気にした風もなく、簡潔に答える。
「走ってみれば分かるんじゃねぇの」
 至極真っ当な意見だった。井沢と侑志は口ごもる。
 三石は自分を指差しながら、さらりと続ける。
「っていうか、オレがいる方が勝つし」
 もう完全に黙るしかない。
「つか思ったんだけど、『ミツイシセンパイ』って長くね? ミツでいーよ」
 三石が歩き出すと、左手首に巻いたオレンジのハチマキが風になびいた。
「試合中『センパイ』とか長ったらしくて言ってらんねーし、ウエシタっぽくて寂しいとかリューさん言ってたし、ちょっと気んなった」
 あ、でも、別に悪くないよ、ちょっとだけだよ、と三石は振り返り親指と人差し指の間に空間をつくった。侑志と井沢は顔を見合わせて笑う。
「じゃあ、ミツさんって呼んでもいいですか」
「おう、呼んで呼んで」
 三石はぱっと明るい表情になる。
「じゃ、ニッさんとイザさんって呼べばいい?」
「あの、それはちょっと」
「ふつうでいいです」
 そんな車のメーカーのような呼び方をされてたまるかというのだ。 
 先に女子のリレーが始まり、陸上部のエースがいるとかいうE組の圧倒的勝利で終わった。区間内では朔夜が一番速かった。
 男子も入場し、第一走者が位置につく。B組はA組より内側のレーン。井沢の背中が前の方に見える。侑志は両手の先を白線の後ろにつく。口の中で呟く。
 ――負けねぇし。
 スタートの号砲が鳴った。井沢はトップスピードに達するのが速い。一気にトップに躍り出る。侑志も加速してフリーゾーンで射程圏内に入れる。井沢が視線だけで振り向く。だが一瞬。以後は侑志の存在を無視するように走る。
 侑志は舌打ちする。カーブは抜きづらい。下手に抜こうとしても邪魔される。大回りすれば追いつけなくなる。わずかな直線で勝負をかけるしかない。
 A組の第二走者がテイクオーバーゾーンに入った。三石も第二レーンにつく。前ぎりぎりだ。首を軽く回すと、三石はいきなり駆け出した。侑志の喉から声にならない悲鳴が漏れる。
 いつもよりスタートが速い。このままの調子で走っていたら、三石はバトンを受け取る前に決められた区域を出てしまう。そうなればその場で失格だ。何としてでも間に合わせなければ。
 井沢を押しのけ前に出た。三石の背中に追いすがる。隣を走って届かなかった背中。三石が右手を後ろに出す。侑志はその手のひらにオレンジ色のバトンを叩きつけた。三石はバトンを左手に持ち替えると同時、爆発的に加速した。走るというより発射されたような勢いで。
 トラックの内側に退避した侑志は、左腕で額をこすった。
「なぁ井沢、ドングリの背比べって知ってる?」
「オレらのことだろ」
 井沢は肩で息をしながら投げやりに言った。
 三石は他の走者を寄せつけもしない。彼がいる方が勝つ、というのも誇張ではなさそうだ。
 侑志は首の汗をシャツの襟で拭い、応援席を眺めた。
 何十メートルも離れた朔夜と目が合う。朔夜は目を背けなかった。侑志も視線を逸らさずに見ていた。不思議と決まり悪さはなかった。
 第三走者が通過し、朔夜の視線がそちらに向いてしまうまで、侑志はずっと彼女を見つめて続けていた。

 カラフルなチョークで『☆おつかれさま☆』と書かれた黒板、何枚も写真を撮り合う生徒たち。教室は体育祭の余韻で満ちている。
 侑志と桜原は、すっかり塞がれた出入り口を遠巻きに眺めている。かき分けて出て行くほど野暮ではないが、参加するほど熱心でもない。適当な椅子を拝借して、団体様が移動するのをただ待っている。
「まだ、あっつい」
 桜原は黒いTシャツの裾をばたばたと振った。いつもは学生服を着ている生徒たちも、今日に限ってはラフな私服だ。自分ばかり真面目な格好をして来るのではなかったと、侑志はワイシャツのボタンを三つ外した。普段はここまで開けはしないのだが、いかんせん暑いのだ。
「二人とも、打ち上げは行くの?」
 完全に気を抜いていたところに琉千花がやって来て、桜原は慌てて腹を隠した。侑志は背もたれに預けきりだった上体をのったり起こす。
「明日も部活あるからなぁ。桜原も行かないっつーし、やめとく」
「そっか」
 琉千花は苦笑した。もう帰るのと訊かれ、侑志は頷く。申し訳ないような気もするがいまさらだ。
「じゃあ新田君も桜原君も、手、出して」
 琉千花が両の拳をぐっと前に突き出した。
「今日はお疲れさまでした! 甘いもの食べて、しっかり休んでくださいっ」
 窓からの光を照り返し、白い粒が侑志と桜原の手のひらに零れ落ちる。いちごミルクの飴だった。
「また明日ね!」
 琉千花は空っぽになった手を振って、女子の輪にひらりと戻っていく。
 たかが飴数粒、されど飴数粒。
 包みにはまだ琉千花の体温が残っている。あの小さな手の熱が。侑志はいちご柄を握りしめ、落ち着かない気分でポケットに突っ込んだ。
「あれ、新田しまっちゃうの?」
「後で食うわ」
 雰囲気で一瞬くらりと来てしまったが、侑志はいちごが苦手なのだ。加えて言うなら甘いもの自体あまり得意ではない。自分で食べたいのはやまやまだが、どうしたものか。
「俺は食べようかな」
 桜原はピンク色の砂糖の塊を口に入れた。からころ転がす音がする。侑志は横目で桜原を見る。
「どうすか」
「青春の味がします」
「上手いこと言うね」
 侑志にはちょっと糖度が高そうだ。
 入口が空いてきたので、桜原と一緒に教室を出た。階段を下りる。昇降口のベンチに朔夜が座っていた。
「随分開けてんな」
 朔夜が指を差す。その示す先が自分の襟元だと気付き、侑志は慌ててボタンを上まで留めた。桜原は姉と侑志の顔を交互に見てから、右手を軽く挙げた。
「俺なんだか急にお腹が痛くなりました。何なら先に帰ってください」
 棒読みで言い残すと、さっと踵を返してすぐそばのトイレに向かっていく。侑志はよほど引き留めたかったのだが、口実が見つからず結局行かせてしまった。
「新田」
 朔夜が立ち上がり、外を指して顎をしゃくった。侑志は靴を引っ掛けただけで追いかけ、彼女が今にも開けようとしていたガラス戸に手を伸ばした。朔夜の頭越しに上体だけで押し開く。
「ありがと」
 朔夜は軽やかに外に出た。鼻先をかすめた黒髪からは、汗とシャンプーの匂いがした。侑志は頬を赤くして扉から手を離し、靴の踵を直した。
 刺すようだった陽射は随分と和らぎ、生徒たちの影もグラウンドにいたときより長く伸びている。
 侑志と朔夜は柱の脇に並んで立った。
「朔夜さん、鼻だいじょうぶスか」
「全然平気。Tシャツは汚しちゃったけど、どうせあんなの今日しか着ないしな」
「なんか、もったいないっスね。あんなのわざわざ作って、着るのは一日だけなんて」
「だからみんな、終わったらパジャマにすんだよ。世界で百二十人しか持ってない記念パジャマ。レアだろ?」
「それならいいかも」
 侑志は控えめに笑った。朔夜はお愛想のような笑顔を浮かべてから、ふっと真顔になった。
「リレー見てるときにさ。友達に、何でそんな優しい目してんのって言われて」
 話が見えない。侑志は目をしばたかせる。朔夜はずっと遠くを見ている。
「おばあちゃんみたいだよって。そんとき、あー、新田もこんな感じだったのかなぁ、って思った」
 朔夜の視線を追ってみた。これといって見るべきものも見当たらない。裏門からばらばらと出て行く生徒たちが目に入るぐらいだ。その辺りに何とか意味を見出そうとしていると、朔夜が首を左側に捻った。侑志は一拍遅れて右を向く。朔夜と目が合う。ひどくやわらかく笑っていた。
「夢中になってる人を見守ってる目だよね。きっと」
 ――みんなの戦ってる姿見て、俺、マジで感動しました。ありがとー。
 三年生の教室から、どこかの組の団長らしい男子生徒の声が降って来る。
 ――こんなに一つの目標に向かって頑張れる仲間に出逢えたの、ホントに幸せだなって思います。体育祭は終わったけど、卒業まで、まだまだ力合わせていくぞー。
「あそこまでじゃないけど」
 朔夜は三階を遠慮がちに指差して、肩をすくめた。侑志はぎこちない微笑を返した。あれぐらい言ってもらえるようになりたい、とちらりと思う。
「朔夜さん。全然関係ない話なんですけど、俺、こないだ親父に、お前は野球の女神様に恋をしてるって言われたんです」
「してんの?」
「親父が言ってるだけですよ。振り向いてもらうために頑張れって」
 侑志は念を押してから、怒られることを覚悟で続けた。
「俺は、何となく野球の神様って男だと、ずっと思ってて」
「私はどっちでもいいと思うけどなぁ」
 朔夜は気のない声で言って、柱に身体をもたれさせた。
「新田がそういうの信じたいんだったら、別にいいけど。お父さんの例え話、そんなに真に受けることないんじゃん?」
 朔夜は左手で、自分の耳の下から顎までを撫でた。汗を拭う動作に似ていた。
「新田の自由だからさ。新田は新田が頑張りたいもののために、頑張ればいいよ」
 そうだろ、と朔夜は首を傾げて侑志を見た。そうですよね、と侑志は汗ばんだ手のひらをズボンで拭く。
 父さん、やっぱり俺、野球の女神様には興味ないよ。俺が見ててほしいのは、自分の目の届く範囲にいる人たちなんだ。同じ高さで見守ってくれる人たち。
 俺は、この人たちのために頑張ろうって、思う。
「あげる」
 朔夜が唐突に左拳を突き出してきた。侑志は反射で右手を出す。色も素っ気もない包みが降ってきた。どこにでも売っているようなのど飴だ。
「食べれる?」
 朔夜に顔を覗き込まれ、侑志は上擦った声で、はいと答えた。
「いただきます」
 苦し紛れに飴を口へと放り込む。ハッカの匂いが鼻から抜けた。
「朔夜さんって、こういう味の方が好きなんですか? その、甘いより、からい方が」
「ん、別にどっちでも。なんで?」
「前にもハッカの飴勧められたことあったなって」
「そうだっけ。まぁ、これはにゃーが分けてくれたヤツだから」
 侑志は飴を噴き出しそうになった。かちんと歯の裏に当たる。痛い。
「ヒトに回しちゃダメでしょ、それ。八名川さんに悪いじゃないですか」
「いいんだよ、二個もらったんだから。オスソワケってやつだよ」
 開き直った口ぶりで、朔夜は侑志に寄越したのと全く同じ袋を開封した。
 小さな袋に顔を寄せて、器用に吸い上げる。その口唇のやわらかな動きに、侑志の胸は高鳴った。無意識に飲み込んだ唾は、ほろ苦くて涼やかだった。
 ああ、青春の味がする。